「殿下は あの子を気に入っているようですし、そろそろ試してみる気になりませんか」
元料理番の侍官が氷河に そう言ってきたのは、瞬が氷河の館に来て半月が経った頃だった。
瞬が側にいるようになって、氷河の苛立ちは すっかり鳴りをひそめていたのだが、そんな氷河とは対照的に、どういうわけか彼の態度には焦慮が見え隠れしている。
“お偉い方々”の目論見は当たったというのに、彼はなぜ、何を焦っているのか。
思い当たる理由といえば、氷河の侍官としての彼の1ヶ月の任期が 既に半ばを過ぎているということ。
“要するに”彼は、彼が“お偉い方々”に命じられて行なった仕事の首尾を、その任期中に“お偉い方々”に報告したいのだろう。
できれば、自分の手柄になるように、『事は皆様の目論見通り、うまく運んでいますよ』と、良い報告を。

しかし、氷河は、キプチャク・ハーン国の不吉な色を持つ王子のせいで運命を狂わされ、既に十分すぎるほど傷付いている瞬を、更に傷付ける気にはなれなかったのである。
綺麗な王子様を毎日見ていられて、瞬は今は幸せそうだった。
そんな瞬の様子は、氷河の心をも和ませている。
それで十分に“お偉い方々”の目的は達成されたといっていいではないか。
氷河は そう思っていた。

「試すとは どういう意味だ」
牽制の意味を込めて、氷河は白々しく問い返したのだが、元料理番の侍官は、氷河の牽制に気付いた様子もなく、真顔で、
「あの子と寝てみてください」
と答えてきた。
はっきり『そのつもりはない』と言わなければ、この男にはこちらの意思が通じないのかと、氷河は少々うんざりした気分になってしまったのである。
侍官は、そんな氷河の不快にも気付いた様子を見せなかった。
彼は、彼にしては真剣な顔で、言葉の先を続けた。

「私に、瞬を殿下の許へ連れていくように指示した監督官の考えは、殿下が瞬を抱けば必ず夢中になって、王位への野心もどうでもよくなるだろうというもので――それが お偉い方々の狙いなんですよ。形だけでも瞬に夢中になっている振りをするのは、殿下のためにもなるんです」
「……」
「私が、『事は計画通り進んでいる』と監督官に報告できれば、殿下を疎ましく思っている一派の目を欺くことができて 殿下も安泰、私も役目を果たせたことになり、監督官も 良い報告を お偉い方々に奏上できるわけで、まさに良いこと尽くめ。これは、殿下の感情や矜持の問題じゃなく、政治的な問題なんです。ご自身のためにも、うまく立ち回ってください」
元料理番は、“お偉い方々”の陣営にいるわけではなく、もちろん氷河の味方というわけでもなく――正しく“自分”の味方であるらしかった。
だが、“お偉い方々”のように腹に一物抱えておらず、あけすけで正直な分、裏を探る必要がなくて対応が楽である。
彼は、嘘は言っていないようだった。

「だが、あれは男なんだろう」
「ええ。どんな女より綺麗な」
そう言って、元料理番が にやにやと笑う。
どうしても下卑た品性がにじみ出てしまうのも、ある意味では、彼が腹に企みを抱えていない――そんな器用なことができない男だということの証左と言えないこともない。
氷河は、彼の品性下劣を不快に感じずにいることはできなかったが、確かに、元料理番の言うことには一理があった。

『瞬を見ているだけで心が和む』などという氷河の気持ちは、おそらく“お偉い方々”には通じない――理解できないのだ。
彼等は、『不吉な色の王子は、実際に瞬と寝て、瞬に夢中になっている』という具体的な報告を聞いて、自分たちの計画が図に当たったことに北叟笑み、心を安んじたいのだろう。
氷河にとっても、彼等が安心していることは、彼等を油断させておけるということで、それは決して悪いことではなかった――むしろ有益なことだった。






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