青の風景






青は精神と孤独、憧憬と郷愁の色。
悲哀と沈静を表わし、若い心の不安と動揺を伝える。
それはまた 抑制の色であって、絶えず心の奥に秘められて、達することのできない願望の色である――。


「気に入ったの?」
「ええ」
「側に置いて、いつも見ていたい?」
「ええ」

その青い絵の前で、そういう会話があったのは事実である。
もっとも、夢見心地で その絵を見ていた瞬は、すぐに はっと我にかえり、その日 自分に割り振られていた持ち場に戻っていったのだが。

事の起こりは、グラード財団グループ企業であるグラード化学工業が開発した特殊ガラスだった。
それは、マジックミラーのように、表面からは反対側が見えないが、裏面から特殊な光を照射することによって反対側が透けて見えるというもので、グラード化学工業は、その特殊ガラスを まず防犯の分野で商品化することを考えた。
建築物の壁一面もしくは一部に その特殊ガラスをセットすることで、警備員は壁の前を通る者たちに気付かれることなく、彼等を監視することができる。
犯罪を企てる者は、たとえば防犯カメラのレンズや映像に細工することは容易に行なえても、警備員に気付かれずに壁全体に手軽に細工することは困難。
更に、防犯カメラを取り除き 監視されていることを意識させずに済むことによって、善良な市民を不快にさせることもない。
コンピュータ制御も不要なため、新たなプログラムの導入によって既存の防犯システムに影響を及ぼすこともない。
導入後のメンテナンスもほぼ不要。
VIPの訪問を受けることの多い施設や、高価な美術品・宝飾品等を展示する施設等で、それは有効な防犯設備になると、ガラスの開発者たちは考えたのである。

そのデモンストレーションのために借り切った とある有名画廊の警備に、その日 瞬は駆り出されていた。
そこでは、展示室の壁の一面に問題のガラスをセットするだけでなく、特に高価な絵の後ろに額縁大の特殊ガラスを はめ込むという細工を施すこともしていた。
つまり、絵画の後ろに その特殊ガラスを置くことで、絵の鑑賞者は絵しか見えないが、壁を隔てた警備員室にいる人間は鑑賞者の表情を監察できるという仕組みである。
そうすることによって、美術品を展示する施設の構造の問題で 壁全体をガラスで覆うことが不可能な場合にも、守りたい絵をピンポイントでガードすることができる。
外国から数億数十億の保険をかけて貸し出しを受けるような絵画の場合は、展示のために特別な演出を施すことも多いが、言ってみれば一枚の薄い板にすぎない特殊ガラスでなら、展示室の構造そのものを変更することなく、また演出構想を制限することもなく、臨機応変な防犯対応策が立てられる――というわけである。
そういったことをアピールするためのデモンストレーション。
会場である画廊に招かれた、有名美術館、ホテル、公官庁の警備担当者たちは、特殊ガラスを用いた防犯体制の裏と表を――文字通り、裏と表を――見て、感嘆の声をあげていた。

瞬が その目と心を奪われたのは、そのデモンストレーションの場に選ばれた画廊にあった東山魁夷の青色の深山の風景画だった。
青一色――あるいは無数の青色で描かれた一枚の風景画。
日本画のサイズについては、瞬はあまり つまびらかではなかったが、油絵の風景画カンバスで40号ほど。縦1メートル強、横80センチ弱ほどの異世界への扉。
それは、静寂の音が聞こえてきそうな絵、不動の空気の存在に圧倒されるような絵だった。

その日のデモンストレーションが盛況のうちに終わっても、瞬の心は その絵に囚われたままだった。
イベントの会場となった画廊を出る時には、再び その絵に出会う機会はないだろうと思い、その事実を、瞬は ひどくつらく感じた。
とはいえ、それは庶民に気軽に購入できるようなものではない。
瞬は、それこそ 後ろ髪を引かれる思いで、その絵と別れたのである。
それが3日前。
そして今、瞬の心に鮮やかな印象を残した 青色の絵が、瞬の目の前にあった。


「沙織さん……これ……」
それは、城戸邸のエントランスホール正面最奥の壁に飾られていた。
階下で何やら騒がしい音がするのを怪訝に思い、瞬は自室を出てきたのだが、それは どうやら絵の変退色を防ぐための照明設置の工事の音だったらしい。
ちょうど作業を終えた電気工事士たちと入れ替わりに、瞬はその絵の前に立つことになったのである。
あの絵が そこにあることに驚く瞬を見て、沙織は明るく いたずらっぽい微笑を その目許に刻んだ。

「あなた、あの画廊で、この絵の前から なかなか立ち去ろうとしなかったでしょう。以前から ここに何かの絵を置こうと思っていたところだったし、あなたが そんなに気に入ったのなら、ちょうどいいと思って、あの画廊から買ってきたのよ」
軽い いたずらを仕掛けた子供のように 沙織は事もなげに言うが、しかし、それは瞬にとっては 軽いいたずらのレベルを はるかに超えた大事件だった。
「で……でも、これは、50万100万で買えるリトグラフじゃなく、真筆でしょう。その上、このサイズ……」
「まあ、それなりのお値段だったけど、まさか我が家のエントランスホールの壁に 安物の絵を飾るわけにはいかないでしょう。選びあぐねていたところに、代わりにあなたが選んでくれたわけ」

これは もともと必要な“事件”だったのであり、たまたま その事件が 瞬へのサプライズを伴っていただけのこと――と、あくまでも軽い口調で沙織は言う。
しかし、沙織と自分の貨幣価値の認識がゼロ3つ分違っていたとしても――瞬にとっての1000円が沙織には1円の価値しか有していないのなのだとしても――沙織にとっても これは安い買い物ではないはずである。
『もし、僕のために買ってくださったのなら、どうか返品してください』と言うべきなのだろうと、当然のことながら瞬は思った。
絵画の売買契約に はたしてクーリングオフの制度が適用されるのかどうかは、瞬も知らなかったのだが、それでも。
だが、瞬は、自分が言うべきだと思う言葉を口にすることができなかったのである。
この絵に再会できたことが、これから毎日 誰に遠慮することもなく この絵を見詰めていられることが、瞬は嬉しくてならなかったから。

「いい感じでしょう。うるさすぎず、でも存在感があって。この絵に出迎えられたら、来客の心身も引き締まって、万一 不心得者がいたとしても、考えを改めることになるでしょう。あなたの部屋に飾ってあげられないのは申し訳ないけど」
「いえ。これから毎日 この絵を見ていられるようになるなんて、とても嬉しいです。ありがとうございます」
『返品してくれ』と頼んだところで、沙織は『そんな みっともないことができるわけないでしょう』とでも言って、小心の居候の話になど耳を傾けようともしないだろう。
もともと絵画購入の意図があったというのなら、この絵の購入は決して 青い風景に魅せられた者に負担を負わせるものではないのだ。
そう自分に言いきかせて、瞬は、感謝と礼の言葉だけを 沙織に手渡したのだった。






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