標準スタンダード






無風にして降雪のないブリザード。
もし この地上に そんなものが存在し得るとしたら、今の氷河がまさにそれだと、星矢は思った。

静かなのである。
少なくとも、声を荒げるようなことはしない。
そして、穏やかなのである。
少なくとも、喜怒哀楽等の感情を その表情にも態度にも表わすことはない。
しかし、氷河と氷河の周囲の空気は 殺伐としていた。
目に見えない氷でできた無数の針が、氷河の周囲半径2メートル以内の空気の中に びっしりと埋め込まれているかのように、ただ見ているだけでも痛みを感じるほど、氷河は殺伐としていた。

その理由は不明。
まさに一触即発状態といっていいほど氷河の心を緊張させているものが何なのか、星矢は まるでわかっていなかった。
ただ一つ はっきりしていることは、静かで穏やかで、だが 凍てつき殺伐としている氷河のブリザードの攻撃に天馬座の聖闘士が さらされているということ。
つまり、氷河の原因不明の不機嫌が生む氷の針の攻撃にさらされているのは、城戸邸において、星矢 ただ一人だけだということだけだった。

「星矢。昨日も言ったはずだ。ゴミはゴミ箱に入れろと。おまえには記憶力も学習能力もないのか」
「おまえはどうして音を立てずに飲み物を飲めないんだ。それは同席している者に不快感を与える行為だ。マナーにも公共心にも欠ける振舞いだぞ」
「ポテトチップスをつまんだ手で、ドアノブに触れるな。おまえには他人の迷惑というものを考える想像力がない」
「そもそも おまえはジャンクフードを食い過ぎる。メタボの聖闘士なんて見られたものじゃないぞ。そんなことになったら、自己管理能力の欠如が疑われるな」
それはちょっとした――ごく些細な小言にすぎなかったが、そんな些細な小言も、1日に50回も繰り返し言われていれば、十分にストレスになる。
氷河が口にする小言は、ある意味 至極尤もな非難で、極めて真っ当な正論であり、非があるのは星矢の方だったので、星矢は氷河に言い返すこともできない。
その事実がまた、星矢のストレスを更に大きく重たいものにしていた。

「もともと 人当たりのやわらかい奴じゃなかったけど、最近の氷河は ぎすぎすしすぎだろ。潤いがないっていうか、ゆとりがないっていうか。あれってヒステリーの一種じゃないのか。氷河の奴、何か欲求不満を抱えてるんだ。こうなると、氷河の小言は いじめの域に達してる。つーか、明白にいじめだ。超陰湿ないじめ!」
クリスマスも近い師走の城戸邸ラウンジには、ジングルベルのメロディの代わりに、星矢の悲鳴が響いていた。
既にクリスマスツリーが飾られているだけに、その不調和振りは いっそ見事と言っていいほどで、星矢の泣き言を聞かされている瞬としても、この不調和をどうにかしたいという気持ちは たっぷりあったのである。
しかし、問題は、星矢に対する氷河の非難には理と道義があり、氷河のいじめを何とかしてほしいと訴えている星矢には それがないということだった。

「でもね、星矢。お掃除の人が捨ててくれるからって、目と鼻の先にゴミ箱があるのに、平気でゴミをテーブルやソファの上に放っておくのは、やっぱりよくないことだと思うよ。星矢は、三度の食事の他にジャンクフードを食べすぎなのも本当のことだし。氷河はきっと星矢の身体のことを心配してくれてるんだよ」
非難の口調に優しさを欠いている面はあるにしても、氷河は正しく、星矢は間違っている。
当然 氷河を責めるわけにはいかなかった瞬は、氷河の非難を受けとめる星矢の意識を変えるべく努めるしかなかった。
仲間の説得を試みる瞬のその言葉を聞いた星矢が、だが、自信満々で首を大きく横に振る。
「俺がこれから先10年間に食べるポテトチップス全部 賭けてもいいけどさ。氷河は俺の身体のことなんか、これっぽっちも心配してねーよ!」
「そんなことは……ねえ、紫龍」

