「俺が信じている神は、絶対善の神、完全無欠の神だ。そして、神は その教えが この世界すべてが覆うべきだと考えている。しかし、完全無欠なものは 人に恐れられこそすれ、人に愛されにくいものだ。だから、神は、地上における神の代理を俺に命じたんだ。畏怖される神は天に、愛される神は地に――天の神の身の代として十字架にかけられ殉教することを、彼は俺に命じた。その時まで――その務めを果たす時まで死んではならないと言われていたから、俺は あなた方に囚われても死ぬわけにはいかなかった」 彼の神の恐るべき計画を、彼がアテナとアテナの聖闘士たちに話す気になったのは、恋人への愛を思い出したからなのか、母への情が蘇ったからなのか、もともと その胸中にあった神への疑念のせいなのか、あるいは、彼自身が生きていたいと願うようになったからなのか。 瞬には彼の真意はわからなかった。 アテナや氷河は わかっているような顔をしていたが。 「そ……それは いったいどういうこと? 自分では愛されることができないから、代わりに愛される神を作る? あなたの神は そんな卑劣な策略を巡らす神なの? あなたは そんな命令に従うの? そんな自分勝手な神のために、あなたが死ぬことなんかないよ。死にたくないんでしょう? だから、あなたは そのことをアテナに話す気になってくれたんでしょう?」 たとえ彼の神の言葉が真実を語るものだったとしても、その教えを広めるために信徒に殉教を強いる神が 正しい神であるはずがない。 少なくとも それは人間のために存在する神ではない。 彼の神の やりようを責めながら、しかし、瞬の声は弾んでいた。 彼は彼の神の理不尽と横暴に気付き、その神からの解放を願って、アテナに すがってくれたのだと思って。 彼の神よりもアテナの方が信じるに足る――少なくとも、心を開くことのできる神だと考えてくれたのだろうと思って。 実のところ、彼が信じる気になったのは、アテナを信じている瞬であり、彼の心を開かせたのは、彼を思って流された瞬の涙だったろう――と、氷河やアテナは察していたのだが。 いずれにしても、彼が、彼の神からの解放を願うようになったのは事実のようだった。 それは とりもなおさず、彼が彼自身の幸福を望むようになったということで、彼の その決意が 瞬は嬉しかった――喜んでいた。 そんな瞬に、信じていた神を捨てようとしている男が 苦しげに呻く。 「あの神は、俺が逃げたら、他の誰かを俺の代わりにするだろう……」 彼は、彼が彼の神から逃れることで、彼の代わりに犠牲にさせられるかもしれない誰かのことを案じているらしい。 彼のその沈痛な訴えを聞いても、しかし、瞬の声と瞳は明るさを保ったままだった。 彼は、彼自身のためにではなく、彼の見知らぬ“隣人”のために、彼の“隣人”の身を案じているのだ。 それもまた、瞬には喜ばしい変化だった。 「あなたは そんな卑劣な神の支配から解放されるべきだし、あなたの代わりになる誰かは、僕たちがきっと救い出すよ」 「君なら、きっと その人を救ってくれるだろう。少なくとも、そのために君にできる限りのことをしてくれるだろう。それは信じている。だが――」 「だが?」 人としての情を取り戻し、無理な犠牲を強いる神から逃れ自由になる決意をしたのである。 いっそ すがすがしい表情を浮かべていていいはずの彼の顔は、だが相変わらず暗いままだった。 「……俺は平凡な一人の男にすぎない。知らないんだ、あの神の居どころを。いつも どこからか指示が聞こえてくる。直接、俺の頭の中に」 「直接 あなたの頭の中に?」 「そういう者たちが、俺の他にも幾人かいて、その言葉を民に伝えてまわっているんだ」 「そう……なの……」 彼の表情が暗いままなのは、彼がアテナとアテナの聖闘士たちに有益な情報を与えることができないから――だったらしい。 