瞬は城戸邸の庭の片隅にいた。
城戸邸の庭には似合わない。だが、その か弱げな姿からは想像もできない たくましさやしぶとさが好きなのだと言って、瞬が種を撒き作った小さなコスモスの園。
その たくましく しぶといコスモスたちを見詰めていられる石のベンチに、瞬は腰をおろしていた。
両の肩を落とし、膝の上にはエリスから押しつけられた指輪の入った例の小箱を置いて。
雨や風ごときには負けないはずのコスモスが打ちひしがれているような その風情に、紫龍は、瞬が仲間たちに何かを隠して悩んでいるのではないかという疑惑を一層深めることになったのである。

「瞬」
龍座の聖闘士に名を呼ばれ 顔をあげた瞬の瞳が、いわく言い難い佇まいで 仲間の顔を見上げてくる。
それは、いつもの瞬らしい春の暖かさを たたえていなかった。
夏の激しさや冬の厳しさは、もとより瞬の属性ではない。
瞬は正しく秋の瞳に――冬の厳しさに耐える準備をするための季節の瞳に――仲間の姿を映していた。

「瞬。何か、俺たちには言いにくい事情があるんだろう? でなければ、誰にも渡さずにいればいいだけの指輪を、おまえが あんなに懸命に俺たちに受け取らせようとするはずがない」
「紫龍……」
瞬が微かな笑みの中に、自分が抱えている“事情”をごまかし隠そうとしていることを察し、紫龍は すかさず続く言葉を瞬に畳みかけた。
「瞬。オッズ30でも俺を仲間と思うなら、本当のことを話してくれ」
「あ……」

瞬が、それまで言わずにいたことを紫龍に告げる気になったのは、もちろん紫龍が瞬の大切な仲間だったからだろう。
そして、それ以上に――その秘密を仲間に知らせても知らせなくても もはや事態は変わらないという諦観のせいだったらしかった。
「僕が永遠に誰も選ばずにいて争いが起きないことを防ぐためなんだと思うけど、あの指輪、3日以内に誰かに受け取ってもらえないと、逆の力が僕の上に降りかかることになってるの。注意書きに そう書いてあった。72時間が期限だって」
「逆の力とは――」
「僕が戦いには必ず負ける 最も不運な聖闘士になるっていうことかな……」
あまり取り乱した様子もなく、むしろ穏やかに、静かな口調で瞬が告げる。
しかし、告げられた紫龍の方は、穏やかでなどいられなかった。
彼は、彼の逆鱗に触れた敵に対するより激した声で、瞬を怒鳴りつけたのである。

「なぜ、それを先に言わないんだ! 戦えば必ず負けるだと !? それがどういうことか、おまえはわかっているのか!」
聖闘士が戦いに必ず負けるということは、場合によっては、死を意味する。
そんな大変なことを、なぜ瞬は自分の仲間たちに隠していたのか。
それは、瞬一人にとってだけでなく、瞬と共に同じ戦いを戦う仲間たちにとっても、命にかかわる重大事だった。

「だって……指輪の力で勝利を得るなんて、僕の仲間ならみんな不名誉なことだと考えるだろうと思ったんだもの。実際、その通りだった。僕、自分の身を守るために、そんなことをみんなに無理強いできないし――」
そう言って顔を伏せてしまった瞬を、紫龍は、『命と名誉のどっちが大事なんだ!』と怒鳴り責めてしまいたかったのである。
だが、怒声を発する直前で、彼は思いとどまった。
これは、瞬にとっては『命か、名誉か』という問題ではなく、『自分か、仲間か』という問題なのだ。
そして瞬は、自分自身より仲間を選んだ。
それは瞬らしい――実に瞬らしい選択だった。

「エリスがおまえに指輪を渡したのは――」
「3日前の朝。もう3日は過ぎたよ」
「いや、あれは確か10時を過ぎてからだった。星矢が10時のおやつを食っていたからな。ああ、そんなことはどうでもいい。今すぐ、その指輪を俺によこせ」
「紫龍、でも……」
兄より氷河より星矢より、紫龍は、名誉を重んじる男、自らに加えられる恥辱を断固として退けようとする聖闘士である。
聖域ブックメーカーのオッズ30は、そういう紫龍の価値観を考慮に入れて設定された値なのだと、瞬は思っていた。

その紫龍が、
「俺の名誉や面目より、おまえの身の方が大事だっ」
と叫び、不名誉を形にしたようなエリスの指輪を自らに引き受けようとする。
「紫龍……」
紫龍が その指を不名誉の輪という枷で拘束する様を見て、瞬の瞳には涙が盛り上がってきてしまったのである。
「ばか、泣くな。どうということもない、ただの指輪だ」
おそらくは、幸運という名の不名誉を仲間に負わせることになった瞬に気を遣って、紫龍が指輪をはめていない右の手で 瞬の髪を撫でてくる。
その手があまりに優しく温かかったので、瞬の瞳は更に新たな涙を生むことになったのだった。






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