解明されない真相。
模糊としたまま分明にならない聖闘士たちの心情。
このままでは、事態は どんな終わりを迎えることもなく、どんな始まりにも至らない。
そんな暗鬱な予感を感じ始めていた聖闘士たちを、沙織が連れていったのは、聖域の一画にある聖闘士たちの墓場だった。
青銅聖闘士、白銀聖闘士、黄金聖闘士の区別なく、それぞれの守護星座と没年だけが記された簡素な墓標だけが並んでいる、歴代聖闘士たちの墓場。
生きていた時に どれほどの力を持っていようと、どれほどの偉業を成し遂げようと、その命を終えれば、形として残るものは みな同じ――むしろ、無ということなのだろう。
そこは、聖闘士に限らず、一個の人間が この地上に何かを残すことができるとしたら、それは人の記憶に残るような何か、伝説にすらなるような何かだけなのだということを物語っている場所だった。
――形あるものは、いずれ消え去るのだ。
やがては、この墓標さえ。

明るくもなく暗くもなく、寂しくもなく賑やかでもなく、ただ清閑として並んでいる墓標の前で、沙織は瞬に尋ねてきた。
「その時代のことを憶えている? あなたと氷河と一輝が同時に命を落としたという、その戦いは聖域で行なわれていたの? それとも聖域の外?」
「あ……」
こんな場所で、なぜ沙織が そんなことを問うてくるのか。
その意図を理解して、瞬は小さく身震いをした。
沙織は、ここで、かつてのアンドロメダ座の聖闘士や白鳥座の聖闘士の墓を探そうとしている――のだ。

「聖域……ではなかったと思います。ヨーロッパのどこかで――白と黒で色分けされた背景に赤い十字架の描かれた紋章みたいな旗や盾を持った騎士みたいな人たちが、神と聖闘士の戦いに混じっていました。ただ、その人たちは普通の人間だったと思います。聖闘士ではなかった。神に近付くことさえできずに、彼等は次々に倒されていったから……」
瞬の説明は、沙織の中の ある記憶と合致するものだったらしい。
彼女は墓標と墓標の間をゆっくりと――だが、明確に目的の場所を知っている足取りで歩き出した。
まるで、この広い墓場のどこに誰が眠っているのかを、すべて熟知しているような足取りで。

「それは、テンプル騎士団の紋章よ。テンプル騎士団は12世紀初頭に設立され、1312年のヴィエンヌ公会議で、フランスのフィリップ4世によって消滅させられているの。ハーデスがあなたの中に蘇らせた記憶の中の戦いは、1100年から1312年の間のことと考えていいわね」
「そう……なんですか」
「あれは、正統を標榜するキリスト教徒と、異端の汚名を着せられたキリスト教徒と、ギリシャの神と聖域が複雑に絡み合って起こった、一種の宗教戦争だった。――ここよ」

沙織は、どうやら本当に、彼女の聖闘士たちの墓標のありかを すべて記憶に留めているらしかった。
迷いもせずに、彼女が指し示した二つの墓。
それは、瞬が察していた通り、アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士の墓だった。
没年は、同じ1307年。
少し離れたところに鳳凰座の聖闘士の墓があった。
そちらの没年は1317年。
つまり、その時代の鳳凰座の聖闘士は、アンドロメダの聖闘士と白鳥座の聖闘士の死から10年後に亡くなった――ということになる。

「この10年の月日の開きの意味はわかるわね?」
沙織に問われても、瞬は、しばらく呆然としたまま、何も答えずにいた。
10年の時の開き。
その意味するところはわかる。
だが、それは瞬の中では ありえないことだったのだ。

「でも……でも、僕は兄さんに言ったんです。氷河を助けてって。そして、そのせいで兄さんは――」
「本当に? 本当に そう言ったの?」
重ねて尋ねられた瞬が、一瞬 答えを ためらったのは、彼が嘘をついていたからではなかった。
むしろ、その逆。
事実を正直に言っているつもりだったからこそ、瞬は言葉をためらったのである。
「氷河という名前ではなかったかもしれないけど、でも、あれは氷河だった。そして、兄さんだった。なのに、どうして――」
どうして自分の記憶に残っている通りのことを、この墓標は示していないのだろう。
事実が記憶を裏切っているのか、記憶が事実を裏切っているのか。
瞬には、この矛盾がどうしても理解できなかった。

困惑し 瞼を伏せてしまった瞬を、沙織が切なげな眼差しで見詰める。
そして、彼女は、ゆっくりと口を開いた。
「この墓標に刻まれている年号に間違いはないわ。私は、700年前にパリでの戦いで あなたを失った一輝の悲痛を憶えているから」
「で……でも、そんなことは――」
そんなことはありえない――ありえないはずだった。
瞬自身、出血が多く 生き延びる可能性は皆無に近い状態だったが、その心臓から鼓動のための力を奪い去ったのは、兄の死と氷河の死だったのだ。

