「瞬の奴、あの執着は まじで病気だぜ。昨日なんか、30分近く、あの絵を見詰めたまま、動かなくってさ。掃除のおばちゃんが呆れてた」 物言わぬ絵に いちばんの親友を奪われたことに腹を立てているようだった星矢の声が、瞬の心身を案じる響きを帯びるようになるのに、さほどの時間はかからなかった。 そんな星矢が、瞬に、 「絵なんかよりさ、本物を見に行こうぜ」 と言い出したのは、ゆえに 決して妬心に突き動かされてのことではなかっただろう。 星矢は瞬の身を案じて、自分には全く良さのわからない不吉な青い絵から 少しでも瞬の心と身体を引き離そうと考えたのに違いなかった。 「本物?」 星矢に ふいにそう言われ、瞬は なぜか一瞬 慌てたような素振りを見せた。 そして、微かに――ごく微かに――その頬を上気させる。 その様に、沙織が自信に満ちて告げた“叶わぬ恋”の話を思い出して、氷河は 否、それは腸が煮えくりかえるというより、胸が焼かれるような怒りだった。 瞬が会いたくても滅多に会えない人間というと、最初に思い浮かぶのは瞬の兄だが、瞬の叶わぬ恋の相手は一輝ではないだろう。 一輝は炎の聖闘士、どう考えても 青よりは赤が想起されるタイプの男である。 だとすると、もしかしたら、瞬があの絵で思い浮かべている叶わぬ恋の相手は、しばしば会えない人ではなく、もう永遠に会うことのできない人なのではないか。 そう、氷河は思ったのである。 戦いの中で死んだ人物。 互いに命をかけた戦いの中でなら、長い時間をかけなくても――ほんの一瞬のうちにでも――戦う者同士の心が通じ合うことがあるかもしれない。 瞬は特に、戦いの際には いつでも自分の敵が心を持った一人の人間であることを意識しすぎるほどに意識して戦う聖闘士なのだ。 そして、もしそうなのであれば、その一瞬の奇跡を妨げることは、氷河にも――瞬の仲間たちにもできないことだったろう。 だが、その相手はいったい誰なのか。 青い絵から思い起こされる、瞬がしばしば会うことのできない人――もしかしたら、二度と会うことのできない人。 氷河には、思いあたる人物が全くなかった。 これまでに瞬が戦ってきた戦いの中で、最も印象深く、他の戦いと一線を画した重大な戦いは、天秤宮での あの戦いだったのだ。 少なくとも、氷河の心の中では。 「だからさ、あの絵が描かれた場所に行ってみないか? 玄関にずっと立ってるより健康的だろ。山歩きって、今ちょっとしたブームらしいし。山ガールならぬ山ボーイ」 それを言うなら『山男』なのではないのかなどという突っ込みを思いつく余裕は 瞬にはなかったらしい。 「あ……ああ、そういう意味」 瞬が、小さく安堵の息らしきものを洩らす。 「どういう意味だと思ったんだよ」 星矢の追求を――それは氷河も追及したいことだったのだが――瞬は 微笑を浮かべて かわしてしまった。 「僕、日本画は詳しくなくて、沙織さんに聞いたんだけど、あの絵は 北アルプス奥穂高の山容を描いたものなんだって。この季節に そこに行っても、見ることのできるのは、青の風景じゃなく、白の風景だよ。僕は、青がいいの」 今、瞬は あの絵の前に立っていない。 今 瞬の目の前にいるのは、一枚の絵に異様な執着を示す瞬の身を案じている仲間たちの姿だけのはずである。 にもかかわらず、たった今も瞬の目の前には あの青い風景が見えているらしい。 うっとりしたような目で、まるで自分の仲間たちの姿が見えていないように陶然とした表情で、瞬は『青がいい』、そう言った。 「瞬の奴、絶対 変だって。なんか、絵を通して ここにはないものを見てる感じで、今にも その中に引きずり込まれて、どっかに消えちまいそうでさ。おい、氷河。俺が許すから、さっさと瞬をものにしろ。どんな手を使ってもいいから、瞬をここに――俺たちのいるところに引きとめておくんだ!」 星矢に そんな言葉を言わせることになったのは、瞬の目が何を見ているのかが自分には わからない――という不安の思いだったのだろう。 氷河は別に星矢の許しを得る必要はなかったのだが、星矢のその許しと、 「たとえ それで 色よい返事をもらえなくても、瞬の目を現実に向き直らせることはできるかもしれないな」 という紫龍の言葉が 氷河の背を押したのは、紛う方なき事実だった。 確かに、氷河の告白には その力があったのだろう。 あの絵の前で、氷河に『好きだ』と告げられた瞬の目が、一瞬で現実を見る人間のそれになり、現実に起こった事件に戸惑っている素振りを見せ、そして、地に足を着けて生き戦っている仲間の許に逃げ込んだところを見ると。 |