そして、やはり彼は、本当に自分が 人間の心と命を軽んじる神から逃れきることができるのか、不安でいるらしかった。 「あの声は、ここに来てから聞こえなくなったが、俺が あの神から逃げたいと思っても、逃げ切れるかどうか……」 彼の懸念の前者はともかく後者は、瞬には案じる必要のない問題であるように思われた。 彼の神(だったもの)が完全無欠を標榜している神なら なおさら、その解決は容易だと、瞬は思っていた。 「多分、あなたのことは、あなたの恋人が守ってくれるよ。神の代わりに殉教する人に恋人がいたりしたら、あなたの神だった人は、自分の清廉や聖性が損なわれると考えそうだもの。そういう考え方をしそうだもの。ね、一刻も早く、あなたの恋人のところに行こう。きっと その人はあなたのことを待ってる。僕と氷河が一緒に行くよ。あなたがあなたの恋人に無事に会えるまで、僕と氷河があなたを守る。そのあとは、あなたの恋人があなたを守ってくれる。そして、あなたは、今度こそ本当に幸せになるんだ」 「マリアのところに……?」 その名を口にした時、彼は もしかしたら、聖域に来て初めて、優しい表情を浮かべた。 彼が どれほどその女性を大切に思っていたのかが如実にわかる表情の変化。 彼の瞳の中に浮かんだ優しさ温かさは、それを見ている瞬までをも幸せな気持ちにした。 そして、だからこそ必ず、瞬は彼の神(だったもの)の やりようを憎んだのである。 頭の中に直接響いてくる声など、アテナの聖闘士なら『特殊能力を持った者がいる』程度にしか思わないが、そんな力の存在を知らない者には、それは 十分に神の御業と信じさせ恐れさせることのできる能力である。 そんなものに 義があり、理があり、信があり、真実があるなどということは、瞬には考えられないことだった。 「あなたの大切な人……マリアさんっていうの?」 「母と同じ名なんだ」 「そう……」 彼女はマグダラの町にいるということだった。 瞬はアテナに許可をもらい、氷河と共に 彼をその町まで送っていったのである。 そこで一行が知ることになったのは、彼の恋人だった女性が(おそらくは恋人に見捨てられたことで自棄になり)娼婦に身を堕としてしまった――という事実だった。 彼は そのことを自分の罪と考え、責任を感じ、決して彼女を蔑むことはしなかったのだが、彼女の方が、自分を汚れた女と恥じて 彼を拒んだのである。 瞬は、幸福になれたはずだった恋人たちの不運を嘆き 案じたのだが、理不尽で傲慢な神から解放された彼は、驚くほど強く明るく、自分は必ずマリアを幸福にすると、瞬たちに断言してみせた。 それは、おそらく、彼が希望を取り戻したから。 その胸に希望を抱く人間は、幸福なだけでなく 強く優しいものであることができるのだと、彼の決意は瞬に確信させてくれた。 「マリアをここから連れ出すのに、少し手間取りそうだから、ここまでで……。君たちには君たちのすべきことがあるんだろう」 彼に そう気遣われた時、だから瞬は安心して、その言葉に頷くことができたのである。 彼はもう大丈夫だと。 もちろん、人が その命を生き切ることは決して安く易しいことではない。 だが、この先 どんなことがあっても、彼はそれを乗り越える――少なくとも、乗り越えるための努力をするだろう。 瞬はそう信じた――信じることができたのである。 「これからどうするの」 「マリアを連れて、俺の故郷に帰る」 「あなたの故郷? どこなの?」 「ガリラヤのナザレだ。あの町には母がいるんだ。俺を許し迎え入れてくれるかどうかはわからないが、俺は 母を見守っていられる場所で暮らしたい」 「大丈夫だよ。