「これは推測にすぎないのだけれど――あなたは自分で自分の記憶を改竄したのだと、私は思うわ。言ってはいけない言葉を言ってしまったと」
「……」
推測にすぎないのだとしても――アテナは いったい何を言っているのか。
アテナの“推測”が あまりに突飛に思えるものだったので、瞬の思考は一瞬 活動することを忘れてしまったのである。
少しずつ 考える力が戻ってくるにつれ、アテナの推測が正鵠を射たものであれば 記憶と事実の矛盾に説明がつくことがわかってくる。
人には そんなこともできるのかもしれない――と、瞬は思った。
だからといって、自分の場合もそうなのだと素直に認めることは、瞬にはできなかったが。

「じ……自分で自分の記憶を改竄――って、何のためにですか」
「あなたのことだから、罪を負うため、罪を贖うために」
「そんなことをするはずが……。犯してもいない罪を犯したと思いたがるなんて……変です」
「そうね。本当に変なことね」
沙織の推測を否定する瞬に、沙織は反論してはこなかった。
逆に、彼女は瞬の反論に同意してきた。

「普通は逆なのよ。普通は、意識的にであれ 無意識的にであれ、人は 自分の罪の意識を軽減しようとする――自分に都合の悪いことは忘れようとするものよ。普通、人は、自分を悪人ではない、罪人ではないと思いたがるものだから。でも、あなたは そういうタイプの人間ではないから……」
「そんなことありません……! ぼ……僕だって、自分を罪人だなんて思いたくない。当然でしょう。誰がそんなことを自分から望むっていうんです」
「『誰が』と問われれば、『あなたが』と答えるしかないわね」
「……」

アテナが当然のことのように告げる言葉を、瞬は 当然と思うことができなかった。
人は誰でも、叶うことなら清廉潔白な人間でいたいと――罪や汚れのない清らかな人間でありたいと望むものだろう。
それは自分も例外ではないと、瞬は思った。
現に、自分は、自分の犯した罪に苦しんでいる。
誰が好き好んで こんな苦しみを我が身に負いたがるものか――と。
だが、アテナの考えは、瞬のそれとは違っているようだった。

「おそらく、あなたは その時、一輝に氷河を助けてと言いたかったのよ。でも、言わなかった――言えなかった。それが事実。そして、そう言いたいと思ったことも事実。だから、あなたは、そう言いたいと思ったことが 既に罪だと思ってしまったのでしょう。その罪悪感が、実際には言っていないことを、自分の中で言ったことにしてしまったのよ。そうして、一輝への罪悪感が、あなたの記憶を塗り変えてしまったのだと思うわ。あなたは、おそらく、そう言ったことではなく、言いたいと思ってしまったことへの罰を受けたかったのね」
「思ってしまったことへの罰……?」
「ええ。あなたは、そう言おうとしたかもしれない。氷河を助けるために、一輝に犠牲を求めようとしたかもしれない。でも、そうしなかった――あなたは、言えなかったのよ」
「で……でも、もし そうだとしても……もし そうだったのだとしても――言おうとしたのなら、同じことでしょう!」

同じことだと、瞬は思った。
そして、同じことだと思っている自分を認め、アテナの推測は正しかったのかもしれないとも思ったのである。
ただし、自分が求めていたのは“罪”ではなく“罰”だった――と。

「同じことではないわ。一輝に生きていてほしくて、あなたは思い留まったの。そして、氷河と二人で死ぬことを選んだ」
「じゃあ……じゃあ、僕は氷河を見捨てたんですか? 氷河は もう助からないって諦めて、だから兄さんに 氷河を助けてって言わなかったの……?」
「……あなたはどうして、そんなに自分を悪者にしたがるの」
アテナは、瞬の罪への固執に呆れているようだった。
嘆かわしげに、彼女は微かに首を横に振った。

「もちろん、私は あなたではないから、あなたが本当はどういう考えで 一輝に助けを求めなかったのかは わからないわ。でも、おそらく あなたは、一輝は生きているべきだと思ったのよ。一輝に生きていてほしいと思った。そして、氷河と一緒に死んでもいいと思ったのでしょう。その判断は正しいものだったと思うわ。一輝と あなたの仲間たちは、あなたと氷河の死を乗り越えて、あの戦いを終結させたのだから」
「あ……」
瞬は 罪人になり罰を受けたいのに、その願いを叶える道を、アテナは ことごとく ふさいでしまう。
瞬は、泣きたい気持ちになったのである。
自分は悪いことをしたのだから、その悪事の報いを受けたいのだ。
そんな ささやかな望みを、なぜアテナは叶えてくれないのか――と。






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