星矢の確固たる自信への対処に困って、瞬が紫龍に協力を求める。
しかし、その紫龍にも、被害者にだけ非がある訴訟の扱いは なかなか難しいものだった。
「アテナの聖闘士なんてのは、もともとストレスの溜まる商売だろう。俺たちは、そのストレスをバトルで晴らしていたところがある。だが、ここのところ、敵襲が途絶えているからな。ストレスを発散する機会が与えられなかったら、当然ストレスは溜まっていくばかりで――氷河は、おまえの あまりよろしくない生活態度を攻撃することで、そのストレスを発散しているのかもしれん」
「敵さんが来てくれないから、氷河は あんなだっていうのかよ! それって、新しい敵が来るまで、俺は氷河に いじめられ続けるってことじゃん。そんなの、いくら何でも俺がかわいそうすぎるだろ!」
「……」

自分を かわいそうだと訴える人間の姿が、第三者の目に“かわいそうな人間”と映ることは滅多にない。
“かわいそう”な星矢の訴えを聞いた紫龍は、僅かに その口許を歪めることになったのだが、自分をかわいそうと信じている星矢は、そんなことには委細構わず 自らの苦境苦衷を仲間たちに訴え続けた。
「この調子で氷河にいじめられ続けてたら、いくら素直ないい子の俺だって、気持ちがひねくれちまうぞ。へたすると、いじめられ死にする。そんな事態を避けようと思ったら、俺は氷河に反撃するしかなくなる。そんで、俺と氷河が戦って、俺が勝っても、氷河が勝っても、聖域は一人分の戦力を失うことになるんだ。そのせいで、この地上が邪神に滅ぼされるようなことになったら どーすんだよ! そんなことになるのを防ぐためにも、氷河と氷河のいじめをどうにかしてくれよ! それが地上の平和と人類の存続を守ることにもなるんだ!」

氷河の1日50回の小言は、星矢の中にかなりのストレスを生んでいるらしく、仲間たちに訴える星矢の表情は悲痛そのもの。
そんな星矢の訴えを聞かされた紫龍と瞬が思ったことは、実は、「『おまえには想像力がない』という氷河の非難は、全くの見当違い」ということだった。
星矢は間違いなく、豊かな想像力の持ち主である。
ただ、ドアノブが油で汚れていたら、次にそのドアノブに触れる者が不快を覚えるということを想像できないだけで。
その点に関してだけ、氷河の非難は完全に間違っていると、星矢の仲間たちは思ったのである。

「そうだな……。非が星矢にあるのは厳然たる事実だが、氷河にも大人気ないところはある。氷河に、バトル以外に何かストレスを発散できるような趣味でもあればよかったんだが……。何かなかったか」
星矢の豊かな想像力に免じて(?)、紫龍は星矢の行状だけを一方的に責めることは思いとどまることにした。
そして、事態解決のための方策の模索を始めたのである。
“かわいそうな”星矢のために。
だというのに、紫龍の その呟きに いの一番で文句をつけてくるのが、他ならぬ“かわいそうな”星矢なのだから、事はすんなり進まなかった。

「趣味? それって、一日中パソコンにかじりついてたり、電車の写真を撮るために電信柱に登ったり、迷彩服を着てサバイバルゲームに興じたりすることか? 俺、そういうのって感心しないんだよな。少なくとも俺たち聖闘士の趣味ってのは、食うことと寝ることと身体を鍛えることであるべきだと、俺は思うんだよ」

星矢が一般人の趣味というものに抱いているイメージは偏りが過ぎ、また、彼が聖闘士の趣味として推奨する事柄は、正しく趣味ではない。
それらは むしろ、人が生きることそのもの。命を持つ者が その命を維持存続するために必要な義務といっていいものである。
もちろん、星矢が飲食や睡眠を義務としてではなく楽しみとして遂行することに、星矢の仲間たちは異議を唱えるつもりはなかったが。

「星矢の認識って、ちょっと変だよ。普通、趣味っていうのは、音楽鑑賞とか、読書とか、バトルじゃないスポーツとか、そういうものなんじゃないの?」
「うむ。パソコン関係、鉄道関係、軍事関係は、一般人の趣味というより、オタクの分野だろう」
それと氷河のストレス発散が どう結びつくのか。
なぜ話が そういう方向に進んでいくのかが 解せない。
そういう顔をして、瞬と紫龍が星矢の言に訂正を入れる。
しかし、星矢は、そういった細かいことには(?)こだわらないたちだった。
彼はとにかく、まず自分が言いたいことを言い、自分がしたいことをするのである。

