この話はフィクションです。実在の人物、宗教とは一切関係ありません。
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ローマ帝国は、初代皇帝アウグストゥスが亡くなり、その養子ティベリウスの治世14年目に入っていた。 それなりの理想と意欲をもって帝位に就き、それなりの努力もしたが、元老院の腐敗に失望し、ローマ市民の人気も得られなかったティベリウス帝が、その居をローマからカプリ島へ移したのが昨年のこと。 彼は、その島に贅を尽くした別荘をいくつも建て、ローマ中から美しい少年少女を集めて、退廃的で放埓な日々を送っているという話だった。 自身の潔癖純潔は頑なに守りつつも、ギリシャの神らしく人間の愛欲を否定することのない女神アテナが、大帝国の統治者としての気概を持たず、その責任も放棄しているティベリウス帝に対する嫌悪を隠さないのは、当然のことだったろう。 もっとも、ティベリウス帝に対するアテナの嫌悪と軽蔑には、皇帝自身の性癖や怠惰そのものより、彼の倒錯した性を満足させるために おぞましい奉仕を強いられている少年少女たちへの同情心が、その根底にあるようだったが。 ティベリウス帝の養父でもあったローマ帝国初代皇帝アウグストゥスが築いた帝国の礎は強固。 一人の愚帝が出現した程度で 帝国の存在が揺らぐことは考えらない。ティベリウス帝の政治への無関心が ローマ帝国と世界に大きな混乱を招くことはない――と、アテナは考えているようだった。 現在、聖域のアテナが、専ら その動向を気に掛けているのは、ローマ本国ではなく、その属州であるユダヤだった。 そこに、得体の知れない“神”が出現し、人心を惑わしている――という報告が、彼女の許に届いていたのだ。 その“神”の教えは 異様なほど人間性を無視したもので、危険なほど峻厳。 しかも、信者の帰依を待つのではなく、ほとんど脅迫によって信者を増やしていることに、彼女は危機感を抱いているらしい。 ティベリウス帝の その上、正体不明の“神”と その“神”を信仰する集団は、既に腐敗臭を漂わせているローマの神々よりも、その源となったギリシャの神々の方を敵視しているらしい。 そのせいで、アテナの憂いは二重三重のものになっていた。 「生まれては消えていった、これまでのローマやユダヤの新興宗教集団とは違うようなの。これまでは、そういう新興宗教集団に属する者たちは、自分の属する集団の勢力を強めるために色々な画策をすることはあったけれど、長い歴史を持ち、広く信仰されている既存の宗教の神々を攻撃することはなかったわ。結局 彼等は既存宗教の分派でしかなかったし、ローマやギリシャの神々、ユダヤの神に自分たちが取って代わるのは無理なことだとわかっていたから。でも、今 ユダヤ属州に起こっている新しい信仰集団は、そういう考えでは いないようなのよ。先日、ユダヤ属州では、その集団がエルサレム神殿を暴力で破壊しようとしたとか。ユダヤ属州にローマから派遣されているピラト総督は、その集団の対応に頭を痛めているらしいわ」 アテナは憂えていた。 自然発生的に生まれ、人間の信仰心と祈りによって 力を得たギリシャの神々とは違う“神”。 他のどんな信仰とも違う匂いを持ち、他の宗教、その神々に対して驚くほど排他的で攻撃的な“神”。 その“神”は、人間を破滅に導くような不吉な影を帯びていたから。 ユダヤの地に生まれた新しい“神”に対するアテナの不安と憂いが深さを増していた頃、その宗教集団の構成員とおぼしき者たちが、直接 聖域に攻撃を仕掛けてきた。 彼等は、ユダヤ属州のエルサレム神殿の破壊を試みたように、アテナという神が統べる聖域を破壊しようとしたのかもしれない。 アテナの聖闘士たちに守られている聖域を、 「彼等は普通の人間なの。どんな特殊な力も持っていない。決して命を奪うことなく、できれば怪我もさせずに、私のところに連れてきてちょうだい」 アテナの結界によって覆われている聖域に彼等が難無く入り込むことができたのは、彼等が特別な攻撃力を持たない――言ってみれば、非力な ただの人間だったからなのだろう。 彼等の聖域侵入を知らされたアテナは、彼女の聖闘士たちに、無害で非力な ただの人間を傷付けてはならないと命じたのだった。 |