「氷河は蘇り、生き続けてくれた。そのための力を僕から与えられたと 氷河は言ってくれて、僕も しばらくはそうなんだと信じてたんだ。冥界でハーデスに会うまで、あの時の僕の記憶は どこか曖昧でぼんやりしてたから。でも、本当は あれはハーデスの力だったの。冥界で はっきりと、僕は思い出した。思い出したのに――思い出したのに、僕が氷河に そのことを隠していたのは、氷河に余計な負い目を負わせたくなかったからで――ううん、きっとそうじゃない。僕は――自分は僕に救われたんだと誤解した氷河が、僕を好きでいてくれることが嬉しくて、心地良かったんだ。いつかは本当のことを言わなきゃならない。氷河が僕を好きでいてくれるのは、その時までのことだとわかっていたから、なおさら」
「なぜ その時までなんだ」
なぜ瞬が そう思うのかが、氷河にはわからなかった。
すべての元凶は白鳥座の聖闘士の弱さであり、瞬には どんな非もないというのに。

「冥界で、ハーデスは僕の身体を支配しようとした。彼は約束の履行を求めただけだったのに、僕は抵抗して――人間っていうのは卑劣な生き物だと、ハーデスは さぞかし腹を立てただろうと思うよ」
「卑劣なのはどっちだ。ハーデスはおまえの身体を使って、自分が何をするつもりでいるのかを、おまえに知らせていなかった。提供すべき情報を故意に隠蔽して結ばれた契約は無効だ」
「人間の世界の法律ではね」
神であるハーデスが 人間社会における契約の成立要件や有効要件を認めていたとは考えにくい。
そう思いはしたが、人間である氷河は、人間の感覚と価値観で、やはり この場合 卑劣なのはハーデスの方だと思わないわけにはいかなかった。

「ハーデスとの約束をたがえたことは後悔はしてないの。僕は、僕のせいで地上を死の世界になんかするわけにはいかなかったし、僕がハーデスとの約束を履行しようとしても、星矢たちがそれを許さなかったと思うから。でも……」
人間の感覚と価値観では成立していない約束を守らなかったことに、それでも瞬は負い目を感じているらしい。
それは、貸した金のことは忘れても 借りた金のことは忘れない瞬らしいことなのかもしれないと、氷河は思った。

いずれにしても、ハーデスはもういない。
ハーデスは、氷河には既にアテナの聖闘士たちの人生に関わってくることのない存在だった。
そう、氷河は思っていた。
だが、人は(神も)、世界に・・・存在しなくなれば他者の人生に影響を及ぼすことはできなくなる――というようなものではないらしい。

「それでは、今の俺の命は、おまえとハーデスによって整えられた偽りの土台の上に建てられた砂上の楼閣のようなものだということになるな」
「そんなことはないよ。人間は――この世界に命を受けることが、そもそも偶然の幸運のようなものなんだから。そして、だからこそ命は大切なものなんだから。砂上の楼閣は、氷河自身でも氷河の命でもなく、氷河が僕を好きだと思っている気持ちだけだよ。それは錯覚なの。僕は氷河のために何もできなかった」
「……そんなことを、おまえが勝手に決めるな」
「その上、僕は、ハーデスに利用されて、この地上を滅ぼそうとまでした。僕みたいな卑劣漢には氷河に好きになってもらう権利は愚か、幸せになる権利も、もしかしたら生きている権利すらないのかもしれない」
「俺に生きていることを求め、強くなり幸せになることを願ったおまえが、自分にはそうなる権利がないと言うのは、それこそ矛盾というものだろう。だいいち、おまえが生きていてくれなければ、俺が困る。俺は おまえを諦める気はないからな」
「え……」

瞬が不思議そうな目をして、氷河の顔を見上げてくる。
自分が何を言われたのかが理解できない――というような目をして。
おそらく瞬は、白鳥座の聖闘士が好きなのは 彼の命を蘇らせた者なのだと思っていたのだろう。
だが、そうではなかったのである。
氷河が好きになったのは、彼を蘇らせたものではなかった。
氷河が好きになったのは、彼が生きていることを望み、彼が強く幸福な人間になることを願ってくれた人だったのだ。

