決して裕福なわけではないが、日々の食事に困るほど困窮しているわけでもない。 行く場所がないと言っている者を、冬のシベリアに放り出すわけにもいかない。 まして、天使の姿をしている者に そんな無慈悲なことをしたら、神の怒りを買ってしまうかもしれないではないか――。 瞬を自分の家に留め置くための理由なら、いくらでも思いついた。 そして、瞬は、翼があることと 本物の天使のように美しいこと以外は、完全に普通の人間と同じで、氷河は瞬との生活にどんな不便も不都合も感じることはなかったのである。 むしろ、母の部屋、母の寝台、母の椅子が空っぽでなくなったことが、氷河の心を明るいものにしくれた。 瞬の翼は、瞬の両腕より長く大きく、それゆえ視界に入れないことは不可能だったが、氷河はあくまでも普通の人間として、瞬に接した。 瞬も ごく普通の人間として振舞い続けた。 そうして、以前の氷河なら とても可能とは思えなかったこと――否、人間なら誰も可能だとは思わなかったこと――人間と天使が共に暮らす日々が、静かに穏やかに 二人の上を過ぎていったのである。 瞬の背にあるものを できる限り意識せず、普通の人間として接する暮らしの中で、一度だけ。 二人が出会って半年ほどが過ぎた恐ろしく晴れた初夏の日に、雲ひとつない青空を見上げ、 「おまえは飛べるのか」 と、氷河が瞬に尋ねたことがあった。 半ば以上 冗談で――つまり、僅かに本気で。 氷河は、普段は瞬の翼のことを なるべく気にしないようにしていたのだが、それだけは確かめておきたかったのだ。 「ええ」 一瞬間 ためらってから、瞬が頷く。 そして、瞬は、その白い翼を広げ、羽ばたかせ、大空に舞い上がった。 瞬の身体は どんどん高みに向かって上がっていく。 最初のうち、氷河は、瞬の飛翔が信じられず、ただ あっけにとられて空を見上げていることしかできなかった。 翼は飛ぶためにあるもの。 それは不思議なことでも何でもなく、むしろ飛べない翼こそが 何のために存在するのかと問われるべき奇矯なものだったというのに。 空に舞い上がった瞬の身体は、見る見る小さくなっていく。 それが空を行くヒバリよりも小さくなってしまった頃に、氷河は突然 異様に激しい不安に襲われ、空に向かって叫んでいた。 「瞬! 瞬、行くな! それ以上遠くへは行くな! 瞬、戻ってきてくれ!」 このまま瞬がどこかへ飛び去ってしまったら――胸も潰れてしまいそうな恐怖に、氷河は囚われていた。 幸い、その声は瞬に届いたらしく、まるで氷河のその声を待っていたかのように すぐに、瞬は氷河の許に戻ってきてくれた。 緑の大地に着地した瞬の身体を抱きしめ、その温もりを確かめてからやっと、氷河は自分が瞬を失わずに済んだことに安堵することができたのである。 「氷河……?」 瞬は、氷河を一人残して どこかに飛び去るつもりは 全くなかったのだろう。 物も言わずに居候の異形のものを きつく抱きしめて離そうとしない氷河の腕の中で、瞬は当惑したような声を洩らした。 名を呼ばれ、はっと我にかえり、氷河はきまりの悪そうな目を瞬に向けることになったのである。 「す……すまん。おまえが あのままどこかに飛んでいってしまうのではないかと、不安になった。飛べるかと訊いたのは俺の方なのに、どうかしている。すまん」 「氷河……」 「すまん。まさか本当に飛べるとは――。あ、いや、こんな晴れた日に空を自由に飛べるというのは、さぞかし爽快なことだろうな。人間など、大地に縛りつけられ、うごめいている蟻のようにしか見えないんだろう」 初めて訪れた街で 母を見失い取り乱している子供のような醜態をさらしてしまったことを ごまかすために、氷河は無理に笑顔を作って、瞬に尋ねた。 瞬が、暗い表情で首を横に振る。 「恐いだけだよ。空なんて。あんな広いところに たった一人でいるなんて」 「だが、自由だ。人からも、人の作る汚れた塵界からも、大地すら おまえを縛ることはできない。空にいるおまえは完全に自由だ」 瞬が自由であることが 瞬を失う可能性と同義なら、自由なんて糞食らえだと、胸中で氷河は思っていた。 言葉にはしなかった氷河の思いを読み取ったわけではないのだろうが、瞬が、 「僕は自由なんて望んでいない」 と、氷河に告げてくる。 きっぱりと そう言い切ってから、瞬は、だが、すぐに小さく首を横に振った。 「ううん。