そんな氷河が同居人を持つことになったのは、母を失ってから数年が経った年の冬。
冬といっても、熊がそろそろ冬眠に入るかどうかという頃――冬のごく初めのある日のことだった。
その日、仕掛けておいたウサギの罠の様子を確かめがてら 薪を調達しようと考えて、森の中に入っていった氷河は、そこでウサギでない生き物を見付けることになったのである。
森でいちばん大きな樹の根方に うずくまり倒れて、それ・・はいた。

最初は、ごく普通の人間に見えた。
子供か、痩せた少年。あるいは、痩せすぎた少女。
手足の細さからして、歳はせいぜい10代半ばと思われた。
既に大地は白一色。
それは広く枝を張っている大樹の下でも変わりはない。
その雪の上に、それは身体を丸めるようにして横たわっていた。
この季節に信じられないほどの薄着で。
この辺りの住人なら、初雪以降に外套なしで外に出るなどという無謀をする者は まずない。
氷河は、それを、どこか別の土地――おそらく ここより南方の土地から流れてきたジプシーの行き倒れかと思ったのだった。
少し前なら、領主の横暴に耐え兼ねて 農園から逃げ出してきた農奴と察していただろう。
農奴解放令以前は、領主に鞭打たれて死ぬくらいなら 行き倒れて死んだ方がましと考えた哀れな農奴が少なくなかったと、氷河は聞いていた。

「おい、生きているのか」
声をかけ、その細い身体を揺さぶってみる。
それは少女ではなく少年のようだった。
幸い まだ凍え死んではいない。
彼は氷河の手の下で微かに身じろいだ。
それでわかったのである。
周囲が白い雪で覆われているせいで すぐには気付くことができなかった、その生き物の姿の奇異に。
その行き倒れの生き物の背には、雪と同じ色の一対の翼があったのだ。

背に翼を持つ生き物の絵は見たことがあった。
村に一つだけある小さな教会には、聖母と大天使ガブリエルの絵があった。
生前 母が かなり無理をして手に入れてくれた2、3冊の絵本でも、旅人の守護者であるラファエルや 悪魔を駆逐するミカエルの絵を見たことがある。
氷河が森で見付けた行き倒れは、それらの天使と同じ純白の翼を 痩せた背に備えていたのである。

人間が翼を持っているはずはない。
では これは天使なのかと自分に問えば、氷河は否と思うことしかできなかった。
天使などというものが本当に存在するとは思えない。
よしんば存在したとしても、こんな場所で行き倒れているはずがない。
だから、この翼は作りものなのに違いないと、氷河は思ったのである。
都会では、曲馬乗りやピエロや猛獣が芸をする興行が流行っているということだった。
最近では、普通の人間や見慣れた動物の芸では目新しさに欠けるというので、不思議な生き物や奇矯な姿をした人間に芸をさせるようなこともしているらしい。

氷河の暮らす小さな村にも、数年に1回、ごく小規模の見世物の巡業がやってくる。
2、3台の古ぼけた馬車を連ねてやってくる興行主の顔は その時々でいつも違っていたが、馬車に乗せられているものたちは どれも似たり寄ったりのものだった。
南国の獣や尻尾のある人間(らしきもの)、小人や巨人。
南国の獣は檻の中で北国の寒さに震えていたし、尻尾のある人間の尻尾は よく見れば こしらえもの。
小人や巨人は、尋常の人間より小さすぎるか大きすぎる身体を持つだけの ただの人間。
それでも娯楽らしい娯楽のない村の子供たちは、見世物巡業がやってくると聞くと、皆 目を輝かせて浮かれ始める。
それは毎年ではなく数年に1度だけやってくるものだから飽きられることなく続いている興行なのだろうと、村の子供たちの楽しそうな様子を見るたび 氷河は思っていた。
この行き倒れは おそらく、そういう見世物巡業で、尻尾ではなく翼を無理矢理くっつけられた人間。
そういう見世物から 逃げてきた人間なのだろうと、氷河は察したのである。

本物の天使なら放っておいても平気だろうが、普通の人間ならば打ち捨ててはおけない。
ただ黙って 彼が目を覚ますのを待っていても自分が凍えるだけと考えて、氷河は彼を自分の家に運ぶことにしたのである。
だが。

これまで氷河は華麗で優美な天使の絵しか見たことがなかったので、有翼ということがどういうことなのかを考えたこともなかったのだが、人間の身体に翼がついているということは、とんでもなく不便なことだった。
まず、その身体を抱き上げるために背中に腕をまわすことができないのだ。
当人の腕をいっぱいに伸ばした幅より長く大きい翼は半ば閉じられていたが、むしろ だからこそ背中全体を覆っていて、翼を押し潰すまいとすると、横抱きにはできない。
仕方がないので氷河は、その身体を自分の肩に担ぎあげ、獲物と薪を運ぶために引いてきていたソリまで運んだのだった。

有翼の不便はそれだけではない。
その天使もどきの身体を運ぼうとして気付いたのだが、少年は いわゆる“服”を着ていなかった。
背中に大きな翼があるのだから、彼が普通の衣服を身に着けることができないのは当然のことである。
彼は、濃緑色のマフラー状の薄い布を身体に巻きつけて、それを服の代わりにしていた。
自分は どうして これまで、人間と同じ服を着た天使たちの絵を不自然と思わずにいられたのかと、氷河は自分の迂闊に驚いてしまったのである。

