「俺を嘲っているんだろう。罠とわかっているのに、自分から その罠に足を踏み入れている俺を」 「男ってのは、そんなもんですよ。俺も殿下の歳の頃には、食い物より女に夢中だったが、殿下ほど立派な仕事はできなかったなあ。あの頃 既に太り始めてたってのもあるんですけどね。普通の女は あれこれ注文がうるさくて、機嫌をとらなきゃ、こっちのしたいようにさせてくれないんですよ。それが段々 面倒になってきて――その点、イモや羊肉は大人しいし、俺の言うことを よくきくし、可愛いもんです」 元料理番の侍官は、嘘をつけない分、腹を割って話すと ざっくばらんな気のいい男だった。 「お偉い方々には、ありのままを報告してますよ。殿下は すっかり あの子に夢中で、毎晩 それは熱心に励んでるってね。俺の仕事熱心を強調するために、その回数を教えてやったら、呆然としてましたよ。ありゃあ、若い頃にも殿下ほどには できなかったんだなあ。ろくなもんを食ってないのか、ひょろひょろしてるし、あれじゃ、俺より女にはもてなかっただろう。書記官殿の奥方が旦那以上に ぎすぎすしてるのは、どう考えても欲求不満のせいだね。あの剣突張りの奥方に、殿下の精勤振りを教えてやりてーや。書記官殿は、確実に奥方に いびり殺されるだろうね」 彼は、氷河を腑抜けにしようと画策している“お偉い方々”が誰なのかということも、悪気なく氷河に教えてくれた。 彼は“お偉い方々”の味方ではなく、氷河の味方でもなく、正しく“自分”の味方。 自分が“お偉い方々”の悪事に加担している意識も持っていないようだった。 その ざっくばらんで正直な元料理番が、氷河に対して固く守っている秘密があった。 氷河がどれほど巧みに誘導しても、かまをかけてみても、彼は、“さる高貴な御方”の正体だけは、氷河に教えようとしなかったのである。 氷河の館に来てからも、瞬は、4、5日に一度は、王宮の本殿に行っていた。 王宮の本殿は、 当然、瞬は、王宮内で相当の身分と権力を有する者に招かれ、その招きに応じているということになる。 そこで数刻を過ごし 氷河の館に帰ってきた瞬は、いつも あどけない子供のように幸せそうな笑顔を浮かべていた。 瞬に そんな笑顔を浮かべさせる男の正体を、氷河は知りたくてならなかったのである。 瞬は、氷河にも笑顔を見せてくれることはあった。 というより、瞬は、氷河の前では ほとんどいつも笑っていた。 二人が毎夜 同衾するようになってからも、氷河が浅ましい欲望に我を忘れている時でさえ、瞬の瞳はいつも嬉しそうに輝いている。 だが、王宮の本殿に行き 氷河の許に戻ってきた時の瞬の笑顔は、瞬がいつも氷河に向けているそれとは 種類が全く違うものだった。 たとえて言うなら、瞬が氷河に見せる笑顔は、たまたま知り合った他人に対する笑顔、正体のわからぬ男が瞬にもたらす笑顔は、家族に対するそれ。 瞬が氷河に見せる微笑は 友人に向けるもの、正体のわからぬ男が瞬に浮かべさせる微笑は 熱愛する恋人のためのもの。 そんなふうに、微笑の質が 全く違っているのだ。 「瞬を本殿に呼んでいるのは誰だ」 「お知りにならない方がよろしいかと」 「あそこまで瞬を仕込んだ男というわけか」 「本当に、知らないでいる方が殿下のためなんですよ」 最初のうちは、曖昧な笑いで答えをごまかしていた元料理番が、謎の男の正体を探ろうとする氷河の面詰が たび重なるにつれ、真剣な目をして氷河から逃げようとするようになっていた。 彼が氷河に対して“高貴な御方”と言える人間は限られている。 それは、どう考えても、キプチャク・ハーン国の王族の誰かだろう。 氷河の兄弟たち、従兄弟たち、叔父伯父たち――人数が多すぎて、氷河には 全員の顔を思い浮かべることもできなかったが、瞬を招いている者を特定できないことが、かえって氷河の妬心と憤りを激しくした。 そして、やり場のない氷河の怒りは 瞬に向かうしかなかったのである。 「氷河……恐い顔……」 あの笑顔を王宮から持ち帰った瞬は、氷河が“恐い顔”をしていることに、夜になって初めて気付いたらしい。 普段の瞬なら もっと早くに気付いて、すぐに心配そうな目を氷河に向けてくるのに。 「……いや。来い」 「うん。……はい」 王宮に呼ばれていった日にも、氷河が名を呼び 腕を差しのべれば、瞬は素直に その身を氷河の胸に預けてきた。 今では 瞬は すっかり氷河の愛撫に慣れ、自分は“気持ちよく”なれると信じて、氷河が求める どんな無理にも従い応じるようになっていた。 そして実際に、瞬は、氷河が求める どんな無理も、その身体で受けとめてしまうと 本当に気持ちよいものに換えてしまうようだった。 正体のわからぬ男の影に苛立った氷河が、力任せに瞬の腹に拳を打ち込んで 気を失わせ犯したり、腕を捩じ上げて その男の名を白状させようとする時は、その限りではないが。 瞬の身に着けているものを すべて引き剥ぎ、灯りを近付けて、その男の痕跡を探そうとしても、それらしい何かが見付かったことは一度もなかった。 その男は、よほど優しく瞬を愛撫しているのだろう。 だから瞬は その優しさを喜んで、あの笑顔を浮かべるのだ。 氷河の乱暴な愛撫を、瞬は本当は恐がっているのかもしれなかった。 氷河の乱暴な愛撫を受けても、王宮に出掛け氷河の許に戻ってきた夜の瞬の歓びは いつもより深く大きい。 おそらくは、その男の愛撫の余韻のせいで。 正体のわからぬ その男に、氷河は嫉妬せずにはいられなかった。 いつのまにか瞬は、氷河に その身体を貫かれるたび、 「氷河、好き」 と喘ぐようになっていた。 氷河がそう言うように命じたわけではないのに。 そう言うように 氷河は、どんなことにでも嫉妬できた。 嫉妬せずにはいられなかった。 瞬が悪いわけではない。 それは わかっているのである。 自分が不吉な色の王子に対して残酷なことをしていると、瞬は意識してさえいないだろう。 氷河に故国を滅ぼされ、否応もなく見知らぬ国に連れてこられ、おそらく その意思を確かめられることもなく、瞬は そういうことを“仕込まれた”のだ。 多くの者たちに煙たがられ憎まれている王子の許に行くことも、瞬の意思に関わりのないところで、瞬以外の者たちが勝手に決めたことであるに違いない。 そして、瞬は、その者たちに『不吉な色の王子の言うことを大人しくきけ』と言われ、言われたことに従順に従っているだけなのだ。 そんな瞬に、どんな罪があるというのか。 罪を犯したのは、瞬から故国を奪ったモンゴル帝国――キプチャク・ハーン国。 そして、罰を受けるのは 瞬の故国を滅ぼし去った男であるべきだろう。 氷河は、その罰を受けていた。 瞬に愛されないという罰。 瞬に愛されない苦しみに日々 苛まれるという罰を。 |