瞬の瞳に、また涙が盛り上がってくる。
それは、氷河が仲間に何も語ってくれないことを悲しむ涙ではなく、氷河の気持ちを理解できないことを切なく思うせいで生まれる涙でもなく、氷河の気持ちを嬉しく思うゆえの涙でもなく――後悔の涙だった。
なぜ自分は氷河を信じることができなかったのか。
なぜ自分は氷河にこんな無茶をさせてしまったのか。
氷河は、彼の大切な“人”のためでなければ、言葉を発することさえ億劫がる、極めて特殊な愛他主義者、自身の名誉や損得さえ全く顧みない面倒臭がりやだということを、自分は知っていたはずなのに――という、後悔の。
だから氷河のことは、氷河自身の分も自分が考えてやらなければならない。
そうできることが嬉しくて、そうする権利を手に入れるために、瞬は氷河を我が身に受け入れ、我が身を氷河に預けたのだった。
その決意を忘れてしまっていた自分を、瞬は今 深く後悔していた。

「氷河が そんなふうに思うことはないんだよ。氷河、そんなふうに気負わないで。氷河が僕の分まで戦うことなんてない。一人ですべてを背負おうなんてしないで。僕たちは仲間でしょう。敵と呼ばれる人たちを傷付けることも つらいけど、僕は 氷河が傷付くのは もっとつらいよ。そんなことになったら僕は――ううん、そんなことにはならない。僕が氷河を守るから」
「おまえに守られるなんて、そんな 格好の悪いことができるか」
自分自身の名誉や損得は全く気にせず顧みない氷河も、自分のために他人の手を――それも瞬の手を――煩わせる格好悪さは気にするらしい。
瞬の言葉を一蹴した氷河は、だが、すぐに自嘲気味に笑い、力なく首を左右に振った。
「だが、結局そうなるのか。一人で先走ったあげく、このざまだ」

氷河は、自身に失望しかけているようだった。
だが、瞬は、彼とは全く逆の気持ちになっていたのである。
氷河に対しても、自分に対しても、失望より希望を、より強く感じるようになっていた。
むしろ、今の瞬には希望しかなかった。
掛けていた石のベンチから立ち上がり、氷河の胸の中に その身を投げかけていく。
「格好が悪くても、我慢して、そうして。僕を頼って、僕に甘えて。僕が氷河を守ってあげる。人を傷付けるためでなく、氷河を守るための戦いなら、僕は傷付かない。僕のためにそうして」
「だから、俺は、そういう格好の悪いことは――」
「格好が悪くても、氷河は我慢しなくちゃならないの。氷河は、いちばん ひどいやり方で、僕を切り捨てようとしたんだから」
「俺がいつ、そんなことを――」
「戦うべき敵を全部 氷河に取られて、僕が誰とも戦わずに済むようになったら、僕は贖罪の必要がなくなる。もし僕が本当に贖罪のために 氷河に抱きしめられていたのだとしたら、当然 僕は氷河を必要としなくなるでしょう。氷河は そうは思わなかったの」
それは、アンドロメダ座の聖闘士を“痛み”を必要としないものにすることによって、恋人との抱擁をも必要としなくさせること。
“氷河”と“瞬”の結びつきを消し去ろうとすることである。
瞬を本当に・・・幸せにすることで、氷河は 彼の恋人を自ら 放棄することになるのだ。

氷河のことだから、『彼の恋人を本当に幸福にする』という目的にだけ気をとられ、彼は、その本当の幸福が実現したあとにやってくる事態がどんなものなのかを考えてもいなかったに違いない。
そう思って――決めつけて――瞬は氷河を責めたのだが、瞬の難詰に対する氷河の答えは意外なものだった。
「思ったが……おまえに泣かれるより ましだ」
慌てた様子もなく、氷河は そう答えてきたのだ。
瞬が“本当の幸福”を手に入れて 泣かずに済むようになるのなら、それだけでいい――と。

「氷河……」
『泣かれるよりまし』と言いながら、なぜ氷河は彼の恋人を泣かせるようなことばかりを言い、泣かせるようなことばかりをするのか。
瞬は、氷河の胸に一層強く 頬を押し当て、その涙を隠そうとしなければならなくなってしまったのである。
この人なしで 自分の“本当の幸福”が実現することがあるのだろうか。
ひどく幸福な気持ちで、そう思いながら。
そんな瞬の上に、思いがけない言葉が降ってくる。

