以前は――氷河と抱きしめ合うことを覚えたばかりの頃は――朝、人に顔を見られるのが恥ずかしくてならず、むしろ嫌いだった。
それが氷河でも、氷河以外の人なら なおさら。
今は、自分が幸福で満ち足りているのは事実なのだから、そういう顔を人に見られても仕方がないと 開き直っている。
だから、瞬は、彼に、
「おまえは悪魔のくせに、なぜ そんなに綺麗なんだ。なぜ そんなに輝いている」
と尋ねられた時も、笑って、
「大好きな人がいて、いつも優しくしてくれるから」
と答えることができたのだった。

その言葉の意味するところを“嫌らしく”理解しても、正しく理解しても、彼は自分に罪人を見る目を向けてくるのだろうと 瞬は思っていたのだが、彼は瞬の覚悟していたものを瞬に向けてはこなかった。
ただ無言で、彼の目に“輝いて”見えるらしいものを見詰めるだけで。
彼が、彼の神を否定するアテナの聖闘士を そんな目で見ることがあるはずがない。
いったい彼は、本当は、幸せなアテナの聖闘士の上に何を重ね見ているのだろうと、瞬は訝ることになったのである。
「あなたの神は、人が恋をして幸せでいることも罪だと言うの?」
「神に仕えることほど 幸福なことではない」

『でも、あなたは幸せに見えないよ』と言ってはならないような気がして、瞬は ただ静かに彼を見詰め返したのである。
多分 それは適切な判断だったのだろう。
もし瞬が その言葉を口にしていたら、彼はいつものように彼の神の崇高さを言い募り始めていただろうから。
少なくとも、
「……俺にも言い交わした女がいた。おまえほど綺麗じゃないが」
と、彼の神ではなく彼自身のことを語り始めてはくれなかっただろうから。

「その人は……」
尋ねる声が小さくなったのは、おそらく 彼の恋人は亡くなったか、あるいは悲しい事情があって他の人のものになったのだろうと思ったからだった。
それならば――愛する人を失うという事態に出合って、彼が“神”にすがることになったというのなら、その気持ちは自分にもわかるような気がしたから。
だが、彼の答えは、瞬の推測とは全く違う、(瞬には)驚くべきものだった。
彼は、
「神への信仰に入る時に別れた。情欲は人間を堕落させる。幸い 彼女に触れる前だったから、主は快く俺を迎え入れてくれた」
と答えてきたのだ。

「そんな……!」
氷河を失うようなことがあったなら、失ったものによってできた空虚を埋めるために、自分もアテナを狂信することになるかもしれない。
そう考えて、彼に先走りの同情心を抱きかけていた瞬は、彼の その答えを聞いて愕然としてしまったのである。
では彼は、神のために、彼の愛する人を捨てたということなのだろうか。
それは瞬には信じ難い――全く理解できない行動だった。
人間が神を求めるのは 幸せを求めることと同義。
そう、瞬は信じていたのだ。

「そ……その考えは間違っているとは思わないの? 大好きな人と抱きしめ合うのは とても気持ちのいいことだよ。幸せな気分になるし、優しい気持ちにもなれる。あなたはお母さんに抱きしめてもらったことはないの? あなたは それすら堕落だと思うの?」
「俺は母より神を選んだ」
「えっ」
「俺は神に仕えるために、母を捨てたんだ」
「……」

この人は本当に人間なのだろうか。
この人は、本当に 心を持った人間なのだろうか――?
瞬は、今 初めて、心から 彼を恐ろしいと感じた。
彼に そこまでのことをさせる彼の神を恐ろしいと感じた。
許す神、裁く神、試す神、あるいは自分自身をしか見ない神。
ギリシャにもローマにも、オリエントやゲルマンや北欧にも、様々な性格を持った神がいるが、それらのどこにも、恋人や肉親の犠牲を強いる神はいない。
ユダヤ教のヤハヴェでさえ、我が子イサクを犠牲に捧げよと告げてアブラハムを試しはしたが、それを実行に移そうとした不幸な父親を止めたではないか。
この人の神は、いったい何者なのか。
瞬は、ハーデスに対してすら感じたことのない恐怖を、彼の神に感じていた。
少なくともハーデスは、親子を親子のまま、恋人同士を恋人同士のまま 滅ぼそうとするだけの優しさを持っていた。
恋人への愛、肉親への情を捨てろなどという冷酷なことは、冥府の王ハーデスでさえ言わなかったというのに、彼の“神”は。

「あなたの神は、そんなあなたを褒めてくれたの」
「当然のことと思っているようだった」
「ひどい……」
瞬の瞳から涙の雫が こぼれ落ちる。
冷めた口調で、当然のことのように そんなことを言う人間と対峙していることに耐えられず、瞬は 部屋を飛び出した。
瞬が通路に出た途端に、そこに控えていた氷河の手が瞬の腕を掴む。

「瞬」
瞬と同じように母がなく――瞬より つらい思いをして母を失った人に名を呼ばれた瞬は、そのまま氷河の胸の中に飛び込んでいった。
「瞬、どうしたんだ。あの男が おまえに何か――」
「その方がずっとよかった……!」
彼がアテナの聖闘士に何かしてくれたのだったら どんなによかっただろう。
だが、彼の神は、彼を敵視するアテナの聖闘士ではなく、彼を真の神と信じる者の母と恋人に冷酷な犠牲を強いたのだ。

「あの人も、あの人のお母さんもかわいそう……! お母さんが生きていてくれたら、僕は自分が悪魔になっても、お母さんを悲しませるようなことはしないのに! 自分に仕えるために母親を捨てろなんて言う神なんか、絶対に信じたりしないのに……!」
「ああ、わかった。わかったから、もう泣くな」
嗚咽混じりの言葉だけで、何が瞬の心を悲しませることになったのかが、氷河にはわかったのである。
涙が止まらないらしい瞬の身体を抱きしめて、氷河は その髪を撫でてやった。
瞬が逃げ出てきた部屋の中央で、瞬を泣かせた男が、泣きじゃくる瞬の姿を、驚いたように瞳を見開き見詰めている。
彼を、一度きつく睨みつけてから、氷河は もう一度 瞬の髪を撫でた。
優しく――もし瞬の母が生きていたら、彼女が我が子に そうしただろうように。
「泣くな。あんな馬鹿な男のために、おまえが泣くことはない」
瞬の嗚咽は、だが、なかなか止んではくれなかった。






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