そうしようと思えば、ノヴォシビルスクでもクラスノヤルスクでも――それどころか、ペテルスブルクやモスクワに出て、そこで暮らすこともできなくはない。 たった一人の肉親だった母親を失い天涯孤独になった身を、生まれ故郷の小さな村に縛るものは何もないのだから。 村にいる若者たちは皆、ただ一人の例外もなく、50年前、100年前と何も変わっていないような村の風景に飽き飽きし、都会に憧れている。 それでも氷河が 自分の生まれた村を出ていこうとしないのは、そこが自分の生まれた場所だから――ではなかった。 素朴に過ぎる村での生活に満足しているからでもなく――人でひしめき合う都会の生活というものに魅力を感じることができなかったから。 もちろん、だからといって、この小さな村での暮らしに全く不満がないというわけではない。 だが、華やかな都会でも、電気も通っていないような辺鄙な村でも――完全に満足できる生活を営むことはできないという点では、両者にどんな違いもないだろう。 そうなのであれば、母と暮らした思い出のある土地を あえて離れる必要もない。 その程度のことだったのだ。 自分には何かが足りないと、いつも感じてはいた。 しかし、氷河がその欠如感を覚えるようになったのは、たった一人の肉親だった母を失ってからのこと。 当然、その欠如感は母以外の誰かに埋められるものではない。 一生、その欠如感を抱えて生きていかなければならないのなら、自分が生きる場所はどこでも同じ。 そう考えていた――考えざるを得ない――せいもあった。 人に気に入られようとか、他者と協調し親密度を増そうとか、そういったことを氷河は考えたこともなかったのだが、他の若者たちのように都会への憧れを口にしない氷河の態度を、村の大人たちは好ましく思っているようだった。 「都会に出ていけば、望むものが手に入るというわけではないんだからな。野心や希望を持って親を捨てて都会に出ていったとしても、現実は厳しいもんだ。結局、尾羽うち枯らし疲れ切って故郷に帰ってくるのが関の山。それなら最初から住み慣れた故郷の村で平穏に暮らしていた方が よほど利口というものだろう」 そんなふうな理屈で。 氷河にしてみれば、それは、怠惰や覇気のなさを褒められているようなもので、だから氷河は大人たちに利口者と褒め讃えられても少しも嬉しくなかったし、もちろん得意がったりもしなかった。 ただ、都会に出たがる若者たちを非難する大人たちは、もしかしたら若い者たち以上に、辺鄙な村での生活にうんざりしているのかもしれないと思うだけで。 彼等は、自分がもう若くないということを自覚し、諦め、それゆえ行動を起こせないだけなのだと感じるだけで。 数年前、ロシア皇帝アレクサンドル2世が農奴解放令を出したことによって、ロシアの農奴制は撤廃された。 農民も、漁師も、猟師も、今は生まれた土地や領主に縛られることなく、自由に自分の生きたい場所で生きていくことができる。 だというのに、日々の生活に不満をかこちながら、諦観ゆえに、変化を求める若者たちを愚かと断じたがる大人たち。 彼等は勇気を持てないだけなのだ。 そんな大人たちに『おまえは賢明だ』と褒められたところで喜べるはずがない。 かといって、まるで流行りの熱病に侵されたように、都会に行けば何もかもが上手くいくと信じ込んでいる若者たちも、楽観的すぎて気持ちが悪い。 もっとも、氷河は、この村でいちばん救い難い人間は、生も死も、幸も不幸も、希望も諦観も大して違わないものと考え、どんな望みも野心も持っていない自分という人間だと思っていたが。 氷河は、人間というものが それほど好きではなかった。 だが、人は一人では生きていけない。 氷河は、海や山で自分を養っていけるほどの食料を手に入れることはできたが、たとえば狩りや漁をするための道具を自分で作り出すことはできなかった。 衣類や、生活に必要な細々した日用品も。 作ろうと思えば作れるのかもしれなかったが、それには長い時間をかけて 熟練の技術を習得しなければならず、そんなことをするくらいなら、物作りに長けた者の品と、自分が捕えた獣や魚と交換した方が はるかに手っ取り早い。 氷河は、村人たちとの間に適度に距離を置き――親しくなりすぎない程度の距離、干渉されすぎない程度の距離を置き、村という社会から つかずはなれずに暮らしていた。 どんな希望も野心もない自分が生き続けているのは、ただ死ぬことを面倒だと感じているからにすぎないのではないかと思いながら。 |