「つまり、氷河に女をあてがうのか? そりゃ、身体面での欲求不満は それで解消されるかもしれないけど、でも、健全で純粋な青少年の俺としては、もっと健康的な解決方法の方が嬉しいんだけどなー」
「いや、俺が言いたいのは、身体面のことではなく、むしろ、こう精神面でだな。好きな子ができたなら、その子と ただ一緒にいるだけでも、人の心には 潤いが生じるものなのではないかと――」
その発想のどこが健全で純粋な青少年らしいのだと言いたげな口調で、紫龍が星矢の言を否定する。
そこに、
「俺は、そんなものはいらん!」
という、氷河の怒鳴り声が、真冬の稲妻もかくやと言わんばかりの勢いで降ってきた。

本心では“恋”による事態の解決に全く気乗りがしていなかった星矢が、俄然 紫龍の案に乗り気になったのは、まさにその時。
氷河が心底迷惑そうな顔をして、恋による解決法を拒否する態度を示した、まさにその時だった。
つまり、星矢は、たとえそれで事態が解決に至らなくても、氷河が嫌がる話を続けることで、恨み重なるいじめっ子への意趣返しだけはできそうだと思ったのである。
星矢は、早速、欲求不満の男の身を案じる心優しい仲間の顔を作り、分別口調で氷河を諭し始めた。

「食わず嫌いはよくないって。俺が美穂ちゃんに頼んでやるよ。適当に可愛い子 見繕って、紹介してもらうように手筈を整えるからさ」
「余計なお世話だ!」
「そのヒス、早いとこ対処しとかないと、そのうち絶対 おまえの脳の血管はぶち切れるって。うん。おまえに女の子をあてがうってのは いい考えだぜ。おまえ、一輝と違ってフェミニストなんだろ? 女の子の前でヒス起こすなんてことはしないだろ?」
「だから、いらんと言っとるだろうが!」
「どんなのがタイプだ? 美人系? 可愛い系? ぽっちゃり系? スレンダー系? 熟女系とロリ系、体育会系に文科会系って分類もあるな」

人の話を聞かないのは、流星拳以上の星矢の得意技である。
それでなくても得意なところに、氷河の反論など聞いてたまるかという意思の力までが働いているのだから、今の星矢は最強だった。
「どれも管轄外だ」
「えっ、美人系も可愛い系も管轄外って、おまえもしかしてブス専だったのか?」
「な……なに……?」
星矢が持ち出してきた 思いがけない単語に、氷河の口許はぴくりと引きつった。
一瞬 遅れて、その引きつりが氷河の顔全体に広がっていく。
その様を見て、星矢の口調は ますます 立て板を流れる水のごとくに 滑らかさと力強さを増していった。

「いや、そりゃ、人の好みはそれぞれだし、俺も おまえの趣味を否定するつもりはないけどさー。ブスって、美人とか可愛い子より幅が広いから、好みのブスを見付けるのは、好みの可愛子ちゃん見付けるより難しいことだと思うぞ」
「ブスブス連呼するな! どこぞの婦人団体からクレームが来たらどうする。だいいち、ブス専とは何だ、ブス専とは。男なら誰だって、ブスより可愛い子の方が好きに決まっている!」
最強無敵状態の星矢に乗せられた格好で、氷河がきっぱりと断言する。
氷河にそんな言葉を吐かせたのは他ならぬ天馬座の聖闘士だったのだが、氷河の問題発言に、星矢は実に楽しそうに眉をしかめてみせたのだった。

「おまえの発言がいちばん クレーム呼びそうだけど。んでも、OK、わかった。美人系より可愛い系ね。最初からそう言えよ。照れてんのか? で、どんな感じの“可愛い”がいいんだ? 好きなアイドルとかいるか? もちろん、アニメやマンガの萌えキャラは除くぞ。俺は、オタクの仲間なんて持ちたくねーからな」
「〜〜〜っ!」
星矢はもしかしたら、自分が正当な理由で氷河に責められていること自体は さほど つらいと感じていなかったのかもしれない。
ただ自分がやられっぱなしで、いかなる反撃に出ることもできない状況が“キャラクター的に”我慢ならなかっただけで。
つい先刻まで 氷河のいじめをどうにかしてくれと情けない顔で仲間に泣きついていた星矢は、今は元気一杯、明朗快活。
瞳は明るく輝き、その笑顔は“にこにこ”ではなく“にやにや”。
ついに氷河への反撃に転じることのできた今 この状況が、星矢は嬉しくてならないらしかった。

