先の聖戦で冥闘士たちに破壊されてしまった聖域のコロッセオ。 ウェイトトレーニングを兼ねて 雑兵たちが修復作業にいそしんでいる その場に、奉仕の精神など持ち合わせていない氷河が足を運んだのは、“心”の問題に悩み疲れたからだった。 なぜ瞬の心だけが読めないのか。 それは星矢や紫龍が仲間を慰撫するために言ってくれたような事情によるものなのか。 あるいは瞬は、やはり白鳥座の聖闘士にだけ心を閉じているのではないか――。 考えれば考えるほど、それは悪い方向に向かって流れ、氷河を陰鬱な気分にした。 暗く鬱然な気分だけが増し、明るく建設的な考えは湧いてこない。 いっそ 建設作業のために肉体を酷使すれば 暗いことを考えずに済むのではないかと、ほとんど自棄になって、氷河はその工事現場に赴いたのである。 もっとも、100人を下らない雑兵や石工たちが汗だくになって瓦礫を運び、石を削ったりしている その場に足を踏み入れた僅か5分後には、氷河は己れの自棄を心から後悔することになった。 コロッセオの修復の指揮をとっていたシャイナと魔鈴が、建設現場に出現した氷河の姿を目ざとく認め、 「おや、珍しい男がいるよ」 「おまえに そんな殊勝な心掛けがあったなんて、驚きだねえ」 とか何とか言いながら、『あの岩を片付けろ』『その石をそっちに運べ』と、次から次に偉そうに氷河に指図してきてくれたのだ。 作業自体は苦でも何でもなく、氷河は汗をかくことさえできなかったが、他人に あれこれと指図されることが、氷河の気分を ひどく悪くした。 それゆえ、星矢たちと工事現場にやってきた瞬が、 「魔鈴さん、シャイナさん。僕、ちょっと氷河に用があるんです。しばらく氷河に休憩をとらせてもいいですか」 と現場監督たちに告げるのを聞いた時には、氷河は、救いの天使が天から自分の許に下りてきてくれたように思えたのである。 白鳥座の聖闘士は、なぜ急に らしくもない奉仕作業を始めたのか。 てっきり その椿事の訳を尋ねてくるに違いないと思っていた救いの天使は、だが、半ば以上崩れ落ちたコロッセオの観客席で氷河に対峙すると、 「氷河、何かあったの? この頃、元気がないみたい」 と、氷河には想定外のことを訊いてきた。 表向きには 元気に肉体労働に励んでいるように見えることをしているつもりだった氷河は、その質問に しばし戸惑うことになったのである。 人の目にどういうふうに映っていようと、白鳥座の聖闘士が最近元気がなかったことは事実だったので、氷河は瞬に問われたことに正直に答えたが。 「人の心がわからないことが、じれったくて……つらく感じているからなんだろうな、多分」 そんな答えで瞬が仲間の事情を理解してくれたのかどうかは、氷河にはわからなかった。 瞬の心は、相変わらず氷河には読むことができなかったから。 瞬はわかってくれたのか。 わかるはずがない――。 自分が瞬でも、突然そんなことを言われたら、『この男は何を言っているんだ』と呆れるだけだ――。 そんなふうに思っていた氷河に、瞬が重ねて尋ねてくる。 「人の心がわからない? どうして? そんなことは、その人を見てれば、おおよそのことは わかるでしょう」 完全にそう信じている目をして 仲間に不思議そうに問い返してくる瞬に、その言葉に、氷河は疑いの心を抱かないわけにはいかなかった。 瞬は、人を善良なものと信じていて、人が 表とは違う裏、建前とは違う本音を持っているなどということを考えたことがないから、表面に現われるものを見れば その人がわかると思っていられるのだ。 「そうか?」 「そうだよ。心なんて読めなくても、星矢が明るくて屈託のない性格だってことはわかるし、紫龍が優しくて、いつも仲間のことを思っていてくれることはわかるじゃない」 「……」 星矢や紫龍が 瞬の言う通りの者たちだということは 氷河にもわかっていたが、しかし、それは氷河にはどうでもいいことだった。 