「氷河。先ほど、お母様が亡くなられました」 氷河が瞬に肩を揺さぶられ目覚めたのは、それから2日後の深夜のことだった。 母の死期が近いことを悟った その日から、それまで以上に瞬への欲求が強まり、その夜も氷河は瞬を抱いていた。 いつものように氷河のために身体を開き、ほとんど気を失うようにして眠りの中に落ちていったはずの瞬が、いつのまに寝台を出ていたのか、夜着ではなく黒い 「瞬……?」 「お母様が亡くなったら、いちばんに僕のところに知らせが来るよう、お母様が手配していてくださっていました。王宮で このことを知っているのは、今はまだ、お母様の側に仕えていた女官と僕だけです」 ついに この時が来た。 氷河は、弾かれるように寝台から起き上がって、衣類を身に着けようとした。 まるで ひと月も前から この時のために用意していたように、瞬が黒い長衣を氷河の前に差し出してくる。 絹ではなく、市井の庶民が着るような綿の長衣だった。 こんなものが この豪奢な館にあったのかと疑いたくなるような。 そんなことを確かめている時間が惜しく、氷河は 瞬に差し出されたものを黙って そのまま身にまとったが。 確かに この方が何かと都合がいい。 そう思いながら。 「行くの」 瞬が短く問うてくる。 いつも通りの片言のモンゴル語。 だというのに、いつもとは何かが違う。 氷河は、瞬の声の落ち着いた響きに触れ、冷静さを取り戻した。 少し頭に血がのぼり、浮き足立っていたようだと、思う。 「瞬……あ、いや。普通なら 真夜中に後宮に入ることは許されないだろうが、こんな時なら特別に見逃してもらえるかと――」 奴隷どころか 主人の玩具にも等しい立場の瞬に、自分の振舞いの説明や弁解をする必要はない。 だが、氷河は それをしてしまっていた。 氷河の苦しい弁解に、瞬が寂しげな微笑を作る。 「急いで。今なら まだ見張りも通常の数しかいないでしょう。庭にも門にも」 「俺は王宮を出るわけでは――」 「誰だって知っています。氷河がこの王宮に――この国にいるのは、氷河のお母様がここにいるからなんだって。そのお母様が亡くなったら、氷河をこの国に縛るものは何もない」 「……」 今 氷河の目の前にいる瞬は、氷河の見知っている瞬ではなかった。 あどけなくもなければ、幼くもない。 昨日までと同じように 瞳は澄んでいたが、そこにあるのは無垢の光ではなく、知性の輝きだった。 「おそらく、明日になれば、氷河には多くの見張りがつけられます。今夜のうちに急いで王宮を出て。これまでありがとう。これは お母様から氷河に――」 そう言って、瞬が、馬の鞍に垂らす鞍嚢を氷河に手渡してくる。 かなりの重みがあり、中を確かめると、そこには モンゴル国内では見掛けたことのない金貨と宝石が相当量 入っていた。 「帝国内の通貨は銀ですけど、帝国を出ると金の方が価値があるのだそうです。それと、お母様が王から贈られた宝石。宝石は、国によって値が驚くほど違うので、処分の際には注意するようにと。これだけあれば、どこに行っても 一生暮らしに困ることはないだろうと、お母様は おっしゃっていました」 「おまえは何者だ」 自分は何を訊いているのかと、氷河は思ったのである。 瞬は、キプチャク・ハーン国の軍隊に滅ぼされた小アルメニア王国の生き残り。 つまりは奴隷。 瞬が、他に どんな者であり得るというのか――と。 「俺を腑抜けにするために――いや、俺の動向を探るために、兄たちの誰かと組んだ書記官が送り込んできた間諜ではないのか」 「誰も僕にそんなことができるとは思っていないでしょう。僕は後宮にも出入り自由の、無害な低能児です」 氷河は、瞬を無害な人間と思ったことはないし、低能児と思ったこともなかった。 知能の発達が遅れているにしては、瞬は日々の生活において細やかな気配りができる子だったし、勘のいい子でもあった。 