瞬が二人の侍官に連れられて氷河の館にやってきたのは、そんな時だった。
瞬は、14、5歳程度に見える小柄な身体に 大陸東部で産する白い絹をまとった、首の細い子供だった。

モンゴル帝国は、軍事政治以外の分野――生活、宗教、芸術といった分野では、寛容策を採っていた。
モンゴル高原の東西南北に侵略の手をのばし、領土だけでなく、その土地土地の優れた文化をも吸収し採用していたのである。
キプチャク・ハーン国の王宮内にある氷河の館の部屋には、西欧の寝具、北欧の家具、大陸東部の絹、中東の細密画、天文書、ルーシの暖炉――と、世界中の様々な生活用品が揃っていた。
世界中の実用的な物が集まっていた――と言っていい。
氷河自身が身に着けているものも、型は 草原の民モンゴル特有の膝下まである長衣デールだったが、それは綿や皮ではなく、大陸南部からもたらされた絹でできていた。
だから――というわけではないのだが、二人の侍官の間に立つ瞬を見た時、氷河が最初に思ったことは、はたして この美少女は、帝国の西の産物か東の産物か、北から来たのか南から来たのか――ということだったのである。

モンゴルの血は入っていない。
それは確実だった。
髪や瞳の色の薄さは 西方か北方産に思えるが、体型や肌の肌理きめ細かさは東方産。
まるで、この部屋のようだと思ったのである。
ただし、世界中の便益を集めて作られたものではなく、世界中の美しさを集めて作られたもの。
生きている美しい人間には、母以外には近しく接したことがなく、また接することを禁じられてもいた氷河は、なぜ こんな綺麗なものが自分の前に連れてこられたのか、その事情がわからず、少しばかり戸惑うことになったのだった。

「何だ、これは」
「王陛下から、殿下への贈り物でございます。名は瞬」
侍官の一人――以前は百人隊ジャガンを率いる将だったという老体――は、鹿爪らしい顔をして、氷河の質問に そう答えてきた。
「贈り物?」
「はい。殿下の身のまわりの世話をさせよと」
「ああ、つまりですね」
荒い気性の兵たちを指揮していた軍人らしい嗄れた声の相棒の まだるっこしさに苛立ったのだろう。
以前は料理番バウルチだったという、もう一人の中年の侍官が、横から口を挟んでくる。
「殿下はこの頃、落ち着きをなくし、苛立っている。お偉い方々は、その苛立ちを静める方策を あれこれ考えたらしいんですな。その結果、思いついたのが この手で――要するに、この者に殿下の妻の代わりを務めさせようということのようで」

『つまり』『その結果』『要するに』を並べ立てたわりに、全く要領を得ない。
元料理番の侍官の告げた言葉は、元百人隊隊長の侍官の言葉を、要約してもいなければ、補足するものでもなかった。
「妻の代わりとは どういう意味だ」
「言った通りです。この者に夫の権利を行使してもいい。つまり、寝てもいいってことでしょう」
初めて『つまり』が正しい用法で使われ、その効果を発揮する。
今度は、氷河も、元料理番の言わんとするところを理解することができた。
だからといって、その理解が氷河を喜ばせたかというと、全く そういうことにはならなかったが。
“要するに”元料理番の言う“お偉い方々”は、昨今の氷河の苛立ちを性的な欲求不満からくるものと考え、その解決のための方策を氷河の許に送り込んできた――ということらしい。
しかし、残念ながら、“お偉い方々”のやりようは、氷河の苛立ちを いや増しすることにしか役立たなかった。

「俺の務めは、この国の軍の不敗を守ることと、王家の血に不吉な金色を混じり混ませないことだと思っていたが」
「その点は大丈夫です。殿下が誤解するのも無理はないですけどね、こう見えても、この子は男子なんだそうです」
「なに?」
元料理番のその言葉に、氷河は目をみはったのである。
この ぶよぶよと太った男は、山海の珍味の盗み食いで舌ばかりが肥え、目は仕事をすることをやめてしまったのかと。

