1日かけて収穫なし。 しょぼくれた顔で帰宅した星矢を城戸邸で出迎えたのは、その星矢より情けない顔をした龍座の聖闘士だった。 彼がそういう表情をすることは滅多にないことだったので、星矢は自分が背負っていた落胆と失望を しばし忘れてしまったのである。 「どーしたんだよ、紫龍。その情けない顔は」 「どうしたも、こうしたも……。おまえが瞬を連れて出掛けたせいで、俺が氷河のヒステリー攻撃のターゲットにされてしまったんだ。機嫌最悪、ガトリング砲並みのスピードと威力で 俺に嫌味を言うわ言うわ。この俺が一言も言い返すことができなかった」 「おまえが一言も言い返せないなんて、相当だな……」 そういう話を聞かされると、今日の外出は、氷河のいじめを半日間 回避することができたという点で、完全に無益だったと思わずに済む。 そう思うことで、星矢は少し――ほんの少しだけ――自分の心を慰めることができたのだった。 が、 「まあ、氷河が寡黙な男でないことだけは確かだな。そっちの首尾は」 と問われた途端、星矢も、紫龍に負けず劣らず 情けない顔になってしまったのである。 星矢は、力なく、首を二度 横に振った。 「駄目。引っかかったのは、瞬をゲーノーカイや怪しげなAVにスカウトしようとする 危ないおっさんばっか」 「まあ、そんなところだろうな」 さもありなんと言わんばかりに、紫龍が星矢に薄い苦笑を投げかけてくる。 いっそ泣きわめいてしまいたい気分でいた星矢があえて、 「でも、俺、こんなことで挫けたり諦めたりしねーぜ。今日が駄目なら、明日がある。渋谷が駄目なら巣鴨がある!」 と言い切ったのは、希望の闘士としての誇りのせいだったのか、あるいは、アテナの聖闘士がチョモランマの頂ごときに敗北を認めてたまるかという意地のせいだったのか。 それは、明日の決意を語った星矢自身にも実はわかっていなかった。 それはさておき、星矢は、てっきり『なぜそこまで巣鴨にこだわるのか』と突っ込んでくるだろうと思っていた紫龍が、 「無駄なことはやめた方がいい」 と きっぱり断言してきたことに、少なからぬ驚きを覚えることになったのである。 少なくとも今朝、紫龍は 瞬より可愛い女の子を探しに行くと言った星矢を『無駄だ』と言って引き止めることはしなかった。 おそらく無駄だろうという顔をしてはいたが、それでも星矢の挑戦を頭から否定することはしなかったのだ。 「何だよ。その気のない言い草は。氷河に恋をさせて、奴のヒスを治そうって言い出したのは おまえだろ」 「それは昨日の話だ。昨日時点で、俺はまだ――」 「あらあ。明日はイブだっていうのに、誰も彼も不景気な顔をしてるわね」 『ご機嫌いかが』の挨拶もなく、唐突に話の腰を折られても、紫龍は彼女に不快の念を表明することはできなかった。 「そんな不景気な顔を並べているようじゃ、今年のクリスマスは 暗く険悪な場の空気を読むことなく、明るさ全開で けらけら笑われても、星矢も彼女には文句を言えなかった。 なにしろ彼女は、社会的にはアジア随一の財力を誇るグラード財団総帥、聖闘士である星矢たちにとっては、ギリシャ聖域の統治者 女神アテナ、個人としての星矢たちにとっては、彼等の生活の場である この城戸邸の家主。 間借り人の苦境に気付かず、詰まらぬシャレに一人で受け 能天気に笑われようと、話の腰どころか うどんの腰を折られようと、星矢たちには彼女に逆らう権利が与えられていなかったのだ。 もっとも、その権利があったとしても、今の星矢には その権利を行使する気力の持ち合わせがなかったのだが。 「今年のケーキはどんなのがいいかって、厨房の方で調理師さんと栄養士さんが悩んでいたわよ。いつもなら、あれこれ注文をつけてくる星矢が どんなリクエストも言ってこないから、何かあったのかって心配していたわ」 沙織は一応、彼女の聖闘士たちの異変を聞いて その安否を確認するために、わざわざ 聖闘士の溜まり場にまで出向いてきたものらしい。 この場合、より礼を失していたのは、そんな沙織の親心(?)を、 「こっちはケーキどころじゃないんだって」 の一言で撥ねつけようとした星矢の方だったろう。 その登場の仕方の是非はともかくも、確かに彼女は彼女の聖闘士たちの身を案じて この場にやってきてくれたのだから。 「まあ。星矢がケーキどころじゃないなんて、よほどの大事件が起きているのね。いったい何があったの」 こうなると、事実を知らせずに沙織に辞去してもらうことは100パーセント不可能である。 アテナの聖闘士たち以上に諦めの悪いアテナの性格を知っている星矢は、仕方がないので、アテナの聖闘士間で いじめ行為が行われていることを、沙織に白状することになったのだった。 ちなみに、星矢のそれが“報告”でも“告げ口”でもなく“白状”になったのは、自分が いじめる側でなく いじめられる側にいるということが、アテナの聖闘士たる彼には 極めて屈辱的なことだったからである。 