「俺には、天秤宮での おまえとハーデスのやりとりが聞こえていた」
「え?」
「聞こえていたんだ。おまえが俺のために どれだけの犠牲を払おうとしたか。おまえが俺の可能性を信じてくれていたこと。師にも見捨てられたと思っていた俺に、もう一度 生きる決意をさせたのは、生きていたいと願わせてくれたのは、ハーデスではなく おまえだ。そして、実際に俺を蘇らせたのは、ハーデスの力ではなく、俺の意思だ。何もできなかったのは、おまえではなく、俺でもなく、ハーデスだ。俺は、おまえのために、俺自身の力で生き返ったんだ」
「氷河が……僕のために、氷河の力で?」
「ハーデスは、そのことに気付いていたはずだ。だが、おまえに知らせなかった。卑劣なのは、あの神だ」
ハーデスは、神の理屈で、その事実を瞬に知らせなかったのだろう。
気付かない者が悪い、その可能性に思い至れない人間が愚かなのだと決めつけて。
だが、人間の感性では、それは悪意で作られた卑劣な行為であり、少なくとも不親切で 思い遣りを欠いた行為だった。

「氷河……聞いて――知ってた……?」
「おまえが気付いていないことにも気付いていた。ハーデスが、おまえのためにも俺のためにも何もしなかったということにもな」
だから、おまえはハーデスとの約束を破ってはいないし、誰にも負い目を負っていない。
氷河は そう言ったつもりだったのだが、それでも瞬は 氷河の前で項垂れ、力なく 首を横に振った。
「なら、氷河は、僕が自分の力で氷河を救うことを諦め、ハーデスの力にすがろうとしたことを知っていたんでしょう? なのに どうして、氷河は 僕を好きだなんて言うの。僕には、氷河に好きになってもらえる資格も権利もない。僕は、ハーデスの力を自分のもののように偽って――嘘をついて、氷河を騙していたんだよ。事実はそうじゃなく、氷河は氷河自身の力で生き返ったのだとしても、僕が氷河に秘密をもって、氷河を騙していたことに変わりはない」

権利、資格、負債、義務。
瞬がそういったものに こだわるのは、負い目を負っている自分に我慢がならないほどプライドが高く、自分が清廉潔白であることを望んでいるからなのだろう。
そして、瞬は、自分が どんなことをしても清算できないほどの罪を犯してしまったと思い込んでいる。
だから、瞬は、人に好意を抱かれる“資格”が自分にはないと、依怙地に言い張っているのだ。
だが、氷河は、瞬にそのプライドを放棄してほしかったのである。
二人が幸せになるために。

「おまえは、もう少し自分に甘くなった方がいい。人は誰でも、清算できない罪や負い目を抱えている借金持ちなんだ。この世界に命を与えてくれた親の恩に、子供が完全に報いることができると思うか? それは無理な話だ。だが、だからといって、自分には人に愛される権利がない、人を愛する資格がないと言っていたら、人は誰も愛することも愛されることもできなくなってしまう」
清算できない罪や負い目に甘んじるということは、人が汚れることと同義なのかもしれない。
“清らかな”瞬に、そういう人間になれと求めることは 酷なことなのかもしれない。
それが わかっていても、氷河は瞬に汚れることを求めずにはいられなかったのである。
それはどうしても必要なことだから。
人が生きていくために。
そして、二人が幸せになるために。

「僕は……嘘つきで卑劣な人間なの。ジュデッカで、天秤宮でのことを思い出してからも、僕は どうしても氷河に本当のことを言えなかった。氷河が誤解して、僕に優しくしてくれるのが嬉しくて、本当のことを言えば、氷河は僕を好きでいてくれなくなると思ったから」
「おまえは本当に嘘つきだ。おまえは、罪や負い目を抱えているのがいやで、いつも自分の罪を清算することばかり考えている人間だ。だから、貸した金のことは忘れても、借りた金のことは忘れない。おまえは、本当は さっさとすべてを告白して楽になりたかったはずだ。だが、そんなことをしてしまったら、俺がまた生きることに絶望して、生きる力を失ってしまうと考えて、言えなかったんだ。おまえは――言ってみれば、俺の弱さを信じていたから」
「そ……そんなことはないよ。僕は、氷河は強くなってくれるって信じたから、ハーデスに頼んだんだ。氷河を死なせないで……って」

