「都の条例通り、空調の温度設定は20度にしているのに、邸内の気温が氷点下というのは どういうこと !? いったい何が起こったの!」
沙織が、彼女の聖闘士たちの溜まり場になっているラウンジに怒鳴り込んできたのは、その日の夜のことだった。
帰宅するなり、エントランスホールの床を霜が覆い尽くしている様を見せられたのであるから、彼女の驚愕と狼狽、そして怒りは、当然のものだったろう。
もっとも、彼女の憤怒の表情は、南欧の気候に慣れた星矢がラウンジのソファで毛布にくるまり、歯を がちがち言わせている様子を見た時点で、少し――ほんの少しだけ――緩むことになったのだが。

「いったい何があったの。これは氷河のしわざ?」
星矢に比べれば、まだ多少は使い物になりそうな紫龍に、沙織が尋ねる。
紫龍は、仲間の不始末に困りきっているように、溜め息混じりに首肯した。
「そうなんですが、氷河自身は意識してやっているわけではないようなので……。つまり、その……氷河が瞬に振られまして」
「氷河が瞬に……?」
それで、沙織は即座にすべてを理解したらしい。
彼女は僅かに その眉を曇らせた。
とはいえ、これは失恋男に同情して、放っておける事態ではない。
なにしろ この城戸邸には、聖闘士や神だけでなく、住み込みと通い、合わせて10人弱の一般人の使用人がいるのだ。
沙織は、氷河と瞬をラウンジに呼ぶよう、すぐさま紫龍に命令を下した。


昼は50度を超える灼熱地獄、夜は氷点下数十度の極寒地獄――で修行をしてきた瞬は、身体が自然に環境に適応するようになってしまっているらしく、呼び出されたラウンジで哀れ極まりない星矢の姿を見るまで、城戸邸を見舞っている異常事態に気付かずにいたらしい。
そして、氷河は、気付いていても 自分の意思ではどうにもできない状態。
オーバーコートを着たまま 肘掛け椅子に掛けていた沙織は、そんな二人を並んで自分の前に立たせると まず、
「問われたことにだけ答えなさい」
と、強い口調で二人に命じた。

「あの……いったい、これは……」
「瞬。あなたが青い色に執着することになった、そもそもの理由は何」
「え……あ……あの……」
「さっさと答えなさい。天気予報では、今日のこの辺りの最低気温は5度程度だったのに、家の周囲の道路が凍り始めていたわ。この凍気は外に広がっているのよ。へたをすると、日本が氷河期に突入することだってありえるわ。凍死するような人が出たらどうするの」
「は……はい……」

邸内の気温が これほど下がっている理由すら把握できていない瞬には、この異常事態に際して、沙織がなぜ自分の青色への執着の謎を解明しようとしているのかが わかっていないようだった。
実を言えば、その場にいて沙織と瞬のやりとりを傍聴している紫龍と星矢にも、沙織の意図はわかっていなかった。
確かに この騒動の元凶は、瞬があの青い風景画に異常な執着を示し始めたことにあったのだが、そこに『綺麗な絵だから好き』以外の理由があることを、瞬の仲間たちは考えたことがなかったのだ。
だが、改めて そう言われてみると、それは確かに奇妙なことだった。
あの絵が城戸邸に来る以前の瞬は、特に青色が好きということはなく、木々の緑、花々の赤や黄色、陽光の金、雲の白、大地の黒――この地上に存在する すべての色を同じように好んでいるように見えていた。

瞬は――瞬は、もしかしたら、その理由を意識することなく、青色に執着していたのかもしれなかった。
沙織に その理由を問われ、瞬は ごく短い時間、何やら考え込む素振りを見せた。
そうしてから、瞬自身 初めて その理由に気付いたような目をして、自分が青色の風景画に執着するに至った経緯を、瞬は沙織に語り始めたのである。

「あの絵があった画廊で、特殊ガラスのデモをする前に、沙織さんは この家で実験をしたでしょう? 僕たちのスナップ写真を引き伸ばしてA2版サイズのパネルにして、このラウンジに面した廊下の壁に飾った」
「え? ああ、そうね。そんなことをしたわね。本当は私の写真で試そうと思っていたのに、星矢が『それは恐いからやめろ』なんて失礼なことを言うから、あなたたちの写真で代用したの」
「いや、それは沙織さんが1.5倍拡大写真で試すなどと言い出したからで、せめて等身大写真だったなら、星矢も『恐い』とまでは言わなかったのではないかと――」
寒さのせいで歯の根が合わず まともに口をきけない状態の星矢のために、紫龍が その弁護をする。
「まあ、そういうことにしておいてあげましょう」
今の星矢を糾弾するのは忍びなかったのか、それとも瞬の告白の続きを早く聞きたかったからなのか、沙織は その件は(この場では)不問に処すことにしたらしい。
彼女は、彼女の前で こころもち俯いている瞬の上に視線を戻し、
「あの写真パネルがどうかしたの」
と、瞬に話の先を促した。
瞬が 軽く唇を噛んでから、その写真が自分に何をもたらしたのかを話し始める。

