掟の女神テミスが残していった言葉、最後に見せた悲しげな眼差し――に、氷河王子は不安を覚えないわけにはいきませんでした。
薔薇園のある庭園から宮殿内に戻っても、その心は なかなか晴れません。
氷河王子の様子がいつもと違うことに最初に気付いたのは瞬王子でした。
自分の存在が氷河王子を苛立たせることは わかっていたのですが、氷河王子の身を案じる気持ちは どうしても抑えられません。
ですから、瞬王子は、暗い顔をした氷河王子の側に おずおずと歩み寄り、小さな声で尋ねたのです。
「何か心配なことがあるの?」
と。

心配なことはありましたよ。
大いにありましたとも。
掟の女神テミスの呪い。
そして、『そなたは本当に、あの優しかった王妃の息子なの……』という、胸を抉るような言葉。
けれど、どうして それを瞬王子に打ち明けることができるでしょう。
打ち明けて、瞬王子に『大丈夫だよ』と言ってもらって、僅かでも不安な気持ちを和らげる?
そんなことができるはずがありません。
氷河王子は、心配顔の瞬王子を冷たく突き放すことしかできませんでした。

「おまえは この王宮にしがみついて、いったい何を企んでいるんだ! マーマの命を奪ったように、俺の命も奪う気か! それとも、城中の者を味方につけて、この国の乗っ取りでも考えているのか !? 残念ながら、おまえのその企みは成功しないぞ。城中のすべての人間が おまえの その大人しそうな様子にだまされても、俺だけは絶対にだまされないからな!」
「氷河……」
「俺は おまえの姿を見ているだけで不愉快になる。おまえのせいで死んだ人を思い出す。おまえは俺を苦しませることしかしない……!」
「ぼ……僕が このお城にいると 氷河が悲しい思いをするの……」
瞬王子の綺麗な瞳が涙の膜で覆われるのを見た途端、氷河王子は自分の言葉を後悔しました。

氷河王子とて、瞬王子が命の花を奪ったのではないことくらいわかっていました。
10年前には まだたった4歳の子供だった瞬王子に、そんなことができたわけがありません。
それに、もし氷の国の王妃が瞬王子を見殺しにして自分が生き延びるようなことを考えるような女性だったなら、自分が母を今でも愛していないこともわかっていました。
瞬王子への自分の怒りや憎しみが理不尽なものだということも、瞬王子に出会う前から、氷河王子はちゃんとわかっていたのです。

そして、実際に出会った瞬王子は優しく、可愛らしく、人の命を奪って自分が生き永らえることを考えるような人間ではありませんでした。
瞬王子の可愛らしさや優しく素直な心は、疑いようがありません。
大人になった今でさえ、どんな人にでも そう思わせてしまう瞬王子。
幼い頃には もっと純粋で愛くるしい様子をしていたことでしょう。
その可愛らしさや澄んだ瞳が 皆に――自分の母にまで――どうしても この子を救いたいと考えさせたのだろうと思うと、氷河王子は 瞬王子の可愛らしさに腹が立って仕方がなかったのです。

氷河王子が幼い頃には、氷の国の王妃様が その命をかけて守ったものには それだけの価値があったのだと氷河王子に思わせることが、氷河の心を慰めることと考えて、誰もが瞬王子を氷河王子の前で褒め称えました。
『火の国の王子様は、とても優しい心を持った王子様だそうですよ。氷の国から贈られた雪色の薔薇の花が一輪だけで寂しそうだからと言って、一晩中 鉢の側についていてあげたんだそうです』
『火の国の王子様は とても可愛らしい姿をした王子様だそうですよ。気の荒い猛犬も、瞬王子様の瞳に見詰められ にっこり微笑まれると、たちどころに大人しくなってしまうんだそうです』
そんなふうに。

幼い氷河王子は お母様の愛を独占していたい子供でしたから――本当に子供でしたから――周囲の大人たちに そう言われるたび、だからマーマは自分より よその国の王子を選んだのかと、考えずにはいられなかったのです。
そして、瞬王子を妬み、憎まずにはいられなかった。
そうしていないと、お母様がいなくなってしまった宮殿で、氷河王子は毎日 泣き暮らすことしかできそうになかったから。

やがて時が経ち、もはや子供とはいえない歳になって実際に会った瞬王子は、皆が話していた通りに、とても可愛らしく、澄んで綺麗な目の持ち主でした。
性質は穏やかで、心根は優しく、氷河王子の幸せを心から願ってくれていました。
もう幼い子供でなくなっていた氷河王子には、瞬王子の価値がちゃんとわかりました。
これまでの態度が態度でしたし、男の沽券というものもありましたから、瞬王子を妻に迎えてはどうかという提案を手放しで喜んでみせるわけにはいきませんでしたが、その話に胸が躍ったのは 紛れもない事実。
氷河王子は、瞬王子を好きになっていました。
本当は妻にだって、喜んで迎えたかったのです。

瞬王子はいつも氷河王子だけを見詰めてくれていましたし、その眼差しに込められているものは疑いようがありませんでしたから、瞬王子が氷の国の王子を好きでいてくれるのは事実なのでしょう。
氷の国の王子の幸せを願う瞬王子の気持ちにも嘘はないのでしょう。
でも、だからこそ。
瞬王子が自分よりも北の国の王妃の座を好きだったことが、氷河王子は許せなかったのです。
瞬王子を大好きになってしまっていたから――氷河王子は、瞬王子が欲しがっているものが どうしても許せなかったのでした。






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