ちょっとした表情の変化で氷河の機嫌の良し悪しを敏感に察知し、心配したり喜んだりする。 瞬は、ただ、自分の意思を持つこと、自分でものを考え判断することを禁じられてしまった哀れな子供なのだと、氷河は思っていた。 だが、どうやら そうではなかったらしい。 そうではなかったことを、瞬の流暢なモンゴル語、瞳に宿る理知の光が、今は 如実に物語っていた。 「僕は、氷河のお母様と同じように故国を滅ぼされ、捕虜になって ここに連れてこられました。最初は少女だと思われていて、それで下働きの見習いとして後宮に入れられたんです。でも、まもなく男子と知れて、命を奪われそうになった。僕を救ってくれたのは、氷河のお母様でした」 「マ……母が、おまえを?」 それは、これまで氷河が考えたことのない繋がりだった。 瞬が、小さく頷く。 「氷河のお母様は、僕をご自分の許に引き取って、この王宮で生きる術を僕に教えてくださいました。復讐など考えることのできないような非力な子供を装うこと。心の支えになるような、愛する人を見付けること。自分の命より愛せるような人を見付けて、その人を愛すること。氷河のお母様にとっての氷河がそうだったように」 「瞬」 「お母様は、氷河がいたから、自分は どんな境遇に陥っても生きていられたのだと おっしゃっていました。僕にも、そういう人を見付けろと おっしゃった。そうすれば、人は何があっても生きていけるのだと」 瞬が語る母の言葉に、氷河は泣きたくなってしまったのである。 氷河は 後宮で瞬を見掛けたことはなかったから、瞬が氷河の母の許に引き取られたのは、氷河が後宮を出て この館に暮らすようになった後のことなのだろう。 生きる支えだった息子を奪われた母は、どんな思いで、どんな瞳で、愛する人を見付けろと 瞬に語ったのか――。 その時の彼女の心を思うと、氷河は血肉を切り裂かれるような痛みを 胸に覚えた。 そして、すべてがわかったような気がした――やっと、すべてが見えたのである。 瞬を“仕込んだ”のは、氷河の母だったのだ。 元料理番の侍官が言っていた“さる高貴な御方”というのは、この国の王の寵愛を受けて王子を産んだ氷河の母。不吉な色を持つ王子を産んでも、王の信頼と愛情を失うことのなかった稀有な女性のことだった。 気のいい元料理番が『瞬を“仕込んだ”者が誰なのかは知らない方がいい』と言っていたのは、氷河の母を噂でしか知らない彼が下卑た想像をしたから。 瞬に対する氷河の入れ込みようを見た彼は、この国の王の寵愛を手に入れた技を、氷河の母が瞬に伝授したのだと勝手に思い込んでしまったのだろう。 そして、自分の母親が そういった術を身につけていること、その技を教えられた者に自分が夢中になっていることなど、彼女の息子は知らないでいた方がいいと考えた。 彼は、彼なりの思い遣りから、氷河に そのことを隠し通したのだ。 だが、氷河の母が瞬に教えたのは、そんな技などではなかったのである。 彼女が瞬に教えたのは、この王宮で――否、場所がどこでも、どんな境遇にあっても――人が生きていくのに必要なこと。人を愛せということだったのだ。 「お母様は、ご自分が亡くなったら、氷河はこの国からの脱出を図るだろうとおっしゃっていました。その時、氷河に伝えてと。『国の再興も家の再興も考えず、復讐も考えず、何にも縛られずに 自由に、自分が幸せになることだけを考えて生きるように』。それが、氷河のお母様の願いです。その言葉を伝えるために 僕は氷河の側にいました」 「何にも縛られずに自由に――」 それが、ついに一生 真の自由を得ることのできなかった女性の最後の願いだというのなら、必ず果たしてみせようと思う。 だが、そのためには、どうしても必要なものがある―― 一つだけ。 |