ともあれ、ウサギや薪を運ぶよりは はるかに気を遣って、村はずれにある自分の家――といっても、かろうじて丸太小屋ではないという程度のものなのだが――に運び入れ、その身体を寝台に横たえることができた時には、氷河は大きな仕事を一つ やり遂げた安堵感で、長い溜め息を洩らすことになったのだった。
もっとも、その身体を寝台に横たえる時にも、翼を押し潰してしまわないように側臥の姿勢をとらせるための一工夫が必要だったが。
そうして、その際に、氷河は初めて、自分が苦労して運んできた荷物が尋常でなく美しい生き物だったことに気付いたのだった。

雪色の翼と同じ色をした頬は、暖炉の火がある部屋に運ばれて、徐々に温かい色を取り戻しつつあった。
薄い茶色の髪は やわらかい絹糸のようで、唇は 色づき始めた薔薇の花びらのよう。
眉、瞼、鼻、頬――人の顔を描く ありとあらゆる線が、子供ではなく大人でもない者の面立ちを形作るものとして完璧。
『天使の面差しを思い描け』と言われた人間が、その脳裏に思い描く通りの線と面で、それは形成されていた。
この天使の瞳を、1秒でも早く見たい。
天使の寝顔の清らかさに目をみはりながら、氷河は、焦れるような気持ちで そう思ったのだった。

氷河の願いが叶えられたのは、それから小1時間が経った頃。
望んでいたものを ついに その視界に映すことができた時、氷河は、森の中で彼の背に翼があることに気付いた瞬間よりも強く大きく驚嘆することになったのである。
人が、これほど澄んだ瞳を持ち得るものなのかと。

彼が目覚めるまで、彼がその目を開けるまで、氷河は彼を人の手によって作られた紛い物の天使だと思っていた。
彼が目覚め、その澄んだ瞳を認めた瞬間には、これは本物の天使だった思った。
だが、その天使が自分を見詰め――寒村の貧しい狩人にすぎない男を見詰め、
「本物の天使がいる……」
と小さな声で言った時、氷河は彼が何ものなのか、全くわからなくなってしまったのである。
天使が冗談(あるいは皮肉?)を言うことがあるなどという話を、氷河は聞いたこともなかったから。
天使もどきは、だが、どうやら冗談を言ったのではないらしかった。
氷河の背に翼がないこと、自分の目覚めた場所が天国とは程遠い様相を呈していることに気付いて、
「そんなことあるはずない……」
と呟いて、がっかりしたように顔を伏せてしまったところを見ると。
おかげで彼に正体を問うタイミングを逸してしまった氷河は、自分の寝台の枕元で、大いに きまりの悪い思いをすることになってしまったのだった。

やがて偽物の天使が(人間の)氷河の存在に気付き、慌てたように、
「す……すみません。僕ったら……」
と、謝罪してくる。
「僕……どこかの森に迷い込んで、どうすればいいのか わからなくなって、それで、あの、このまま いつまでも眠っていたいって思って、大きなモミの木の下で眠って――あの、あなたが僕をここまで運んでくださったんでしょうか。ここは あなたの家? すみません。ありがとうございます」
「あ、いや……」
自分は、いつまでも眠っていたいと望んで眠っていたものを無理に――あるいは勝手に――こんなみすぼらしい家に運び込んでしまったのだろうか。
天使の翼と瞳を持つものには、冬のシベリアの寒さなど恐れる必要もないものなのだろうか。
紛い物の天使の気弱げな謝罪と謝礼は 氷河を戸惑わせた。

「その上、あなたは ちゃんとした人間なのに、天使だなんて……。本当にすみません。あなたが あまりに綺麗な目をしてらしたから、僕、やっと本物の天使様が僕を迎えにきてくれたのかと思ってしまったんです」
「……」
“本物の天使”――。
わざわざ“本物の”と修飾語をつけるところを見ると、彼はやはり 本物の天使ではないのだろう。
そう考えるしかない状況に追い込まれてしまった氷河は、落胆と安堵の気持ちに同時に襲われた。

「おまえは天使ではないのか」
「僕は――僕は、あなたとは違うものです」
「それはわかるが」
氷河が頷くと、彼は悲しそうな目と声で、
「そうですね」
と言い、その瞼を伏せてしまった。

細い身体――腕も脚も肩も細い。
自分とは明確に違うものだが、かといって彼を敵と見なすとこは、氷河にはできなかった。
たとえ敵だったとしても、彼は人に危害を加えることなど 到底できなさそうな様子をしていたのだ。
身体だけでなく、声も表情も周囲の空気も印象も、それは同様だった。
異形のものだが、恐れの感じようがない。
何より彼は美しすぎた。
清楚で可憐、清潔。
その清らかな佇まいは侵し難いほど鮮烈で、彼に天使のそれと同じ翼をつけることを考えた何者かの気持ちが、氷河にはわかるような気がした。

「おまえ、名前は」
「瞬といいます」
「瞬。俺は氷河だ。で、俺は、おまえをどこに送っていけばいいんだ?」
まさか天国まで送ってくれとは言うまい。
この偽の天使の住処さえわかれば、その正体も おのずからはっきりする。
はたして そこはヴィクター・フランケンシュタイン博士の後継者の家か、サーカスの天幕の中か。
氷河には その程度の推察しかできなかったのだが、瞬の答えは そのどちらでもなかった。
瞬は、
「僕も 僕が行くべき場所を探しています」
と悲しそうに告げてきたのだ。
「行く場所はありません」
と。

そして、氷河は、瞬のその答えを、おそらく喜んでしまったのである。
少なくとも氷河は、『そんなはずはないだろう』と瞬を問い詰めることはしなかった。






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