やっぱり望んでいるのかもしれない」 それは 俺の側にはいたくないということかと、氷河は思わず瞬を怒鳴り問い質したくなったのである。 だが、そういうことではないようだった。 「翼は枷なの。僕に一人で生きることを強いる枷」 瞬が望む自由は、氷河との生活からの解放ではなく、瞬の身体の一部である翼からの解放のことであるらしかった。 「これまで、僕が訪れた町では、人々は 僕を天使だと言って有難がったり、化け物だと言って虐げたりした。いちばん多かったのは、見世物にするために僕を捕まえようとする人たちで……。翼があったから、そういう人たちから逃げるのは簡単だったけど、僕を仲間として受け入れてくれる人は一人もいなかった。人が大勢いるところなら、誰か一人くらいは僕を仲間として受け入れてくれる人がいるんじゃないかと期待していたけど、甘かった。だから、僕は町から逃げてきたの。自分と同じものがいないって、どんなに恐ろしいことか、氷河に わかる?」 「いや……」 かなり長く考えてから、最終的に氷河は瞬に否定の答えを返した。 氷河は 人と馴れ合うことは好まなかったが、自分とは全く違うことを望む村の住人たちを――若者たちも大人たちも――自分と違うものだと思ったことは一度もなかったのだ。 「都会では今、個人主義とかいう考えが流行ってるの。富を手に入れ 政治に参加することができるようになって社会というものの構成員になった人たちが、今度は、自分が社会を構成する部品であることに飽き足りなくなって、自己の確立とか自己実現とかいうものを望んで、自分は他の人とは違う特別な存在だって証明するために躍起になってる。自分が他の人たちと同じだと詰まらないって考えて、彼等は、唯一無二の自分になることを望んでるの。でも、そんな望みを持つ人たちは、自分が他の人と同じだから――だから、そんな贅沢な望みを抱くことができるんだよ。実際に、自分と同じものが一人もいない状況になったら、特別な自分になりたいなんて、そんな望みは誰も抱かないに決まってる」 「贅沢な望み?」 瞬が口にした言葉を反復して、氷河が その言葉の真意の説明を瞬に求めたのは、瞬がその『贅沢な望み』を良くないものと考えているように見えたから――だった。 瞬が、縦にとも横にともなく 首を振る。 「ううん。彼等は気の毒な人たちなのかもしれない。自分と同じ人たちを、仲間と思いたくないなんて気持ちに支配されてるんだから。そんなに自分を特別なものだと思いたいのなら、自分が属してる集団から出てしまえばいいんだよ。それで、その人は 何にも属さない特別な自分になることができる。なのに あの人たちは集団の外に出ようともせず、その中に留まって、その集団の中で 自分が他人より多くのものを持っているとか、才能を持っているとか、美しいとか、そんなことで自分は他の人と違うと言い張ってる。自分が誰かと同じと思われることに不満を感じてる。――特別な自分って、そんなに大切なこと?」 以前の氷河なら――瞬に出会う前の氷河なら――それを『贅沢な悩み』と断じ 非難する瞬に、どんな抵抗もなく賛同できていたかもしれない。 特別な自分――そんなものを求めて、いったい何になるのかと。 だが、今は。 「俺に言わせれば、全く逆だがな。おまえは、自分が唯一無二の存在だから――そのことに絶対の自信を持っているから、他人と同じものになりたいなんて 贅沢な望みを抱けるんだ」 「贅沢な望み? 僕の望みが?」 それは瞬には思いがけない意見だったらしく――人類の大部分が その望みの叶った状況下にあるのだから当然だろうが――瞬は その瞳を大きく見開いた。 反論しかけ、だが、結局 その言葉を呑み込む。 代わりに瞬は、老人の溜め息のような穏やかな呟きを口にした。 「“自分”という個人が存在する意味を求めたり、“自分たち”という集団が存在することに意味があると思いたがったり―― 一匹狼になりたがったり、仲間を求めたり、ほんとに厄介なものだね、人間って。――心を持っている者って」 瞬が『人間』を『心を持った者』と言い換えたのは、自分を“人間”の範疇に含むことに気後れを覚えたからだったのだろう。 そんな瞬が痛ましく感じられて、だが そんな瞬の心を癒すための どんな力も持っていない自分に腹が立って、氷河は 音がするほど強く奥歯を噛みしめた。 瞬に悟られぬよう気を遣って気色ばんでいた氷河に、瞬が寂しげな笑顔で尋ねてくる。 「氷河の望みはどっちなの? 氷河が欲しいのは仲間? それとも、特別な自分?」 