そもそも星矢が『いじめ』と呼んでいる状況は、彼が その生活態度を改めれば即座に“根本的解決”が為されること。
そうすることをせず、ただただ『氷河のヒステリーを何とかしてくれ』と訴えていた星矢は、実は現状の根本的解決など本気で望んでいなかったのではないか――と、紫龍と瞬は思ったのである。
いずれにせよ、今の星矢が氷河に反撃できる自分に歓喜し、悪乗りしまくっていることは確かだった。
悪意というほどのものはないかもしれないが、全く真面目ではない――完全にふざけている。
星矢は、今、得意の絶頂にあった。

だが、人は、自分がどれほど優位な立場にあると思っていても、決して調子に乗りすぎるべきではない。
調子に乗りすぎて相手の心情をおもんぱかることをしなかった場合、人は必ず手痛いしっぺ返しを受ける。
もちろん、星矢の場合もそうだった。
星矢の悪ふざけに大いに立腹した氷河は、調子に乗りすぎている星矢に、半分開き直ったような反撃を加えてきたのである。
座りきった目をして、氷河は、得意の絶頂にいる星矢に、
「ああ、そうだ。俺は可愛い子が好きだ。俺の眼鏡に適うほどの可愛い子を連れてきたら、その子と付き合って、ココロを潤す作業とやらに取り組んでやってもいい」
と言い切った。

「えっ」
完全に想定外の氷河の反応に驚き、星矢は その目を丸くした。
もとい、丸くしようとした。
星矢が その目を完全に丸くする前に、氷河が、
「ただし」
と、言葉を続けてくる。
「ただし?」
鸚鵡返しで、氷河の続く言葉を促した星矢に、氷河が突きつけた“但し書き”。
それは、
「ただし、その可愛い子は、瞬以上に可愛くなければならない」
というものだった。

得意の絶頂にあった星矢は、途端に、千尋の谷の底の底に まっさかさまに転げ落ちることになったのである。
千尋の谷の底に まっさかさまに転がり落ちて、それでも何とか一命を取りとめることができたのは、星矢が アテナの聖闘士としての強靭な肉体と根性を有していたからだったかもしれない。
しかし、星矢が、氷河の但し書きのせいで 半死半生の重篤な状態に陥ったのは、紛れもない事実だった。
千尋の谷底で星矢にできたことは、息も絶え絶えなありさまで、
「な……なに言ってんだよ! おまえ、正気か? んな、無理なこと言うなよ!」
と、悲痛な悲鳴をあげることだけだったのである。
無論 半死人の悲鳴ごときでは、氷河にどんな打撃を与えることもできない。
氷河は、星矢の悲鳴を、春のそよ風を楽しむ趣味人のように 涼しげな顔で受け流した。

「何が無理なんだ? 俺の“可愛い”の標準スタンダードは瞬だ。コイだかタコだか知らないが、毎日顔を合わせている者より可愛い相手でなければ、俺だって、潤いもときめきも感じようがないだろう」
「い……いや、それはそうかもしれないけどさ。でも、“可愛い”の標準が瞬って、チョモランマの山頂が 海抜0メートル地点だって言ってるようなもんじゃないか!」
「だからどうだというんだ。俺は、寛大にも、おまえの糞くだらない提案を受け入れてやってもいいと言っているんだ。瞬以上に可愛い子を連れてきたら、その子と付き合ってやる。それまでは、俺は、おまえをいじめて日々の憂さを晴らし続ける。何か文句があるのか?」
「うー……」

『墓穴を掘る』とは、こういうことを言うのだろうか。
“可愛い”女の子と付き合うことを氷河に勧めたのは、他でもない自分自身だっただけに、星矢は氷河に言い返す言葉を見付けることができなかったのである。
自分が掘った墓穴から這い上がることができず、酸素不足の池の鯉のごとく口をぱくぱくさせている星矢を尻目に、チョモランマの山頂より高いところに暮らす女の子は 決して見付からないと確信している足取りで、氷河が意気揚々とラウンジを出ていく。
その場に残された星矢の肩は、肩甲骨を持たないタコのそれのように、部屋の床に対して ほぼ垂直に垂れ下がっていた。






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