たとえ世間が――日本国内のみならず世界が――シンデレラ姫捜索キャンペーンに湧きたっていようとも、城戸邸内では その件は完全黙殺。 誰もが命は惜しいし、誰もが瞬の涙――屈辱によって流される涙――は見たくない。 特に誰が命じたわけでも指示したわけでもなかったし、罰則規定が設けられたわけでもなかったのだが、その不文律は それから数日の間、城戸邸内で厳しく守られていた。 最初に受けた衝撃が薄らぐと、瞬はいつもの穏やかな平和主義者に戻り、 「僕、もう平気だよ。もう全然 気にしてないから」 と、自分から その話題を振ることさえするようになっていたのだが、もちろん 瞬の仲間たちは どこまでも沈黙を守り続けた。 瞬はそれを仲間たちの思い遣りと受けとめ、仲間たちに感謝してもいたのだが、だからこそ氷河が、沈黙の数日間ののち、突然、 「たとえ人工的に作られたものだったとしても、犯罪者でもない者の似顔絵を作り、勝手に頒布するというのは、十分に肖像権の侵害に当たるだろう。あの画像は、法に訴えてでも すべて末梢すべきだ。勝手に俺の瞬の似姿を世界中に流すなんて、許されることではない!」 と怒りを露わにし始めたことに、瞬はひどく驚くことになったのである。 「そんなに怒らないで。無視していればいいんだよ。あれは僕じゃないんだし」 「そういう問題じゃないんだ! 俺は、俺以外の男が あの画像を通して おまえを見ていることが我慢ならん! どうしても許せんのだっ!」 瞬がなだめても、氷河の怒りは一向に静まらず、逆にその怒りは激しさを増すばかり。 数日ほど遅れてやってきた氷河の激昂のわけがわからず、瞬は大いに戸惑うことになってしまったのである。 「昨日まで、あの絵のことは完全に無視してたのに、氷河はどうして急に怒り出したの……」 「あー、それはさー」 「なに? 星矢、氷河が急に怒り出したわけを知ってるの?」 「えっ……あ、ああ、それはその……何というか……」 「それはその、何というか?」 「いや、だから、氷河は、その……ネットで下品なものを見てしまったんだな。つまり、おまえの絵で……むにゃむにゃ……」 「……」 忌憚、遠慮、斟酌というものを知らないことを得意技にしている星矢が、彼らしくなく言葉を濁す。 氷河の怒りは、ある意味では至極当然のことで、星矢が そんなふうに彼らしくない振舞いを見せなかったなら、瞬はその件をあまり気にせず さらりと流してしまっていたかもしれない。 星矢が妙に不自然な態度をとる様を見て、瞬は逆に 氷河の突然の怒りの訳を、何としても知らなければならないような気になってしまったのである。 瞬の前で むにゃむにゃ言っている星矢の上に、 「星矢! 余計なことは言うな! 黙れっ!」 という氷河の怒声と、 「はっきり言ってよ。星矢らしくない!」 という瞬の命令が同時に降ってくる。 氷河と瞬、どちらの意向を優先させるかという判断を迫られれば、星矢の場合、それはやはり瞬だったのである。 星矢は、ほとんど反射的に瞬の命令に従った。 「だ……だからさ。ネットのニュースサイトって、世論 吸い上げのためなんだろうけど、大抵は 匿名で自由に意見を書き込めるコーナーがあるんだよ。そこに へたな目撃情報が書き込まれたりしたらまずいからって、それをチェックしててさ、氷河は見ちまったわけ。おまえで抜いたっていう、助平な男共の書き込みの羅列を」 「え? 僕で抜く? それ、どういう意味?」 「だーかーらー!」 瞬なら その言葉の意味を知らないということもあるかもしれないと、その言葉を最後まで言い終えると同時に、星矢は思い至っていた。 瞬に問い返されて、『ああ、やっぱり』と思う。 しかし、それは実に説明しにくいこと――できれば説明せずに済ませたいこと――である。 結局 星矢は、そのやりにくい仕事を、某龍座の聖闘士に丸投げした。 「紫龍、バトンタッチ!」 「なぜ、俺だ!」 