「なに言ってんだよ。オタクってのは、『萌え〜』とか言いながら、アニメやマンガのキャラに入れあげる奴等のことだろ」
「そういう者たちもいるだろうが、それがすべてでもないのではないか」
「作りもののキャラに入れあげて、それで、ココロや生活が潤うのかよ」
「さて。それはそういう趣味に没頭している当人たちに聞いてみないことには何とも言えないが」
「だいいち、そういうのって、潰しが利かないじゃん。どうせ時間かけるのなら、自分のためになって、できれば人様のためにもなるような趣味を持った方がいいだろ。な、氷河、どう思う?」
「……」

星矢に問われた氷河が、すぐに答えを返さなかったのは、彼が星矢の振舞いに 心底 呆れ果てていたからだったろう。
まずもって、星矢は、彼にとってのいじめっ子がいる場所で堂々と、仲間たちに『氷河のいじめをどうにかしてくれ』と訴えていた。
その上、白鳥座の聖闘士のストレス発散に適した趣味を模索しようという紫龍の発言の意図を全く くみ取らず、勝手に話をオタク談義に変更してしまった。
氷河が 星矢をその苦境から解放してやろうという気にならないのは、ある意味 致し方のないことかもしれないと思いながら、実は 瞬と紫龍は先程からずっと、その胸中で疲労感漂う溜め息を洩らし続けていたのだった。

「当人のいるところで、欲求不満だの、ヒステリーだの、いじめだのと、言いたいことを言ってくれるものだ。俺は、おまえのそういうデリカシーのなさに いらいらするんだ」
抑揚のない声、目は半眼。
氷河は今日も静かなブリザード状態で、荒れている気配を表には出さない。
だが、だからこそ――静かだからこそ――青銅聖闘士たちは 氷河の機嫌が悪いことに疑念を抱かなかったのである。

「そりゃ、悪かったな。でも、それくらいのことで、なんで俺がおまえのヒステリーや嫌味の集中砲火を浴びなきゃならないんだよ。ここには紫龍も瞬もいるじゃん。俺としてはさ、せめて ヒステリーを三等分するくらいの平等意識を見せてもらいたいわけ」
星矢は、それを極めて正当な要望だと思っていたのだが、氷河はそうは考えなかったらしい。
というより、氷河には氷河の都合というものがあったらしい。
彼は、星矢の要望を にべもなく撥ねつけた。

「紫龍に嫌味を1つ言ったら、100の嫌味が返ってくるだろう。かといって、瞬にそんなことをするわけにもいかない」
「なんでだよ! なんで、俺ならよくて、瞬は駄目なんだよ」
「なぜと言われても……まあ、キャラクターの問題だな」
「キャラクターの問題ぃ !? 」
星矢が口をとがらせたのは、氷河の発言に不条理を覚えたからではなかった。
そうではなく――『キャラクターの問題』と言われて、なんとなく納得できてしまう自分に、星矢は腹が立ったのである。

「あ……ねえ、氷河」
一方は無表情に、もう一方はあからさまに、不愉快の信号を発している二人の間に割って入ったのは、瞬だった。
氷河の発言からして、現況を現況のまま放っておいても自分に被害が及ばないことは 瞬にもわかっていたのだが、そこはやはり“キャラクター的に”、瞬は 二人の仲間を放っておくことができなかったのである。
「心や生活に潤いを与えるのなら、芸術作品に触れるのがいちばん効果的なんじゃないかな? 今、国立西洋美術館でゴヤ展が開催されてるよ。マハとかは氷河の好みじゃないだろうけど、黒い絵シリーズの素描とか肖像画の類とかは、氷河も興味を持つんじゃないかと思うの。氷河、これから一緒に行かない?」