氷河が読めないのは瞬の心、そして、氷河が知りたいのは瞬の心だったのだ。 「俺は?」 「え?」 「俺の心は、おまえにどう見えている?」 その心を読んで確かめるつもりでいたことを、言葉で瞬に尋ねてみる。 尋ねながら、だが、氷河は、このやり方では 瞬の本当の心を知ることはできないだろうと思っていた。 人は、裏と表、建前と本音を持っているものである。 それは瞬も例外ではない。 人を傷付けるのが嫌いな瞬は、人を傷付けないために嘘をつくことがあり、人間関係に波風を立てないために 本心を隠して我慢することもある事実を、氷河は知っていた。 今日も瞬は そういう答えを返してくるだろうと、氷河は諦めていたのである。 自分は瞬から、仲間との間に無用な軋轢を生まないための無難な答えをしか得られないだろう――と。 が、実際に瞬が氷河に返してきた答えは、“完全に無難”とは言い難いものだった。 瞬は、 「氷河は……氷河だけは よくわからない。氷河は謎めいてて、僕には理解できないところがあって……」 と、実に曖昧で、あやふやで、頼りない答えを氷河に返してきたのだ。 (瞬の奴、的確に氷河という人間を理解してるじゃん。“よくわからない男”。ほんと、その通りだぜ) という星矢の思考が、瞬の言葉での答えに数秒遅れて 氷河の中に流れ込んでくる。 星矢の ご意見 ご感想など、どうでもいいことだったので、氷河はそれを さらりと聞き流したが。 星矢の思考を聞き流したのは、適切な対応だったろう。 星矢のご意見 ご感想を聞き流さず、真面目にとりあって、彼を殴り倒そうとしていたら、氷河は、瞬の、 「でも、氷河がいつも僕を見てくれていることは知ってるよ。なぜなのかがわからないだけで」 という言葉を聞く機会を逸してしまっていたかもしれなかったから。 瞬の瞳は、氷河の顔を覗き込むように見上げていた。 氷河の心臓が大きく跳ね上がる。 同時に氷河は、急に 激しい喉の渇きに襲われた。 「その訳を知りたいと思うか?」 瞬にそう尋ねる氷河の声は かすれていた。 瞬が、僅かに首をかしげる。 「氷河が謎でなくなるの?」 「……」 瞬は、その謎を解き明かしたくないのだろうか。 謎を謎のままにしておきたいのだろうか。 もし瞬が そう望んでいるのなら、謎の真相を無理に瞬に知らせることはできない。 氷河は、瞬に問われたことに答えることができなかった。 黙り込んでしまった氷河に、瞬がまた問うてくる。 「氷河は僕の心が読める?」 「おまえは綺麗で可愛くて、誰にでも優しくて親切で、誰も嫌っていない――ということぐらいだ。俺にわかるのは」 「僕は……」 「俺には、おまえの心こそが、この世界でいちばんの謎だ」 氷河は、謎を謎のままにしておきたくない男だった。 謎は謎のままにしておきたいというのが瞬の望みでも、氷河はそうではなかったのだ。 氷河は知りたくてならなかった。 他のどんな謎よりも、瞬の心の謎だけを。 だが、どういうわけか、自分には瞬の心を読むことができない。 瞬の心だけが読めない。 いったい、それはなぜなのか――。 「こうだったらいいなって――」 そんな氷河の心を読んでいるかのように、瞬が その唇から小さな声を洩らす。 「ん?」 「こうだったらいいなって 願う気持ちが強すぎて――自分の心が邪魔をして、その人の心を読めないっていうことがあるんじゃないかな……」 氷河だけはわからないと言っていたのに、瞬は 今は氷河の心を読んでいるようだった。 「自分の心が邪魔をして?」 「僕はそうみたいなの」 瞬自身は 自分の心を読み解いているだけのつもりのようだったが、確かに瞬は氷河の心を読んでいた。 「知りたいんだよ。その人の気持ち、その人の心を、とても。でも、その人の心が僕の望んでいる通りのものでなかったら つらいから、知るのが恐いとも思う。