『なぜ俺なのか』と問われれば、星矢としては『他に誰もいないから』と答えるしかなかったろうが、そんなものを丸投げされた紫龍こそ、いい迷惑である。 しかも、降って湧いた災難に慌てている紫龍の上には、星矢の時 同様、氷河と瞬から相反する厳命が 強烈な破壊力を持った化学エネルギー砲弾のように降ってきた。 「紫龍、黙ってろ!」 「紫龍、はっきり言って!」 紫龍はもちろん、氷河の命令に従い 黙っていたかった。 彼は、そんなことは言いたくなかったのである。 しかし、紫龍も 星矢同様、氷河と瞬に異なる命令を与えられたなら、従うのは瞬の命令の方。 これは もう致し方のないことだった。 氷河の言うことと瞬の言うことでは、瞬の言うことの方が正しく、かつ常識的で良識的と、彼の身体と反射神経が覚え込んでしまっているのだ。 そういう状況を作ったのは、氷河の過去の行状。 ゆえに 氷河には、 「つまり、おまえの似顔絵を材料に採用して、自慰行為を完遂したということだ」 と瞬に説明してしまった紫龍を責める権利を有していなかったと言っていいだろう。 それでも、もちろん氷河は紫龍を責めたのだが。 「紫龍! 黙れと言ったのが聞こえなかったのか!」 「俺が今 言わなくても、いずれ知れることだろう」 紫龍は、自分が口にしてしまった言葉を後悔しつつ、我が身を仲間から守るために 過酷で残酷な現実を氷河に語ったのである。 氷河よりも瞬にとって過酷で残酷な現実を。 瞬の仲間たちが沈黙を守っても、それはいずれ瞬の知るところとなっていただろう事実を。 紫龍に過酷で残酷な現実を知らされてしまった瞬は、彼の説明内容が理解できなかったのか、あるいは理解することを拒否する防衛規制が働いたのか、しばらく ぽかんと その場に立ち尽くしていた。 その顔から徐々に血の気が失せて蒼白になった瞬の頬が、一転 深紅に変わる。 「い……いやっ!」 傷付いた瞬の心を守るためなのか、正気を失った瞬の小宇宙の暴走を阻止するためなのか、ともかく それまでラウンジのソファで眉を吊り上げていた氷河が 光速の動きで瞬の側に移動し、その身体を抱きしめる。 瞬の顔は 氷河の腕と胸で隠され、その表情は 星矢たちには確かめられなくなったが、氷河の腕の中で震えている瞬の肩と背中を見ているだけで、瞬が受けた衝撃の程は、星矢たちにも痛いほどわかった。 それは、黄金聖闘士全員の必殺技を同時に受けたとしても、それらが心地良い春の微風に感じられるほど――途轍もない衝撃だったに違いなかった。 「そりゃまあ、嫌だろうけど……嫌だろうなー……」 そういう目に合ったことのある男子の例を知らないだけに、どう言って慰めればいいのかがわからない。 星矢にできることは、氷河の腕の中で、自らに加えられた屈辱的な衝撃に身体を震わせながら耐えている瞬の姿を、情けない顔をして見詰めていることだけだった。 やがて、何とか口がきける状態になったらしい瞬が、氷河と、そして仲間たちに悲鳴のような声で訴えてくる。 「どうにかして! どうにかして! この騒ぎをどうにかしてっ!」 「瞬……」 「ぼ……僕は、命の危険にさらされてる人たちを助けなきゃって思って、だから 助けただけなのに! 僕は、お礼だの謝礼金だの、そんなもの欲しいとも思っていなかった。報いなんか、何も求めていなかった。そうするのが当たりまえだと思うことをしただけなんだよ! なのに、どうしてこんな目に合わなきゃならないの! なぜ そんなことされなきゃならないの! 見ず知らずの人たちに そんなことされるくらいなら、そ……そんなことされるくらいなら――死んだ方がましだよっ!」 “死”がどれほど冷たく悲しいものであるのかを 誰よりもよく知っている瞬が、『死んだ方がまし』と言う。 瞬が“死”という言葉を そんなふうに用いるのは滅多にないことで、それは今の瞬が いかに混乱し動転しているのかを如実に物語るものだった。 言わずにいるべきことを言ってくれた親切な二人の仲間を睨みつけてから、氷河が、泣いている子供を あやすように瞬の髪と背を撫でる。 