「あの写真を氷河が見ていたんです。僕は、そんな氷河を部屋の中から見ていた。いつも一緒にいる仲間なのに、それまで僕は氷河の顔をまじまじと見たことがなくて――氷河の目は本当に綺麗だった。なんていうか、優しくて、優しいのに何かに焦がれているように熱くて、もどかしげに切なげで……。でも、僕、氷河の目を正面から長い時間 見ていられたのは、あの時が最初で最後で――あの画廊で青の風景の絵を見た時、氷河の目のようだと思いました。それで、あの……絵は、どんなに僕が見詰めていても嫌がったり逃げたりしないから……」
瞬の声は、そう・・だったのだと 今初めて気付いたように頼りない響きでできていた。
そんな瞬より はるかにしっかりした口調で、沙織が 東山魁夷の言葉を口にする。
青という色が、何を表わす色なのか――。

「青は精神と孤独、憧憬と郷愁の色。悲哀と沈静を表わし、若い心の不安と動揺を伝える。また抑制の色であって、絶えず心の奥に秘められて、達することのできない願望の色である」
「え?」
「氷河の瞳の色は、そんなふうだったんじゃなくて?」
「あ、はい。ええ、そんなふうでした……」
瞬が今 思い描いている青色は、氷河の瞳の色なのか、青の風景画の色なのか――。
沙織と仲間たちの前で、瞬が 自分が脳裏に思い描いているものを見詰め、うっとりした表情を浮かべる。
城戸邸を極寒地獄の真ん中に空間移動させておきながら、自分一人だけ夢幻の世界を漂っている瞬に、さすがの沙織も困ったような苦笑を その口許に刻むことになった。

「それは、叶わぬ恋の色よ。氷河は叶わぬ恋をしているの」
沙織に自分の恋を叶わぬ恋と決めつけられて、氷河がむっとした顔になる。
もっとも、沙織が そんな言葉を口にしたのは、おそらく沙織の中に――氷河の中にも――叶わぬ恋が 叶わぬ恋でなくなる予感が生まれかけていたからだったろう。

「あなたが本当に見ていたかったのは、あの絵ではなく、氷河の目だったのね?」
「あ……あの……はい。でも、人の目って、まじまじと見ていられるものじゃないから……。氷河も嫌がるだろうし……。そんな時、あの絵に会ったんです」
そこまで聞けば、それで十分。
沙織は瞬に浅く頷いて、今度は氷河の上に視線を転じ、そして早口で、
「氷河、あなたがすべきことを さっさとしなさい。私があなたの叶わぬ恋のせいで凍え死ぬ前に!」
と命じた。
それは、だが、言葉の綾というものだったろう。
氷河の胸中に生まれた予感――というより希望――のせいで、城戸邸の空気は既に暖かくなり始めていたから。
とはいえ、アテナの厳命に背くようなことを、もちろん氷河はしなかったのである。
彼は、迅速に彼の女神の命令を遂行した。

「もし、おまえがあの時の俺の目を好きになったというのなら、おまえは、おまえを見ている俺の目を好きになったんだ。あの写真、俺は、おまえしか見ていなかったんだから」
瞬に そう告げる氷河の瞳は、今は――今も――瞬の姿だけを映している。
「氷河……」
時間も忘れて見詰め続けていた青――時間が許す限り いつまでも見詰めていたかった青色に 逆に見詰められ、更に その青色の中にある願望と情熱が何に向けられたものだったのかを知らされ、瞬の頬は見るまに薔薇色に染まっていった。
「絵ではなく、本物を見てくれ。おまえを見詰めている時の俺の目こそが、おまえが本当に見ていたい青の風景なんだと――そう思う俺は、うぬぼれが過ぎるだろうか」

瞬が すぐに その首を横に振る。
そんな仕草の間にも、瞬の視線は氷河の青い瞳を見詰めたままだった。
やっと口がきけるところまで身体が回復した星矢が、
「氷河の失恋小宇宙で凍え死ぬくらいなら、瞬を氷河にくれてやった方が ずっとましだぜ」
とぼやき、めでたく星矢の許し(?)を得た氷河は、その言葉に甘えて 強く瞬を抱きしめたのである。
そのせいで氷河の瞳の青を見ていることができなくなったというのに、瞬が生み出す小宇宙は 更に温かく、そして幸福の色を帯びたものに変わっていった。






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