あなたのお母さんだもの」 自分自身は、アテナという神に仕え従い、彼女が望む地上の平和と安寧のためになら命をかけてもいいと思っているというのに、信じていた神を捨て 恋人と母親のために生きたいと告げる彼の心が、瞬は嬉しかった。 人間の生き方は様々であり、生きる目的もまた それぞれだろう。 それでいいと思う。 そして、それだけでなく――彼は もしかしたら、彼の神の道具にならないことで、彼の神(だったもの)の教えの犠牲になっていたかもしれない数万、数十万、あるいは それ以上の人間の命を救うことになるのではないだろうか――という考えが、瞬の中にはあったのである。 それほどに、彼の神(だったもの)の教えは、瞬には危険なものに感じられていた。 「あなたの名前を聞いてもいい? 今なら、名前くらいなら教えてくれるかな?」 「名前?」 彼は 自分が瞬に名前を名乗っていなかったことに、今 初めて気付いたような顔をした。 短く苦笑し、それをすぐに 故郷を懐かしむ人間のそれのような笑みに変え、彼は彼の名前を瞬に教えてくれた。 まるで、この名前を忘れないでいてくれと願いを込めているような瞳をして。 「イエスだ。俺の名前は イエスという」 「イエス―― 瞬が、やっと知ることのできた彼の名前を、噛みしめるように口の中で繰り返す。 その名を、瞬は、彼に ふさわしく、望ましい名前だと思った。 「その名の通りに、救ってあげて、あなたのお母さんとマリアさんを。そして、幸せになって」 それが瞬自身のための願いではなく、“イエス”と彼が愛する者たちのための心からの祈りの言葉だということを、神から解放されたイエスは、率直に認め受け入れてくれたようだった。 「ありがとう。君も――君たちも」 「うん。もちろんだよ」 それが、瞬たちがイエスと交わした最後の言葉だった。 互いに互いのために互いの幸福を願い、そして、彼等は、もう二度と出会うことはないだろう人と別れたのである。 それは希望のある別れだった。 瞬は、彼が、昨日より今日、今日より明日、より幸せになるだろうことを疑ってはいなかった。 だが、それでも――瞬の胸中の不安は完全には消え去ってはくれなかったのである。 「彼、大丈夫かな……。結局、彼の神だったものの正体はわかっていないし……」 「恋人と寝てしまえば、あの男は あの男の神にとって利用価値のない者になる。大丈夫。あの男は幸福になれる」 「ん……うん……」 氷河の言うように、彼は大丈夫だろう――と思う。 それは、瞬も疑ってはいなかった。 瞬が不安で恐いのは、イエスの未来ではなく、すべての人間が生きている この世界の未来だった。 「氷河……僕、なんだか恐い。恐い神がいるよ。ハーデスより恐い。僕たち、そんな神と戦うことができるのかな……」 ユダヤの神がイスラエルの民に約束した地。 その ほとんどが乾いた土で覆われた、生き物が その命を永らえるには過酷といっていい、砂漠の地。 イエスの心を恐れで支配していた神は、ここが生きている人間にとって過酷に過ぎる土地だから、この約束の地に出現したのだろうか。 イエスと 彼の愛する者たちが生まれ、これからを生きていく乾いた大地を見詰め、瞬は呟いた。 埃混じりの乾いた砂漠の風は、怯えを含んだ瞬のその呟きすら、すぐにどこかに運んでいってしまったが。 にもかかわらず、そんな瞬の肩を抱いて氷河が告げた言葉は、そこに残っていた。 「そんなもの、神と呼びたくない」 怒りの重みなのか、決意の重みなのか、あるいは、それが 瞬の胸に直接届けられた言葉だったからなのか。 「おまえのことは、おまえの恋人が守るから大丈夫だ」 理も根拠もない、ただ 感情と情熱だけでできた言葉。 だが、その 理も根拠もない言葉が、瞬の中に希望を運んできてくれるのだ。 砂漠の国でイエスと別れ 聖域に帰り着いた時には、瞬は、イエスの神に感じていた茫漠とした不安を忘れ、以前の希望の闘士に戻っていた。 |