「命は唯一無二のもの。生きとし生けるもの すべてに与えられるが、失われれば二度と取り戻すことのできない稀有な宝だ。人が命をかけていいのは、自分の命を守る時のみ。命の価値もわからず、自らに与えられた唯一の真の宝を たやすく手放した愚か者のために 命をかけるなど、全く益のない行為。それは、そなたに与えられた命に対する冒涜だ。そなたは、そなたの命を その程度のものと思っているのか」
そう言って、それ・・は 力尽きかけていた瞬の前に姿を表わした。
否、瞬はそれの姿を見たわけではなかった。
そこは、聖域第7の宮 天秤宮ではなく――おそらく地上のどこかでもなく――地上以外のどこかだったから。
それ・・は、自分の声だけを――もしかしたら思念だけを――生者が生きて存在する世界ではない その場所に送り込んできたのだ。

「あなたは誰」
ここには自分と氷河しかいないはず――いられないはず。
そう思いながら、それ・・誰何すいかした瞬自身、自分がどこに向かって その声を発したのか、そもそもそれは声になっていたのかどうかということすら わかっていなかった。
薄闇の世界。
漆黒の声でできた答えが返ってくる。
「余は冥府の王だ。死者の国を支配する神ハーデス。無意味なことのために命を捨てるのはやめよ。その者は、もはや余の国の住人だ」
「そんなことない!」

氷河を既に死んだものと決めつける冥府の王に 反射的に反駁してから、瞬は全身が――それとも心が? ――急激に冷えていく感覚に襲われたのである。
冥府の王。
死者の国を支配する神。
それは いったいどういうもので、なぜ ここにいるのか。
考えるだけで、あまりの不吉にぞっとする。
彼が尋常でなく強大な、しかも特異な力を持つ神だということは、人間の身である瞬にも明瞭に感じ取ることができた。
不吉な力。
死者の国を支配する強大な力。
だが――。

もしかしたら その力は氷河を蘇らせるために働かせることもできる力なのではないかと、瞬が思ったのは、瞬自身の力が尽きかけていたから。
藁にもすがりたい状況に、瞬が追い込まれていたからだったかもしれない。
「お願い、氷河を死なせないで。あなたなら できるんでしょう? 氷河を生き返らせることが。僕にはできなくても、あなたになら――」
「生き返らせることはできぬが、死なせぬことはできる。その者を余の国に入れなければいいだけのことだ」
「じゃあ……!」

誰でもよかった。
何でも構わなかった。
もちろん、どんな方法でも。
今、氷河を死なせずに済むのなら。
生きていさえすれば、人は、その先のことを考えることができる。
何らかの対処ができる。
生きてさえいれば、どんなことも――死ぬことさえも、人にはできる。
だが死んでしまったら、人は本当に何もできなくなってしまうのだ。
もはや あとがないところまで追い詰められて、必死――まさに“必死”だった瞬の訴えを、だが ハーデスは静かな声で退けた。

「その者の身体は半分死んでしまっている。そして、心は完全に死んでしまっている。その心では、身体だけ生き返っても、確固とした意思を持つ一人の人間として生き続けることはできまい」
「そんなことない! 氷河は――今はつらくて、絶望してて、悲しんでて……でも、死にさえしなければ、生きてさえいれば、これからいろんな人に出会って、いろんなことを経験して、いつかは幸せになることもできるはずなんだ。今は、少し……ほんの少し 弱くなっているだけなの」
「少し?」
瞬の言葉を繰り返し、短い吐息のような笑いをハーデスが洩らす。
そして、彼は、
「幸せに?」
瞬が口にした言葉をもう一つ繰り返し、同じように笑った。

「その脆弱な心では無理だ。人間というものは、不幸になるためには どんな力もどんな努力も必要としないが、生きて幸福になるためには、力が必要なのだ」
「氷河にはそれがないとでもいうの?」
「あるようには見えぬ」
「そんなことない! たとえそうだったとしても、それは今だけのことだよ。氷河はいつかきっと強くなって、幸せになるんだ。だから、氷河は、今 死んじゃだめなの。お願い、氷河を死なせないで……!」

アンドロメダ座の聖闘士の力では、氷河を蘇らせることはできなかった。
おそらく、それは、自分には氷河の絶望の深さがわからないからなのだと、瞬は思っていた。
そして、氷河の弱さが理解できないから。
理解できない人を、人は真に救うことはできないのだ。
だが、瞬は、それでも氷河に死んでほしくなかった。
生きていれば、彼は きっと幸福になれると思うから。
強くなれると思うから。
自分は、氷河の弱さは理解できなくても、強さなら理解できる。
強くなった氷河となら、わかり合える。
そうして、互いの強さを認め合い、互いを高め合えるようになることが、人と人が真の意味での仲間になることなのだろうと、瞬は思っていた。
その夢を実現したい瞬にハーデスが提示した条件は、だが、瞬には思いがけないものだった。

「そなたが余のものになるなら、その者の命を救ってやろう。余の国に、その者を受け入れずにいてやる」
そう、ハーデスは言ってきたのだ。
「僕が あなたのものになる?」
「そう。余のものになり、余の魂の器となって、余の意思の通りに動く人形になるのだ」
「それは……僕の心が死ぬということではないの?」
それでは、氷河の心を理解し、彼と真の仲間になるという夢は叶わない。
瞬が氷河に生きていてほしいと望むのは、生きることを続けることによって強く幸せになる氷河を見、そうなったことを彼の仲間として 共に喜びたいと思うからだった。
だというのに、ハーデスは、氷河の命を救うことと引き換えに、瞬に夢を捨てろと言う。
氷河に 強くなる可能性を与える代わりに、瞬に冥府の王に膝を屈する弱者になれと言う――。

「仲間の命を救うためでも、それはいやか?」
「それは……」
「早く決断した方がよいぞ。その者の 僅かに生きている肉体の命の火も、そろそろ消えかけている」
「あ……」
ハーデスは嘲笑っているのだろうか。
仲間の命と自分の心。
その二つの間で揺れ動いている、一人の心弱い人間の逡巡を。
「心は、一度死んでも蘇ることができるが、肉体は一度死ねば、それきりだ。二度と生き返ることはない」

瞬がハーデスに屈することを決意したのは、氷河の死の時が迫っていると 彼に脅されたからではなかった。
そうではなく――その時 初めて、氷河の絶望の深さが理解できたから。
彼の弱さが理解できたから。
人は、何かを守るために 弱くなってしまうこともあるのだということを――弱くならざるを得ないこともあるのだということを知ったから。
そんな氷河を、心から愛おしいと思ったからだった。
だから、瞬は、ハーデスのいる薄闇に向かって叫んだのである。
「氷河を助けて! 氷河はきっと、生き返れば、命の時間を与えられれば、強くなって、幸せになれるの!」
「では、約束だ。余は、その者の命を奪わない。そなたは、いつか余に その身を委ねる。その時まで、その強く弱く清らかな心を損なわずにおれ」

ハーデスの、それが最後の声だった。
その声が消えると、瞬の心と身体は地上に戻ってきていた。
十二宮 第7の宮。
「瞬……! 瞬!」
仲間の名を呼ぶ氷河の声が、張り詰めていた瞬の緊張の糸を切る。
「氷河……生きて――」
生き続け、幸せになって。
その願いが声になったのかどうかは、瞬自身にもわからなかった。
「僕の分も……」
声にしてはならない願いは、胸の内に収める。
隠した願いを氷河に見て取られぬように、瞬はゆっくりと その瞼を閉じた。






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