スペイン絵画になど全く興味はないという顔を、氷河はした。一瞬だけ。
だが、氷河は、その一瞬の後に、ほぼ即答といっていい提案受諾の答えを瞬に返してきた。
「それはいい考えかもしれん。そうすれば、半日程度とはいえ、俺は星矢のデリカシーのない振舞いを見て いらつかずに済むし、星矢も俺のいじめとやらに合わずに済むわけだ」
瞬は、光速の拳を見切ることのできる聖闘士の目を持っている。
ゆえに当然、瞬は、氷河が見せた一瞬の表情を見逃さなかった。
そして、瞬は、その一瞬後の氷河の即答を、本当はゴヤになど興味のない氷河が、星矢に平穏の時を与えるために 気乗りのしない外出に あえて同意したもの――と解釈したのである。
「うん。そうしよ、そうしよ。そのあと、ロシア料理のお店に行って、ご飯食べてこようよ」
氷河が仲間のために示した思い遣りの心(と瞬が思い込んだもの)が、瞬に笑顔を運んでくる。
瞬と違って星矢は、それを氷河の思い遣りの心ゆえのこととは思わなかったが、これで 束の間とはいえ自分は氷河の静かなブリザード攻撃から逃れられるのだと考えて、彼もまた心を安んじることになった。

そんなふうに、大団円とまではいかなくても小団円程度に、事態は丸く収まろうとしていたのである。
だというのに、そこに水を差してくる男が約一名。
「いや、待て。それは一時逃れの策にすぎん。根本的解決には ほど遠い」
生真面目な顔をして そう言い、決まりかけていた話に水を差してきたのは、もちろん、青銅聖闘士の中では唯一の水芸の使い手、某龍座の聖闘士だった。
とはいえ、もちろん彼は、“氷河のストレス発散のための趣味模索”を全く考えなしにオタク談義に変えてしまった星矢にならったわけではない。
むしろ、全く逆。
紫龍の横槍は、星矢の苦境解決のために深く考えを巡らせたからこそのものだったのである。
その発言通り、彼は事態の根本的解決を目指していたのだ。

「心を潤すのが目的なら、もっといい手があるぞ」
紫龍の真摯な態度、その発言の意図がわからなかったわけではないだろうが、氷河は、せっかく決まりかけていた“一時逃れの策”に水を差され、むっとした。
星矢と違って、氷河は現状に不平も不満も抱いておらず、当然のことながら、現状の根本的解決など望んではいなかったのだから、その反応は ごく自然なものだったかもしれない。
ほぼ決まりかけていた話に『待った』をかけられるのは、誰にとっても あまり快いことではないのだ。

そんな氷河とは対照的に、“根本的解決”なる言葉に心を惹かれた星矢は、紫龍の話に 身を乗り出すことになった。
星矢にとっては、今日半日の平穏より 半永続的に続く平穏の方が より好ましく、より望ましいもの。
星矢のその反応は、これもまた ごく自然かつ当然のものだったろう。

「なんだよ、氷河のヒスを根本的に消滅させる いい手ってのは」
瞳を炯々けいけいと輝かせて、星矢が仲間に尋ねていく。
星矢に問われた紫龍は、一人の人間の心に潤いをもたらす方策として これ以上の“手”はないと確信しているように自信満々で、彼が思いついた根本的解決策を口にした。
すなわち、
「恋だ」
と。

「こい?」
紫龍の自信に満ちた答えを聞くなり、だが、星矢は 失望感をあからさまにした。
裏切られた期待の代償を要求して裁判を起こしかねない勢いで、乗り出していた身体を元の場所に戻す。
「あのさー。それって、食えもしねーのに何百万もする錦鯉を池で飼って、金持ち気分を満喫するレクリエーションのことか? そういうのって、趣味は趣味でも悪趣味って言わねーか?」
『こい』という音を聞いて、星矢の考えが池の中に飛び込むことになったのは、『恋』なる単語が彼の辞書に掲載されていなかったからだったろう。
しかし、もちろん紫龍は、氷河のいじめが錦鯉を飼うことで解消されるなどということを考えていたわけではなかった。

「違う。鯉じゃない、恋だ。恋愛、ラブ」
紫龍の口から発せられる『ラブ』には、異様な違和感があった。
その違和感に、星矢は顔をくしゃりと歪めたのだが、それで紫龍の発言の意図は正しく星矢に伝わることになったのだから、紫龍の使用言語の選択に間違いはなかったといえるだろう。






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