地上の平和と安寧を守るために この地上に降臨している女神アテナに、星矢は堂々と言い切った。
「氷河の恋がかかってるんだから、ほんとのこと教えてくれよ」
と。
そして、地上の平和と安寧を守るために この地上に降臨している女神アテナは、
「本当は、前世のことは 人間に知らせてはいけないことになっているのよ。人間が前世でのことをすべて忘れて生まれてくるのは、過去に囚われることなく新しい命を生きるためなのだから。私自身、地上に降臨している時には、意識して過去の記憶を封印しているほどで――」
と困ったような顔をして言い、溜め息をついた。

解決できない問題を抱えているのが大嫌いな星矢は、一刻も早く面倒な問題を片付けて すっきりしたいらしい。
聖域、アテナ神殿の玉座の前で、星矢は、この問題の当事者たちより一歩前に出たところに立っていた。
その星矢から一歩引いた形で、氷河と、こんなことでアテナを煩わせるのは心苦しいと言わんばかりに瞼を伏せている瞬と、あくまで自分はオブザーバーとしてここにいるのだと無言で主張しているような紫龍がいる。
氷河だけが、アテナより瞬の方に 強い意識を向けていて、その意識は 瞬への苛立ち、焦れったさ、いたわりの気持ちが微妙な比率で構成されていた。
彼等の立ち位置、相対的な位置関係は、笑い出したくなるほど“いつも通り”で“相変わらず”。
『それは人間には知らせてはならないことである』という禁忌を曲げて、アテナが星矢の談判に応じる気になったのは、どれほど つらく苦しい戦いを経験しても“いつも通り”で“相変わらず”な彼女の聖闘士たちの様子を見て、アテナの心が ついなごんで・・・・しまったからだったかもしれない。

「――元はといえば、死んでもいない人間に対して 無理矢理 過去の記憶を思い出させてしまったハーデスのせいなのだし、同じ神として、私に責任がないとは言えないし……。何より、氷河の恋の成否が かかっているとなれば、知らぬ振りもできないわねえ」
おそらく、彼女の聖闘士たちに対してではなく、天上の神々に対して 禁忌の違背の正当性を主張するために、彼女はそう言った。
そして、今度こそ、彼女の聖闘士たちの方に向き直る。
「あれこれと詳細な経緯までは語るわけにはいかないので、大事な事実だけを教えるわ。これまでの聖闘士たちの戦いにおいて、白鳥座の聖闘士と鳳凰座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士が同時に命を落としたことはありません。白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士が同じ戦いで ほぼ同時に命を落としたことはあるのだけれど」

「氷河と瞬と一輝が同じ戦いで死んだことはない? てことは、瞬の記憶が事実と違ってるってことだよな?」
「そういうことになるわね」
「んじゃ、やっぱり、ハーデスの奴が偽の記憶で瞬を惑わそうとしたんだ!」
これで一件落着とばかりに意気込んだ星矢の上に、
「残念だけど、ハーデスにそんなことはできないわ」
という、気の毒そうなアテナの声が降ってくる。
途端に、それまで盛んに燃え上がっていた星矢の血気は、青菜に塩状態で しおれてしまった。
「できないって、何だよ、それ! 神様なら、それくらいできたっていいだろ!」
「そんなことを言っても、できないものはできないのよ」
事実を変えることはアテナにもできないのだと宣言するように、アテナは両の肩をすくめた。

「できないとは どういうことですか」
しおれて やる気をなくした星矢のあとを、紫龍が引き受ける。
折れた一番槍の後始末は、“いつも通り”今回も彼の仕事だった。
「冥界は、死者の生前の罪科を鑑みて、その人間に死後の処遇を決定する役所のようなところよ。当然、ハーデスは、その人間の生前の行状を洗い出すための力は持っている。当人が忘れてしまっているような過去の記憶を掘り出すこともできる。その際、その人間が責任を負うべき範囲は、その人間の一生。前世は範囲外。なのに、ハーデスは 使うことの禁じられている力を使って、瞬の前世の記憶まで蘇らせてしまった。そういう力は ハーデスも有しているの。でもね、ハーデスには、事実を曲げたり、人の記憶を改竄したりすることはできないのよ。彼には、そんな力は与えられていない。冥府の王がそんな力を持っていたら、公正な裁きが成り立たないでしょう」
「それは確かに」
「ええ。万一、その力があったとしても、彼はそんなことはしないでしょうね。そういう嘘とか偽りとかいうものは、ハーデスが最も嫌悪する醜いことだから」
「では、なぜ、事実と瞬の記憶が食い違っているんですか。瞬は、自分と氷河と一輝が ほぼ同時に命を落としたと――」
「そこが問題なのよね」

沙織と紫龍に視線を向けられた瞬が、その視線を受け、たじろぐ。
気を取り直し浮上しかけた星矢、そして氷河の前で、瞬は瞳を見開き、やがて短い呻き声を洩らした。
「でも……でも、僕は憶えているんです。僕が自分を守るために――氷河の命を守るために、兄さんに 頼んじゃいけないことを頼んだこと。そして、兄さんを死なせて……兄さんの小宇宙が完全に消えた瞬間のことを、僕は憶えてる。僕が……僕が兄さんを殺したんだ――」
「……」

その時、アテナ神殿にいた すべてり者の思い。
それは、『瞬が嘘をつくはずがない』というものだった。
まして、その嘘は、誰に知らせても、瞬にどんな益も もたらさない――むしろ、不利益しか もたらさない嘘なのである。
いったい これはどういうことなのか。
もしかしたら瞬は、この世界ではなく違う世界での前世の記憶でも持っているのではないか。
星矢たちは、そんな突拍子のないことまで考え始めていた。






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