「おまえが死ぬ必要はない。あの下劣な男共は草の根を掻き分けても探し出して、俺が全員抹殺してやる。沙織さんに頼んで、ニュースサイト運営者に 下品なコメントを残した奴等のIP情報を提出させ、そのプロバイダに使用者の情報を吐き出させ、本人特定ができたら、俺の凍気で――」 「氷河、アホなことすんなよ。ネットに書き込みなんかしてなくても、瞬で抜いてる奴なんて、世界中に腐るほどいるに決まってるだろ」 「星矢……!」 さすがに それは口が裂けても言うべきではないことと、紫龍は星矢の発言を咎めたのだが、時 既に遅し。 星矢が口を滑らせた言葉――おそらくは事実――を聞いた途端に、瞬は本当に泣き出してしまった。 「あ、いや……く……腐るほどはいないかも」 今更そんなことを言っても手遅れである。 そもそも それは全く慰めになっていなかった。 氷河が、嗚咽を洩らし出した瞬の肩を 改めて強く抱き寄せ、抱きしめる。 本当は氷河自身が怒りを爆発させたいところなのだろうが、瞬が取り乱し泣いている時に 瞬の恋人までが 己れの感情のままに振舞うわけにはいかない。 そのジレンマが、氷河の怒りを より大きく激しく、そして先鋭化しているようだった。 「ああ、泣くな。大丈夫、大丈夫だ。そんな不届きな奴等、俺が全員殺してやる。星矢! 助平男共を殺したあとは、貴様の番だからな! 口は災いの元と、生きているうちに死ぬほど後悔しておけ!」 口の軽い男しかいない場所に瞬を置いておくのは危険と考えたのだろう。 その場に呪詛の言葉を吐き出して、氷河は、足元のおぼつかない瞬を伴ってラウンジを出ていった。 混乱し嘆き悲しんでいる瞬の姿を見ていなくてよくなったことで、星矢の気詰まりは少しだけ薄らいだのである。 が、そうなればそうなったで、氷河が残していった呪いの五寸釘の不吉さが気にかかるようになるのは、ごく自然な人情というもの。 世の男共に向かう氷河の怒りはともかく、彼が、彼同様 瞬の心を案じている仲間を責めるのは理不尽なことだと、星矢は思わないわけにはいかなかった。 「なんで俺まで……! だいたい、俺なんかより、世界中の助平男共より、瞬にいちばん ひどいことしてるのは氷河だろ!」 「まあ、氷河は、とりあえず、瞬の合意を取りつけているからな」 「合意を取りつけてればOKっていうのなら、瞬に許可もらえばいいのかよ !? 『今夜、おまえで抜かせてください』って !? 」 「そういうものでも――」 言いかけた言葉を途中で途切らせて、紫龍がまじまじと星矢の顔を見おろしてくる。 眉根を奇妙に歪めている紫龍を、星矢は訝ることになった。 「なんだよ、その顔」 「おまえ、もしかして、無許可でやったことがあるのか?」 「ば……馬鹿言うなっ! 瞬は男だぞ、男!」 「それはそうだが、瞬は なにしろ あの通り――」 「と……とにかく、氷河が暴発して暴走する前に この騒ぎを終わらせないと、俺の命がないんだよ! 瞬と氷河は全然 冷静じゃないし、こうなったら沙織さんに 神の力でも金の力でも駆使してもらって、この騒ぎを鎮めるしかない! 沙織さんは いつも一人で暴走して 俺たちに迷惑かけてるんだから、たまには俺たちを守るために動いてくれたっていいはずだ!」 いつものことと言えばいつものことなのだが、やたらと大きな声とオーバーアクションで わめきたて始めた星矢を見て、自分は触れてはならないものに触れてしまったのかもしれないと、紫龍は思ったのである。 となれば、ここで更に事の真偽を追求するわけにはいかない。 どうしたものかと紫龍が考えあぐねたところに、 「もう、手は打ったわよ」 という沙織の声。 彼女は いつのまに ここに来ていたのか。 どこから彼女の聖闘士たちの話を聞いていたのか。 尋ねるのも恐ろしく、顔を強張らせた紫龍と星矢に、沙織は、 「今夕6時、千葉県警交通部から重大発表があるわ」 と言って、彼女の聖闘士たちに得体の知れない笑みを向けてきた。 |