「宛名がないので、私、各家庭に放り込まれるポスティングのちらしか何かだと思って――。一応、シュレッダーにかける前に中身を確認しようと思って封を切ったら、便箋に手書き文字でしょう。しまったーって思ったんですけど、開けちゃったものは仕方ないし……。私、こんなことでクビになったりしませんよね? こちらのお宅のメイド服って、仲間内ではすっごい人気なんです。お屋敷も完全に洋風で、私、熾烈な戦いを勝ち抜いて、やっとこちらに勤められるようになったんです。たった2日でクビになったなんて言ったら、私、みんなに馬鹿にされちゃう……!」

いったい城戸邸の使用人採用の責任者は誰なのか。
それとも昨今は、この程度でも上等と言えるほどハウスメイドはレベルが落ちてしまっているのだろうか。
アテナの聖闘士3人を圧倒するほどの迫力で、その新米メイドは、
「超、超、超、反省してます! ほんとに ごめんなさーい! 二度とこんなドジは踏みませんから、クビにだけはしないでくださいーっ!」
と、星矢たちに泣きついてきた。
星矢たちが彼女のミスを不問に処したのは、ただ ひたすら、立場にふさわしい言葉使いを心得ていない彼女の日本語を聞いていたくなかったからだった。


「で、中には、宛先や差出人の正体がわかるものが入っていたのか?」
ハウスメイドより どこぞの傭兵部隊の職に就いた方が よほどいい働きをするのではないかと思えるマシンガントークの主を部屋から立ち去らせると、マシンガンが吐き出した煙と火薬の匂いを払いのけるように頭を振り、紫龍が星矢に尋ねてくる。
星矢は、一度 両の肩をすくめてから、龍座の聖闘士の目の前に一枚の白い便箋を差し出した。

罫線は入っていないが、紙の目からして、おそらく横書き用。
その便箋の ほぼ中段、中央より やや左側に『瞬』という文字が一つだけ記されている。
それが宛名のない謎の手紙の中に入っていた“もの”だった。

「瞬の名前だけ? 差出人が瞬のはずはないから、ということは この手紙は瞬宛だったということか?」
「てゆーかさ。この手紙書いた奴、ケータイやパソコンのメールしか使ったことなくて、手紙の出し方も知らない阿呆なんじゃないか? 宛名なしで手紙が届くと思ってるトンマ野郎。その上、本文なし、差出人名もリターンアドレスもなし。この手紙書いた奴は、正真正銘の大間抜けだな」
討ち死に覚悟でマシンガンの銃口に身をさらしたというのに、そこまでして得られた情報が『瞬』の一字のみ。
差出人もわからなければ、それがラブレターなのか決闘状なのかもわからないというので、星矢の機嫌はこれ以上ないくらい斜めに傾いていた。
期待していなければ、それもまた重要な情報と思うこともできただろうが、期待が大きかっただけに、期待を裏切られた星矢の失望は、極めて迅速に怒りに変異してしまっていたのである。

「この手紙を書いた人間が阿呆でトンマで間抜けだという見解についてのコメントは差し控えるが、これは氷河の字だろう」
「へ……?」
字義情報にばかり気をとられ、文字の形には全く注意を払っていなかった星矢が、紫龍のその指摘に、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。
それは実に重大かつ重要な情報だった。
無論、だからといって、宛名の書かれていない手紙の謎がすべて解けたわけではなかったが。

「なんで氷河が、こんな訳のわからない手紙を瞬に出すんだよ」
至極当然の疑念を、星矢が口にする。
紫龍に尋ねながら 星矢は その視線を瞬に向けた。
そうして。
瞬が病人のように青白い頬をして その場に立っていることに、星矢はその段になって初めて気付いたのだった。

「瞬。おまえ、この手紙の意味がわかるのか?」
「わ……わからないよ……名前しか書いてないし……」
「だよなー」
これで この手紙の意図がわかったら、その人物はシャーロック・ホームズ並みの名探偵である。
『わからない』という瞬の返事を、星矢は至極尤もな答えだと思った。
すぐに、瞬のその返事は嘘なのではないかと、星矢は疑うことになったのだが。
なにしろ瞬は、氷河の手紙の文面(?)に尋常ならざるショックを受けたように 頼りない足取りで、それ以上は何も言わずに ふらふらとラウンジを出ていってしまったのだ。

