「瞬はさ、過去は過去、今は今って 割り切れるような奴じゃないからなー」
「うむ。瞬はむしろ、内罰的というか、精神的マゾヒストというか、自分に直接責任のないことまで自分のせいにしたがる傾向がある人間だ。瞬が ハーデスから『地上で最も清らか』のお墨付きをもらうことになったのは、瞬が罪を犯したことがないからではなく、決して自分の罪を許そうとしない人間だからだろう。汚れている自分に甘んじることを許さないのが瞬だ。……となると、これは対応の難しい問題だな」

星矢と紫龍が、氷河と瞬の恋愛問題(?)に首を突っ込んできたのは、その難しい問題の対応に苦慮した氷河が彼等に泣きついたから――では、もちろんない。
瞬に知らされた拒絶の訳に得心できずに張りあげた氷河の怒声が 城戸邸内に響き渡るほどのものだったせいで、それが氷河の仲間たちの知るところとなってしまったのである。
要するに、その件を星矢たちに知らせたのは、他ならぬ氷河自身だったのだが、彼等の忌憚のない意見陳述に会って、氷河は彼等の口出しを非常に不愉快に感じることになった。
彼等が口にする瞬の人物評は実に的確で、氷河には異論を挟む隙すらなかったから。
つまり、それは、氷河には、『瞬に前世の記憶がある限り、瞬の心は変えられない』と宣言されたも同然のことだったのだ。
もっとも、問題の当事者でないせいか、彼等は、思い詰め閉塞的になっている氷河には思いつかないような突飛なことも氷河に提案してくれたのだが。

「沙織さんに、瞬の前世の記憶を消してもらうことってできないかなー。それって、もともと 今の瞬が持ってちゃいけない記憶なんだろ」
「どうだろうな。アテナは知恵の女神だ。人間に知恵を授けることはできても、記憶を消すことはできないのではないか」
「それで言ったら、死者の国を統治するのがハーデスの役目だろ。人の記憶をどうこうするなんて、越権行為じゃないか」
「越権行為かどうかはともかく、ハーデスには実際に その力があったわけだから」
「なんで あの世の番人が んな力を持ってんだよ!」
「確かに傍迷惑な話だが、持っていたんだから仕方があるまい」

彼等の突飛な提案は、だが、 とどのつまり、思いつけない慰めの言葉の代わりに発せられたものだったらしい。
氷河は自分の恋を諦められない。
そして、瞬の潔癖な心は、自分の罪を許すことはできない。
それが わかっているから、星矢と紫龍は、下手な慰撫の言葉を氷河に与えることができなかったのだ。
だが、おかげで氷河は、ある一つの可能性に思い至ることができたのである。


ある一つの可能性。
それは膠着している現況を打破することができるかもしれない一つの方策というより、膠着している現況そのものを否定する考えだった。
つまり、すべてを旧に復すること、瞬がハーデスによって思い出させられた記憶の内容そのものを否定すること。
その可能性が真実のものであると証明されれば、瞬の中にある罪悪感は その存在そのものが意味を失い、氷河の恋の進展するようになる――多分。
とはいえ、にもかかわらず、その可能性が真実であることは、氷河には全く喜ばしいことではなかったのだが。

「なんだ? 変な顔して」
自らが思い至った可能性のせいで、氷河は、星矢の言う通り“変な顔”をしていた。
暗く陰鬱ではないが 浮かぬ顔。
底なし沼にも似た絶望の淵から何とか這い上がった人間が、そこに どこまでも続く ぬかるみを見い出したような顔。
そんな顔を。

氷河の変な顔のせいで、星矢までが変な顔になる。
そんな星矢の前で、氷河は、いかにも不本意といったていで口を開いた。
「そんな切羽詰まった状況で――俺も瞬も死に瀕しているような状況で、瞬が俺を救うために、危険を承知で一輝に危地に赴くことを頼んだというのなら、俺は嬉しい。途轍もなく嬉しいんだが――」
「嬉しい?」

なぜそれが嬉しいことなのか、星矢には すぐには得心がいかなかったらしい。
「まあ、それは、言ってみれば、あとがないところまで追い詰められた状況で、瞬が一輝よりも おまえを選んだということになるからな」
紫龍にそう言われなければ、氷河がなぜ そんなことを嬉しがるのか、星矢は永遠に理解できずにいたかもしれない。
紫龍のその解説(?)を聞いて、星矢は一応、地上の平和と安寧を守る聖闘士としては最低最悪の状況を氷河が嬉しく感じる訳を理解できたような気になったようだった。
理解できたような気になっただけで、全く共感はできていないようだったが。

