「あの絵を処分してくれ! でなかったら、せめてエントランスホールに置くのをやめてくれ。瞬を見初める馬鹿野郎が また出てきたらどうするんだ。詰まらんことに時間をとられて困るのは、瞬よりむしろ あなたの方だろう。今の瞬は、敵が攻めてきても、あの絵の前から動かないぞ。そうなったら、地上の平和と安寧はどうなる。あんな絵一枚のせいで、人類が滅亡するようなことになったら、いったい誰が その責任を取るんだ!」 怒髪天を突いた氷河の直談判を受けた沙織は、呆れたような顔をして、まず、 「あの絵を見習って、静かになさい」 と言った。 もちろん氷河は、憎い恋敵を見習って静かになるようなことは、人間としてのプライドにかけてできなかったし、しなかったが。 「では、沙織さんは、瞬に一目惚れするような阿呆な男共が これからも ぞろぞろ出てきて構わないというのかっ」 「誰もそんなことは言っていないでしょう。それはもちろん、私だって、こんな事態が起きるなんて、考えてもいなかったけど……。杉下電器工業の社長の ご令息には、瞬はまだ若いので、3年経っても気持ちが変わらないようだったら、もう一度申し込んでくださいと断っておいたわ。先様は、その3年の間に それなりの財を築いて、それなりの地位を手に入れてから再度トライすると言って、素直に引き下がってくれたわよ」 「再度トライなんかされて たまるか!」 角が立たないように断っておくと 沙織は言っていたが、それは単なる問題の引き延ばし、そもそも“断り”になっていない。 だというのに、けろりとした顔で『断った』と言ってのける沙織を、氷河は遠慮なく睨みつけた。 女神アテナは、残念ながら、氷河の睥睨に動じた様子など 全く見せてはくれなかったが。 「そうねえ。確かに、あの絵に対する瞬の入れ込みようは普通じゃないけど……」 「普通じゃない? なに 呑気なことを言ってるんだ! あれは普通じゃないんじゃない。異常なんだ!」 自分の のんびりした態度が、かえって白鳥座の聖闘士を いきり立たせていることに、はたして沙織は気付いているのか。 畏れ多くも女神アテナを怒鳴りつけながら、氷河はそんなことを考えていたのである。 少なくとも全く気付いていないということはないだろう――と、氷河は思った。 にもかかわらず彼女は、彼女の聖闘士が響かせる怒りの声に、わざとらしく顔をしかめてみせたりするのだ。 それが、氷河の怒りに拍車をかけた。 それだけならまだしも。 彼女は、それでなくても気が立っている氷河の前に、突然、あまりに馬鹿げた話を持ち出してきた。 それは本当に馬鹿げた話だった。 彼女は、それまでの のんびりした声と表情を一変させ、真面目な憂い顔で、 「絵を片付けて済む話かどうか。私は、瞬は恋をしているんじゃないかと思っているのよ」 などということを言い出したのである。 「瞬が恋? あの絵にか」 氷河が沙織の馬鹿げた話を鼻で笑う。 しかし、沙織は その真顔を維持し続けた。 「まさか。でも、瞬が恋している相手は、しばしば会うことのできない人なんじゃないかしら。だから、瞬は 恋人の代わりに あの絵を見ているのよ」 「どこから、そんな突飛な発想が出てくるんだ。想像力が豊かなのにも ほどがある」 それは当然、突飛な想像――荒唐無稽な妄想のはずだった。 瞬が誰かに恋をしていることなどありえない。 アテナの聖闘士である瞬に訪れる出会いは、敵との出会いばかり。 アテナの聖闘士としての戦いに関わり合いのない一般人との出会いは、氷河が極力――だが、さりげなく――遮断していた。 それでなくても、これまでの瞬は 毎日が戦いの連続だった。 その相手が誰であっても、瞬には恋心を育んでいる時間などなかったはずだし、瞬が その心を傾けるほどの価値を持つ人間が 瞬に近付くようなこともなかった。 いつも誰よりも瞬の側にいて、誰よりも長い時間、氷河は瞬を見詰めていたのだ。 絶対に そんな出会いはなかったと、氷河は自信を持って断言することができた。 だというのに、沙織は言うのである。 決して自分の考えに間違いはないというような顔をして。 「あの絵を描いた東山魁夷は、青の風景シリーズ、白の風景シリーズ、橙の風景シリーズと、たくさんの風景画を描いた画家だけど、中でも青の風景画は有名で、その絵で使われる青色は東山ブルーと呼ばれているの。画家自身が言っているわ。『青は精神と孤独、憧憬と郷愁の色。悲哀と沈静を表わし、若い心の不安と動揺を伝える。また抑制の色であって、絶えず心の奥に秘められて、達することのできない願望の色である』って」 「絶えず心の奥に秘められて、達することの出来ない願望の色――? それがどうしたっていうんだ」 「鈍いわね。だから、あの青は、叶わぬ恋の色なのよ」 「だから、瞬が誰かに叶わぬ恋をしているとでもいうのか? そんなことがあるはずが――」 あるはずがないのだ、そんなことは。 そんな出会いの機会は、氷河が ことごとく握りつぶしてきたし、氷河が瞬の側にいられなかった時には、星矢が その色気のない特性を発揮して、(無意識のうちに)瞬の周囲から そんな空気を吹き飛ばしてくれていたはずなのだ。 しかし、沙織は、あくまでも どこまでも自分の推察に自信満々。 「瞬って、誰かを好きになっても告白なんてできなさそうだし、へたをすると、あの絵に 結ばれぬ恋人の姿を重ね見ながら 一生を過ごす気でいるのかもしれないわね」 「まさか」 「わからないわよ。瞬だもの。あなたや星矢と違って、瞬はじっと耐えることに慣れているから」 「……」 瞬の性質に関する沙織の観察は正鵠を射ている。 だからこそ、沙織が自分の推察に抱いている確信が、氷河には不気味なものに感じられた――感じられるようになり始めていた。 だが、まさか そんなことが。 そして、いったい いつのまに。 嫌な予感に囚われ、眉を曇らせた氷河を気の毒そうに見詰めながら、沙織が抑揚のない声で告げてくる。 「氷河、あなたは遅すぎたのかもしれないわね」 それは いったいどういう意味なのだと問い返すことは、今の氷河にはできなかった。 すべてを見透かしているような知恵の女神。 叶わぬ恋の色で描かれた一枚の絵。 沙織の言葉が、あの絵の青い色が、今の氷河には あまりに重く、あまりに苦しすぎて。 |