アンドロメダ座の聖闘士は白鳥座の聖闘士の弱さを信じて――つまりは彼を侮って――沈黙を守っていたのではない。
それは誤解だと弁明してくる瞬に、氷河は苦笑することになった。
それは誤解――それこそが誤解だと。
人は誰もが弱さと強さを併せ持っている。
そのどちらかだけで成り立っている人間はいない。
人は、人の強さだけでなく、弱さをも認め許すことで、人を愛することができるようになるのだ。

「俺は結構 図太いんだ。おまえが思うほど繊細でもない。大丈夫だ。おまえはいつも俺のために苦しんでいた。俺のために清算できない罪を抱えて――清廉潔白でいるのが楽なおまえには、つらかったろう。すまない」
「あ……」
強いことに価値があると思い、互いに互いの強さを認め合うことこそが 人間同士のあり方の理想と思いながら、なぜ人は自分の弱さを認め許してもらえることが嬉しいのだろう。
人は結局 弱いものだからなのか。
それとも、それが、人が強くなるために必要なことだからなのか。
いずれにしても、次の瞬間に、どんな糾弾の言葉にも耐えるつもりでいたのだろう瞬の瞳に涙が盛り上がってきたのは、おそらく そのせいだった。
『つらかったろう』の一言。
その一言で、瞬は、自分が許されることを受け入れたのだ。

「で……でも、僕は嘘つきで、氷河に好きになってもらえる価値なんか」
「俺にとって価値があるかないかを決めるのは俺だ。おまえは、俺を好きか嫌いかということに関してだけ、嘘をつかなければいいんだ」
「僕が氷河を嫌いなはずないでしょう……!」
「それはよかった。嬉しい」
氷河が その肩を、そして、その身体を抱きしめても、瞬は逃げなかった。
逃げるどころか、瞬は 氷河の胸に頬を押し当て、
「いいの。僕が氷河を好きでも。氷河に好きになってもらっても」
などという可愛いことを氷河に尋ねてきた。

本音を言えば、氷河は瞬の その質問に、全く同じ質問を返したかったのである。
人の言葉で恋を語る男と 瞬に思われることは避けたいという気持ちのおかげで、その可愛らしい言葉を繰り返すことを、氷河は かろうじて耐えることができたが。
「俺は、おまえに望まれて おまえを好きになったわけじゃなく、俺が勝手に好きになっただけだから、その件に関して、おまえにはどんな責任もないと思うぞ。俺が勝手に、おまえなしでは生きていけない男になっただけだ」
それで瞬にとって迷惑なことでないのなら、それだけで嬉しい。
瞬が、自分の腕と胸の中にいる。
本当に、氷河は嬉しかった。

「だから、俺のために生きていてくれ。そして、できれば 幸せでいてくれると、有難い。自分に幸せになる権利がないなんて思うなよ。そんなものは、庭先のダンゴムシだって持っている権利だ」
「ダンゴムシ?」
突然 脈絡もなく出てきた その名に、(氷河の胸に頬を押し当てたままで)瞬が首をかしげる。
「どうしてダンゴムシなの?」
「え……? あ、いや……」
ここで、コンクリートも食するダンゴムシの食生活についての説明を始め、白鳥座の聖闘士がダンゴムシ並みの食欲を持つ星矢に焼きもちを焼くに至った経緯と心情を詳細に瞬に語ることは、利口な男のすることだろうか。
どう考えても、それは賢明な恋人のすることとは思えなかったので、氷河は、
「いや、だから、つまり、地上の生きとし生けるものすべてが、その権利を持っているということだ」
とか何とか適当なことを言って、茶を濁したのである。
「ん……うん、そうだね。氷河がそう言うんなら」
一度 鉄壁の防御壁を取り除いてしまえば、瞬は どこまでも無防備かつ従順になるタイプの恋人だったらしく、瞬は氷河の その苦しい言い訳で素直に納得してくれた。
そして、氷河の背に しがみつくように両の腕をまわしてくる。

恋の成就は、人の心を寛容寛大にするもの。
氷河は、今なら 自分は、たとえ星矢がコンクリートを食べ始めても 笑って見守っていられるような気がしたのである。






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