「そのわりに浮かぬ顔だな」
言葉とは裏腹としか言いようがない顔をしている氷河に、紫龍が尋ねる。
そんなことは言いたくないのだと言わんばかりの口調で、氷河は、彼が思い至ってしまった可能性を口にした。
「瞬が俺を死なせないでくれと一輝に頼んだのなら、俺は嬉しいんだ。それを罪だとも思わない。だが――」
「だが?」
「瞬が本当にそんなことを言うだろうか」
「……」

氷河の憂鬱そうな顔と口調も当然のことと、氷河の その一言を聞いて、氷河の仲間たちは思ったのである。
もしそこに氷河がいなかったなら、星矢たちは膝を打って得心し、晴れ晴れとした気分になっていたかもしれない。
氷河がその場にいたので、彼等は、
「言われてみれば……」
と、鹿爪らしく顎を引いてみせることしかできなかったが。

「言われてみれば、誰に対してであれ、瞬がそんなことを他人に求めるというのは考えにくいことだ」
「確かにそうだなー。瞬なら、そういう時って、這ってでも自分が氷河を救いに行こうとするだろうな。自分の個人的な好悪の感情のために 一輝を犠牲にするなんて、瞬にはできないだろ。そんな瞬を見かねて、一輝が自分から動いたっていうんなら わからないでもないけど」
星矢は その段になって初めて、氷河が何を疑っているのかを知ることになった。
ハーデスが瞬に偽りの記憶を植えつけたのではないかと、氷河はそれを疑っているのだ。

「確かに、ハーデスには、地上を お綺麗な世界にするっていう崇高な目的のためとか何とか理屈をこねて、どんな非道もしかねないようなとこはあったけどさ。んでも、奴にそんなことができるのか? 瞬の前世の記憶を蘇らせたっていうだけでも職域侵犯だってのに」
「うむ。ハーデスは傲慢で身勝手な男ではあったが、そういう汚い手は使わないような気がするな。奴は奴なりの美学を持っていた」
アテナの聖闘士であることを知りながら あくまでも瞬に固執したハーデスの やりようを美学というのなら、確かに彼は彼なりの美学の持ち主ではあっただろう。
平易安全ではあっても醜悪な道より、多大な困難を伴っても美しい道を選ぼうとする美意識が。
しかし、今 問題なのは、ハーデスの美学美意識の是非ではなく、事実はどうだったのかということだった。

「沙織さんなら、瞬たちの前世がどんなものだったのか、知っているんじゃないか? 身体は時代ごとに変わっても、神は永遠の命を持ってるわけだから」
「知っている可能性は大だな。もし転生を繰り返すことによって人間の魂も不滅のものであり得るのなら、『神の命が永遠』というのは、人間のように生まれ変わるたびに記憶がリセットされず、一つの意識、一つの記憶を連綿と保っていることを言うのだろうし」
「おっしゃー! んじゃ、早速、沙織さんとこ行って、訊いてみようぜ!」
「訊いてみようぜと言っても――」
星矢が張り切っているのは、沙織に真実を語ってもらうことができれば、出口のない迷宮のような現状が迷宮ではなくなり、星矢自身がすっきりできるから――のようだった。
青銅聖闘士たちが現在いるのが日本の城戸邸で、アテナが今いるのがギリシャ聖域だということも、彼が解決して すっきりしたい面倒事が、地上の平和にも人類の存亡にも全く関わりのない、極めて個人的な恋愛問題だということも、星矢には頓着すべき障害ではないらしい。

極めて個人的な恋愛問題の存在を星矢たちに知られてしまった時には、遠慮会釈なく彼等に渋面を作って見せた氷河だったのだが、今になって彼は、この極めて個人的な恋愛問題の存在を星矢たちに知られてしまったことは悪い事ではなかったのかもしれないという気になっていた。
渋る瞬を無理矢理 聖域に引っ張っていくことも、アテナに向かって『氷河の恋がかかってるんだから、ほんとのこと教えてくれよ』と迫ることも、星矢だからできること――星矢だから許されてしまうことである。
星矢の臆面のなさがなかったら、自分は はたして真実に至ることができたかどうか。
そう考えると、星矢の図々しさは賞賛に値する美徳だった。






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