「それは、つまり……最近バトルがないせいで、氷河が欲求不満のストレスを 俺をいじめて発散しようとしてるんだよ。だから、氷河に恋でもさせて大人しくなってもらおうとしたのに、氷河の奴、瞬より可愛い女の子とだったら付き合ってやってもいいなんて、無理難題 言い出してさ。あ、そうだ。沙織さん、瞬より可愛い女の子、知らないか? いくら探しても、そんな女の子、どこにも見当たらなくってさー」 屈辱的な事態の説明は短く、はしょって。 ついでに別用件を付加することによって、焦点をぼやかして。 らしくもない姑息な計算をしたせいで、星矢は今日も自らの墓穴を掘ることになってしまったのである。 沙織は、星矢が提出した説明書と捜索願いを受領すると、にっこり笑って、 「それは、私は瞬より可愛くないということかしら」 と、星矢に問い質してきた。 沙織に尋ねられた星矢の顔が ぎくりと強張る。 星矢は慌てて――それこそ光速で、首と両手を左右に振った。 「いや、まさか、滅相もない! ほら、沙織さんは、可愛子ちゃんじゃなく美人さんだろ。ゴージャス・デンジャラス・ビューティ! ひゅーひゅーカッコいー!」 「何が ひゅーひゅーカッコいーよ。へたな太鼓もちね。まあ、いいけど。でも、変ね。確か、氷河は……」 聖闘士ならぬ女神に 光速の拳を見切る力があるのかどうかは、星矢も知らなかったが、ともかく 沙織は星矢の失言を しつこく追及する気にはならなかったらしい。 何か もっと別の気掛かりがあるような顔で、沙織が首をかしげる。 氷河がラウンジに入ってきたのは、沙織が首をかしげた ちょうどその時だった。 もちろん 氷河に対しても『ご機嫌よう』も『こんばんは』もなく――沙織は早速 自分の気掛かりを晴らす行為にとりかかった。 「ああ、氷河。ちょうどいいところに来たわ。あなた、瞬より可愛い女の子となら付き合ってやってもいいと、星矢に言ったのですって?」 「なに?」 沙織に唐突に そう問われ、氷河は 今この場で何が行なわれていたのかを察したらしい。 一度 星矢をぎろりと睨みつけてから、氷河は、なぜか不必要に文節を区切り強調しながら、沙織の質問に答えることをした。 「瞬以上に、可愛い子となら、付き合ってやってもいいと、言った」 「ああ、やっぱり、そういうこと」 なぜ氷河がそんな答え方をするのかが星矢にはわからなかったのだが、それで沙織の気掛かりは晴れたらしい。 得心のいった顔になった沙織は、2、30億程度の決裁に1分以上悩むのは時間の無駄と言わんばかりの気軽さで、先ほどから全く発言の機会を与えられずにいた瞬に命じたのだった。 「じゃ、わざわざ探したりしないで、手近で済ませましょう。瞬、あなた、氷河と付き合ってやって」 「は?」 「星矢が 氷河のいじめから解放されるため、氷河の欲求不満から来るストレスを解消してやるためよ。あなた、人助けは好きでしょう」 「え……あ……でも……」 社会的にはアジア随一の財力を誇るグラード財団総帥、聖闘士である瞬にとっては、ギリシャ聖域の統治者 女神アテナ、個人としての瞬にとっては、彼等の生活の場である この城戸邸の家主である沙織の命令――命令だろう――に、瞬が瞳を見開く。 それから2度3度、更に2度、瞬きをして、瞬は沙織に否とも応とも答えることなく、その瞼を伏せてしまった。 瞬に命令を下したのは、社会的にはアジア随一の財力を誇るグラード財団総帥、聖闘士たちにとっては、ギリシャ聖域の統治者 女神アテナ、個人としての青銅聖闘士たちにとっては、彼等の生活の場である この城戸邸の家主――である。 “キャラクター的に”瞬が彼女に対して はっきり『否』と答えられるはずがない。 だから、“キャラクター的に”それができる星矢は、慌てて 瞬に代わって、沙織に異議を申し立ててやったのである。 「沙織さん、瞬じゃ手近すぎるだろ。だいいち、瞬は女の子じゃないし!」 「あら、でも、氷河は、『瞬 「いや、それは国語上はそうかもしれないけど、社会通念上――」 「社会通念?」 沙織は、星矢が持ち出した判断基準を鼻で笑い、そして華麗に聞き過ごした。 そして、瞬だけでなく氷河にも命令――命令だろう――を下す。 「瞬が男の子だっていうことを無視するか、瞬より可愛くない女の子で我慢するかよ。どちらかにしなさい。そんな贅沢が言えるほど大した男じゃないでしょ、あなた」 “キャラクター的に”氷河は、瞬よりも星矢に近い男である。 つまり、沙織に対しても『否』の答えを返すことのできる男である。 命令内容も内容、その上、『大した男じゃない』と断じられた氷河が、大人しく沙織の命令を聞き入れるわけがない。 わけがないと、星矢は思っていた――確信していた――決めつけていた。 だというのに。 氷河はあっさりと、 「瞬がいい」 と、沙織に答えたのである。 否、それは“あっさり”ではなかった。 氷河の声音には全く軽々しいものではなく、むしろ非常に重く、そして熱いものだったのである。 |