「どうしたんだよ。瞬の奴、この手紙の意味がわかってるのか?」
「さて……。氷河がこんな手紙を書いた経緯はわからないでもないが、だとすると瞬の反応は 解釈が難しいし――これは やはり当人に確かめてみないことには――」
「当人って誰だよ。瞬か? それとも氷河?」
「それはもちろん両方にだが、まずは氷河だな。それで瞬が 氷河の手紙の意図を正しく理解しているのか誤解しているのかがわかる」
「んなこと言ったって、氷河の阿呆はシベリアに――」
シベリアに行ってしまっているのだ。
しかも、新たな戦いが始まるまでは戻ってこないという、へたをすると年単位になりかねない条件つきで。
――のはずだったのだが。

「なぜ、その手紙をおまえらが持っているんだっ !! 」
手紙の真意は氷河当人に確かめるしかないと紫龍が呟いた 僅か5分後に 氷河の雄叫びがラウンジ内に響くことになったのだから、世の中はご都合主義に満ちている。
演劇は 一日の内に一つの場所で一つの筋だけが完結すべきであるという三一致の法則を厳格に守り抜いたラシーヌでさえ、ここまでのご都合主義的展開を よしとしたかどうか。
それはともかく、新たな戦いが始まるまでは仲間たちの許には戻らないと宣言してシベリアに向かったはずの氷河が、新たな敵の影も形もないというのに、僅か1週間足らずで日本に舞い戻り、星矢の手にある封筒と便箋を見て大慌てに慌てているのは 紛う方なき事実だった。

「やっぱり、この阿呆でトンマで間抜けな手紙を書いたのは おまえか。なんでこんなものがここにあるのか、俺たちの方が知りてーよ」
「おまえらが俺の部屋から持ち出したんじゃないのか」
「なんで俺たちが んなことするんだよ! おまえが こんな訳のわからないものをラウンジのテーブルなんかに置くから、この宛名のない手紙をどうしても届けるんだって言って、瞬は この1週間、東奔西走してたんだぞ!」
「瞬が……? 瞬がその手紙の中身を見たのか?」
「ああ。見たのは たった今――つーか、ほんの5分前だけどな。見るなり 真っ青な顔して、どっか行っちまった」
「真っ青な顔をして……?」

瞬も手紙の内容を見たのかと尋ねてきた時には、勝手に仲間たちに手紙の中を盗み見られたことへの気まずさや憤りのせいなのか むしろ上気しているようだった氷河の頬が、星矢のその言葉を聞くなり、瞬と同じように青ざめていく。
彼は その顔から表情を消し去り、突然 黙り込んでしまった。
そして、その場に突っ立ったまま、何ごとかを考え込む素振りを見せる。
白鳥座の聖闘士の指先が妙に落ち着かない動きを見せているのは、瞬を捜しに行きたい気持ちと そうしたくない気持ちが、彼の中にジレンマを生んでいるからのようだった。

てっきり、宛名の書かれていない手紙を書いた当人による 謎の解明が始まるものと思っていたのに、一人で自分の考えの中に沈み込んでいる仲間に焦れて、星矢が氷河を怒鳴りつける。
「だから、これは何なんだよ! さっさと説明しろってば!」
が、星矢の怒声に対する氷河の答えは、
「おまえらに説明する必要はない」
という、実に素っ気ない――むしろ、説明を求める星矢を鬱陶しがっているような――ものだった。
「俺たちには おまえに説明を求める権利があるぞ。この1週間、俺たちは この手紙に振り回されっぱなしだったんだから」
「おまえらが勝手に騒いで 大ごとにしただけだろう」
「なんだとぉ! おまえ、そのセリフ、瞬にも言えるのかっ! 瞬は この阿呆な手紙を書いた奴のこと、本気で心配して、絶対届けてやるって一生懸命だったんだぞ! 俺たちは何度も、そんな阿呆なものは放っておけって言ったのに!」

「……」
瞬の名を出されると、それまで ぎすぎすと尖っているようだった氷河の神経も、その先を丸めないわけにはいかなかったらしい。
もっとも、彼は唇の端を僅かに引きつらせると、結局 そのまま 再び黙り込んでしまったのだが。






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