そんなふうに、星矢が目論んだ 瞬の絵画鑑賞反対同盟締結は構想倒れに終わったのだが。
瞬が星矢に振りまわされているよりは 少々熱心な絵画鑑賞の方がまし――と考えているようだった氷河が、その考えを覆したのは その翌日のことだった。
時間を見付けては 瞬がエントランスホールに飾られている絵を眺めていることが、自分にとって極めて不快かつ不利益な事態を生むことを、その日 氷河は沙織から知らされたのである。
つまり、城戸邸エントランスホールで問題の絵を見詰めていた瞬に一目惚れした来客の一人が、瞬を紹介してほしいと沙織に求めてきた――という、言語道断の事実を。

「あの絵が我が家に届いた翌日に、例の特殊ガラス用の光源機器製作で協力してもらった杉下電器工業の社長が、アメリカ留学から帰国したばかりの ご子息を連れて ご挨拶にみえたのよ。あ、もちろん、ご子息が留学したのはハーバードビジネススクールね。起業家精神が旺盛で、お父様の会社に入ることなく、自分で会社を立ち上げるとかで。その時、エントランスホールで あの絵に見入っていた瞬を見て、すっかりのぼせあがってしまったらしくて、お父様親経由で、瞬を紹介してほしいと私に申込んでいらしたの」
「……」
「あちらで、バタくさいヤンキー娘ばかり――いえ、活発で堂々と自己主張するような お嬢さんばかり見てきたせいで、瞬が とても新鮮に見えたらしいのね。『日本女性らしく、物静かで凛とした美しいお嬢さんの佇まいに、息子がすっかりいかれてしまいまして、ぜひご紹介たまわりたい』とか何とか おっしゃってらしたわ。瞬、どうする?」
「どうする……って……」

丁重に断る以外に、どんな対応策があるというのか。
瞬は、杉下電器工業社長の子息の申込みより、そんなことを真顔で自分に尋ねてくる沙織の方に戸惑っているようだった。
だが、氷河には それは、“戸惑う”どころの話ではなかったのである。
彼は怒髪天を突いて、その場にいない男を怒鳴りつけた。
「何が日本女性らしい美しい お嬢さんだ! 自分がいかれた相手の性別も見分けられないような男が、親の地位を かさにきて瞬に交際を申し込んでくるなんて、厚かましいにもほどがあるだろう!」
「まあ、おまえは、瞬の性別だけは正しく認識しているからな」
紫龍が脇から茶々を入れてくる。
とはいえ、彼は、その事実を承知の上で瞬にいかれている男の方が よほど厚かましい――と はっきり言うことまではしなかった。
氷河が 言ってどうにかなる男ではないことを、彼は十二分に承知していたから。
紫龍は、基本的に 無駄なことはしない男だった。

「グラード財団総帥としての沙織さんへの客人の前には、俺たちは極力 姿を見せないようにしていたから、これまでは そんな話は降ってこなかったわけだが――」
あの絵がエントランスホールに飾られているせいで、その絵に執着している瞬の姿が来客の目にとまることになったのである。
つまり、星矢の与太話以上に与太った この事態の元凶は、あの絵ということになる。
とはいえ、だからといって、瞬の仲間たちは、瞬に好かれている絵を責めるわけにはいかなかった。
仕方がないので、星矢は、絵の代わりに氷河を責めてることにしたのである。
紫龍の茶々のせいで 振り上げた拳を下ろす場所を見失ったていの氷河に、星矢は、瞬の耳をはばかって小声で告げた。
「おまえがさっさと瞬を ものにしないからだろ。自分の愚図を棚に上げて、迅速に行動した他人を責めるなよ」
星矢のその言葉に、氷河がむっとなる。
だが、星矢の言うことは、氷河自身にも否定できない事実だったので、結局 彼は振り上げた拳を無言で下におろすしかなかったのだった。

「万一のことを考えて、あなたの意向を確認しただけだから、気に病まなくていいのよ。先様には、私から 角が立たないように断っておくわ」
「すみません。こんなことで沙織さんの手を煩わせて……」
「あら、いいのよ。私は楽しいから」
沙織は その言葉通り、この事態を(無責任に)楽しんでいるようだったが、瞬は身の置きどころをなくしたように身体を小さくして恐縮しきっている。
瞬に一目惚れした男の出現という事態は不愉快極まりないことだが、考えようによっては、これは悪いばかりのことではない。
こんな騒動が起きてしまったら、瞬は当然 問題の絵の前に立つことをやめるだろうと――少なくとも、その時間を減らすことになるだろうと、氷河は思った。
星矢も紫龍もそう思っていた。
のだが。

しかし、そのことがあってからも、瞬は青い風景画の前に立つことをやめなかったのである。
その時間も減らさなかった。
ただ注意深くなっただけで。
つまり、瞬は、その日以降、毎朝 城戸邸の訪問客のアポイントメントを確認し、客人のない時間を見計らって その絵の前に立つようになったのである。
瞬が絵の前に立つ時間は、むしろ 一目惚れ男の出現以前より長くなったくらいだった。

静かに ただそこにあるだけの絵の方が、詰まらぬことで騒ぎたて、その騒ぎに いちいち瞬を付き合わせる星矢より弊害が少ないという氷河の認識は、事ここに至って あっさり瓦解した。
見知らぬ男に一目惚れされるという、名誉なのか不名誉なのか わからない事態に見舞われたことに懲りた様子もなく 青い絵の前に立ち続ける瞬にたまりかねた氷河が、
「いったい、そんな絵のどこがいいんだ!」
と非難の響きを込めて問い質しても、瞬は悪びれたふうもなく、
「だって、すごく綺麗でしょう」
と答えるばかり。
それだけならまだしも、瞬は、そう答えてから、自分に対して その質問を発してきたのが白鳥座の聖闘士だと気付いたらしい。
「あ、氷河」
遅れたタイミングで、微かに驚いたような声で瞬に名を呼ばれ、氷河は思い切り機嫌を損ねてしまったのである。
瞬には、言ってみれば一枚の紙切れにすぎない絵の方が、命をかけた戦いを共にしてきた仲間より 存在感を感じるものだというのか。
そんなことがあっていいのか。
もちろん、そんなことはあっていいことではない。
にもかかわらず、その あってはならないことが、今 この地上に現出している――。
かくして、氷河は、物言わぬ絵の方が、物を言いすぎて うるさい星矢よりも、はるかに自分の恋の大きな障害たる存在だという事実を明確に認識することになったのだった。

しかし、相手は物言わぬ絵。
自分で動くこともできない絵である。
そんなものを責めることはできないし、瞬を責めることは なおさらできない。
ではいったい白鳥座の聖闘士は、誰に この怒りを向け、誰を責めればいいのか。
考えあぐねた氷河は、最終的に、その咎を、諸悪の根源である絵を瞬に与え、その絵を片付ける気配を見せないグラード財団総帥に帰すことにしたのだった。






【next】