でも、知りたい。だけど、知るのは恐い。その繰り返し」 氷河の心と瞬の心は同じ望みを抱えていたのだろう。 ある人の心が自分の望む通りのものであればいいと、二つの心が望んでいた。 ただ、氷河は瞬とは違って、知るのが恐いと思うことは なかったのだ。 氷河は、瞬の心が自分の望む通りのものであればよし、もし そうでなかったら、瞬の心を自分に向けるための前向きな努力に取りかかるつもりでいたので、とにかく知ることが先決。 知ることを恐いと考える必要はなかった。 まず知らなければ、自分の恋は先に進めない。 そう考えていた氷河は、今も もちろん恐れなかった。 恐れることなく、瞬に尋ねた。 「おまえは、俺の心がどうだったらいいと願っているんだ?」 問われた瞬の目許が僅かに赤らむ。 「それは……」 「それは?」 「氷河がいつも僕を見てくれているのは、氷河が僕を嫌っているからじゃなかったらいいな……って思ってます」 聖闘士の耳でも聞き取るのがやっとの小さな声で、恥ずかしそうに そう告げる瞬の言葉に嘘があるはずがない。 氷河は、瞬の言葉を疑うことはできなかった。 「そんなことがあるはずないだろう!」 もちろん それは瞬の本心、瞬の心からの言葉だと確信して、氷河は瞬の心を知るなり、その身体を強く抱きしめたのである。 人の心を読む力を手に入れようなどと姑息なことを考えず、星矢たちの忠告に従い、最初から こうしていればよかったと思いながら。 「俺の心がわかるか? もう謎ではなくなっただろう?」 「うん。嬉しい」 瞬の、恥ずかしげではあったが、素直で正直な答えが、身体ごと 天まで押し上げるような強い力で、氷河の心を宙に舞い上がらせる。 そして、次の瞬間、氷河は、 (うわーっ! 何なんだ、あの二人 !? ) (キグナスが急にアンドロメダに抱きついたぞ!) (アンドロメダって、あんなふうだけど、一応 男だろ!) (つまり、あの二人はゲゲゲのゲー !? ) (この聖域で、んなこと許されるのか !? アテナはどう思ってるんだ!) (いくら可愛くても、男は男。多少 難があっても女の方がいいだろうに……) (ここには 恐い女しかいないからなー。キグナスは、凶暴な女より 大人しくて可愛い男の方がいいと思ったのかもしれない。案外賢明な選択かも) (あれだけ可愛ければ、男だってことも気にならないもんなのかもなー) (でも、ほもだぞ、ほも) 等々、白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士のラブシーンを見物していた雑兵や石工たちの大量の思考――もとい、白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士のラブシーンを(強制的に)見せられ雑兵や石工たちの大量の思考に襲いかかられていた。 雪崩をうったように氷河の頭の中に流れ込んできた それらの思考は、今の氷河には 邪魔で うるさい騒音雑音の類でしかなく、氷河は 自分がアテナに無理を言って手に入れた力が、いかに人間にとって無価値な力だったのかということを、その瞬間に痛切に思い知らされたのである。 無価値どころか、その力は人間にとって余計な力、不利益不都合しかもたらさない力でしかなかった。 幸い、雪崩をうって氷河の頭の中に流れ込んできた大量の騒音は、氷河が不要な力の取得を後悔し始めた頃には 綺麗さっぱり消えてしまっていたが。 欲しいものを手に入れたから――蛇の姿をした“心の和合一致”の神ハルモニアが氷河に与えた能力は、その瞬間に氷河の上から取り除かれたらしい。 もちろん、氷河はそれで何の不満もなかった。 瞬が自分の腕の中にいるのである。 ただ一つだけ欲しかったものを、ついに氷河は手に入れた。 今の氷河には、いかなる不満も不平も感じようがなかったのだ。 |