問わずにいてくれればいいものを――と、正直 氷河は思ったのである。 が、問われたからには、答えを返さないわけにはいかない。 そして、嘘を言うわけにもいかない。 氷河は、瞬に嘘はつきたくなかった。 「どちらも望んだことはなかったな。以前は。俺には 自分が生きていくのに最低限必要な仲間はいたし、自分を特別な人間だと思いたいという気持ちを持ったこともなかった。人様に迷惑をかけることなく生きて、そして死ねれば、それでいいと思っていた」 「氷河みたいに綺麗な人は、都会に行ったら、それだけでたくさんの人の注目を集める特別な人間になれるのに。人は やっぱり、自分が持っていないものを望むんだね。氷河は、仲間と特別な自分と、両方を持っているから、何も望まないの」 「その理屈でいったら、俺がとんでもなく恵まれた自信過剰の大馬鹿者ということになるじゃないか。俺だって母が生きていた頃は――」 「お母さんが生きていた頃は?」 「あの頃の俺は、彼女の特別な存在でありたくて、一生懸命 いい子の振りをしてたんだ。そのたび失敗ばかりしていたような気がするが、マーマはいつも笑って許してくれた。マーマが死んでからだ。自分がどんなものであっても構わないと、俺が思うようになったのは」 「そう……」 あの頃と同じ気持ちが、おまえに会ってから俺の中に蘇ってきた――と、氷河は つい瞬に言ってしまいそうになったのである。 おまえにとって特別な俺になりたいと、俺は今は願っている――と。 氷河が そう言うことができなかったのは、瞬のせい――否、それは やはり氷河自身の自業自得だったのだろう。 これまで決して語ろうとしなかった自分の身の上話を 瞬が語り始めたのは、氷河に大切な人の死を思い出させてしまったことに罪悪感を覚えたらしい瞬が、その代償を支払おうと考えたからのようだった。 「僕は、物心ついた時にはサーカスにいたの。その時にはもう、僕の背には翼があった。父も母も知らない。だから、翼だけじゃなく、僕の命自体が作り物なんじゃないかと思ってた時期もある。僕はそこで天使として見世物にされてた。僕の翼に触ると天国に行けるっていう触れ込みで。僕の翼に触れるために支払う代金は100ルーブル。お金で入れる天国ってどんなところなのか、僕には わからなかったけど――代金が高額だったから、僕の翼に触れた人たちはみんな、本気で天国への切符を買ったつもりになってたみたいだった。ほんと、不思議だね。僕自身は、僕が何者なのかも知らないのに。作り物の人形なのか、本物の天使なのか、畸形の人間なのか――」 「瞬……」 瞬自身ですら、自分が何者であるのかを知らない。 それは もしかしたら衝撃的なこと、驚くべきことだったのかもしれない。 瞬に出会い、瞬に惹かれ始めていた頃の氷河だったなら、その事実に衝撃を受け、瞬に向かう自身の好意の意義に迷い始めていたかもしれない。 だが、その心が既に動かし難いものになってしまった今となっては、それは、春になると どこかで鳴き始めるヒバリの歌のように、どんな影響力もない美しく悲しい事実でしかなかった。 「ただ一つ、確実なことは、そのサーカスの中にいた時も、そこを逃げ出してからも、僕を仲間だと認めてくれた人は ただの一人もいなかったっていうことだけだよ。親切な人も、信心深い人も、冷たい人も」 「おまえはこうして言葉も話せるし、心もある。俺とどこが違うというんだ」 「言葉も話せる。心もある。怪我をすれば、赤い血も流れる。そして、翼もある異形のものだよ」 瞬は切なそうに笑って、自分は“人間たち”とは違うものだと言うが、だが、それが何だというのだろう。 人の心を気遣うことができ、人によって傷付き、一人でいることを寂しいと感じ、人によって その寂しさを癒してほしいと望む心を、瞬は持っている。 その心以外に何が――人と人が仲間であるために、心以外の何が必要だというのだろう。 「人は皆、似ている。だが、誰もが違っている。髪の色や目の色や、面立ちそのもの。外見はそっくりの双子だって、性格や才能は違うだろう。おまえの場合は、たまたま翼があるだけで――」 「そんなふうに言ってくれるのは氷河だけだよ」 悲しそうに嬉しそうに微笑して、瞬がそう言う。 氷河も嬉しくて悲しい気持ちになった。 瞬にとって自分だけが特別な存在であることは嬉しい。 だが、自分だけでは瞬の心の寂しさは満たされないのだという事実が、氷河は悲しかった。 |