なめらかな肌、肩にかかる やわらかい髪、細い肩、華奢な手足。
何より、清潔で しなやかな白い指と、戦いの辛酸など見たことがないように澄んだ美しい瞳。
それらが男子のものであるはずがない。
元料理番は、彼なりに気の利いた冗談を言ったつもりなのだろうか。
だとしたら、それは少しも面白くはないが、発想だけは なかなか奇抜な冗談だった。
その奇抜さに免じて、氷河は、彼の冗談を一笑に付すくらいのことはしてやってもいいと思ったのである。
氷河は、実際にそうしようとした。
が。

元料理番の口調は下卑てはいたが、冗談を言っているふうではなかったのである。
地中海沿岸では――古代ギリシャや現在のセルジューク朝では、男子を女子のように愛でる風習があるという話は、氷河も聞いたことがあった。
では、これは――これも、世界中から集めた便益の一つ。子を産むことなく 男の性的欲求を昇華させるための道具の一つなのだろうか。
美しく便利な道具の無垢な瞳に、氷河は唖然としてしまったのである。
そんな氷河に、元料理番の侍官が補足説明をしてくる。

「男子ではあるんですが、殿下の気に入るよう、仕込んであるとのことです」
「仕込んである?」
「はい。さる高貴な御方が、御手ずから、入念に」
下卑た物言いが不愉快でならない。
神経に障る。
“つまり”この便利な道具は、氷河の兄弟たちの誰かが その実用性を試用した後の品――“要するに”誰かの お下がりということなのだろう。
そう察して、氷河は ますます不愉快になった。

まだ ほんの子供である。
この澄んだ瞳の持ち主が――と思うと、氷河は、侍官たちや“お偉い方々”、“さる高貴な御方”だけでなく、今 自分の目の前に立つ首の細い子供にまで腹が立ってきた。
もっとも、瞬を連れてきた侍官――元百人隊隊長の方の侍官の、
「10年前の殿下の初陣だった小アルメニア王国討伐の戦場で拾われてきた子供なのだそうです。幼い子供の目で人死にを見すぎたせいか、この子には 人間らしい感情がない。愛も憎しみも悲しみも、この子は持っていない」
という説明のせいで、首の細い子供に対する氷河の怒りは、すぐに自分自身への怒りに変わってしまったが。
否、氷河の立腹は、瞬時に静まり霧散してしまったのだった。

この首の細い綺麗な目をした子供は、キプチャク・ハーン国の不吉な色を持つ王子のせいで、すべてを失ってしまったのだ。
故国も家族も感情も。
征服者に身体まで蹂躙され、人としての誇りすらも。
この子供は、おそらく、自分が生き続けるために心を捨てるしかなかったのだろう――。
そう考えると、瞬の澄んだ瞳は、氷河に苛立ちを運ぶものではなくなった。
その澄んだ瞳が氷河の許に運んでくるものは、ただ悲痛な色をした胸の痛みだけだった。

「これからおまえが仕えることになる王子様だ。キプチャク・ハーン国不敗神話の守り主。どんなご命令にも決して逆らうことなく従うように」
元百人隊隊長に そう言われる前から、瞬の目はまっすぐに氷河の上に据えられていた。
「なんて綺麗。お陽様と空の色」
瞬が初めて口を開く。
その唇から出てきた言葉は、瞬の故国の言葉ではなく、たどたどしいモンゴル語。
感情は失っても、最低限の知性までは失われなかったか、あるいは、それもまた生き延びるために必要な術だったのか、瞬は自分の故国を滅ぼした国の言葉を ある程度習得しているようだった。

「皆、不吉な色だと言うぞ」
「こんなに綺麗なのに、どうして?」
「さあ。どうしてだろうな」
王宮の誰もが、氷河の機嫌を損ねるのを恐れ、氷河の前では言及しないことを、瞬は恐れる様子もなく口にした。
二人の侍官が揃ってぎくりと身体を強張らせる様が視界の端に映ったが、氷河は瞬に微笑を返していた。






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