「それに、もしおまえが贖罪のために俺に抱かれているのだとしたら――おまえに痛い思いをさせてやれるなら、その相手は俺でなくてもいいということなんだし――」
本当に、氷河は、彼の恋人を泣かせるようなことばかりを言い、泣かせるようなことしかしない。
瞬は、氷河の言葉に驚き、彼の胸から引き剥がすようにして、その顔をあげた。
氷河は、本気で そんなことを言っているのか。
氷河の瞳と表情を視界に収め確かめられるだけの距離を確保するために、彼の前から 一歩ほど後ずさる。
そうして、氷河の瞳の中に冗談の色のないことを認め、瞬は混乱した。

「そ……そんなことがあるはずないでしょう……!」
「ない……のか?」
“そんなことがある”と、氷河は本当に本気で思ってたらしい。
それは、瞬には ひどく衝撃的なことで――それこそ、ひどい誤解だった。
そんなことが あるはずがないではないか。
瞬は、すぐに氷河の誤解を解こうとしたのである。
氷河の誤解にショックを受け取り乱してしまったせいで、耳障りのいい嘘を作ることもできず、完全に正直な言葉で。

「そんなこと あり得ません……! 氷河以外の人とあんなこと――あんな……全部さらけだして、みんな見られて、恥ずかしくて、み……みっともないこと」
「おまえが みっともなかったことなど一度もないぞ。おまえはいつも綺麗で可愛かった。そうでない おまえを、俺は見たことがない」
「わ……訳のわからないこと喘いで、物欲しげなこと叫んで、取り乱して――は……はしたないよ……!」
「はしたない……? それは――実に斬新な感性だ」

恋人の言葉に衝撃を受け面食らうことになったのは、今度は氷河の方だった。
正直なところ、氷河は、日本語に そんな言葉が存在していることをさえ忘れていた。
『はしたない』などという単語を最後に聞いたのはいつのことだったかと、記憶の糸を辿ってみなければならないほど、それは久し振りに聞く言葉だった。
そして、胸中で、『はしたなく・・・・・乱れてもらえなかったら、俺が自信をなくすだろう』と思ったのである。
もちろん、声に出して 瞬に そう告げることはしなかったが。

「僕が どんな はしたないことしても、氷河なら許してくれると思うから、僕は……僕だって、氷河に甘えてるの。ごめんなさい」
瞬が、真面目に、心から申し訳なさそうに謝ってくる。
だが、まさか ここで、『お気になさらず』と応じるわけにもいかない。
氷河は、ベッドで瞬の特別な男になれないのなら、戦場でそういう男になるしかないと思っただけだったのだ。
瞬を本当に幸福にすることのできる特別な男。
それが、氷河のなりたいものだった。
ベッドで瞬の特別な男になり得るのなら、戦場で瞬の特別な男になることは諦めてもいい。
瞬の特別な戦友よりは、瞬の特別な恋人でありたい。
それが、氷河の本音だった。
些少とはいえ、氷河も分別というものは持ち合わせていたので、彼は その本音を 正直に瞬に告白することはしなかったが。
本音の代わりに、氷河は、反省と これからの展望を瞬に告げた。

「自分勝手に突っ走るのはやめる。それで おまえを泣かせていたのでは本末転倒だ」
「うん」
瞬が、瞳を明るく輝かせ、嬉しそうに頷く。
それこそが、氷河が心から欲していたもの。
仲間と協力し合い、仲間との間に協調性を保った戦いをすることで、この笑顔をいつも見ていられるというのなら、自分はいくらでも協調性のある男になるだろうと、氷河は思った。
もっとも、氷河が欲していた通りの笑顔を、瞬はすぐに恋人の胸の中に隠してしまったが。
瞬は、そうして、少し拗ねたような口調で、氷河に訴えてきた。
「僕は、痛いから気持ちいいんじゃなくて、氷河だから気持ちいいの。変なふうに誤解しないで。誰でもいいなんて、僕はそんな無節操じゃありません。それに僕は、理想がとっても高いんだから」
「は……?」

瞬が何を言っているのか、氷河には すぐには わからなかったのである。
なにしろ彼は、ここのところずっと、瞬を本当の幸福に至らせようとしては失敗し、結局 瞬と仲間たちに助けられるという無様なことを繰り返していた。
そんな自分に自己嫌悪の念を抱き、焦り、苛立ち、落ち込んでもいたのである。
自分は、最低の聖闘士、最悪な男だと。

『はしたない』などという稀有な単語が載っている辞書を愛用している瞬は、自分とは違う日本語を話しているのだろうかと疑って、氷河は瞬の顔を覗き込んでみたのである。
その結果、瞬が全く本気でそう言っているらしいことを認め、氷河は言葉を失った。






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