「星矢……?」
団子のない春のせいで すっかり気落ちしていたはずの星矢の、やたらと元気な声、興奮して上気した頬、軽快そのものの足取り。
神殿を出ていってから駆け戻ってくるまでの時間を考えるに、星矢はおそらく、教皇の間か、せいぜい双魚宮あたりまで行って、すぐにアテナ神殿にUターンしてきたに違いなかった。
行きはともかく、帰りは、双魚宮から教皇の間を経てアテナ神殿に続く長い石段を一気に駆け上がってきたのだろう。
その10分足らずの間に、いったい星矢はなぜ こんなにも元気になってしまったのか。
訳がわからず、瞬は、元気いっぱいの星矢の前で大いに戸惑うことになったのである。
そんな瞬に、星矢は、入学試験の合格の報に接した受験生のように興奮した様子で、彼の元気の訳を語り始めた。

「瞬! 俺、今、ものすごい情報を仕入れてきたぞ!」
「も……ものすごい情報……?」
情報。
形どころか匂いさえ持たず、また当然のことながら星矢の腹を膨らますこともできない情報。
それは団子より星矢を元気にできるものなのかと、瞬は、素朴な疑問を胸に抱いた。
瞬の素朴な疑問にもかかわらず――だが、それはどうやら 団子より星矢を元気にできるものだったらしい。
現に 星矢は、10分前の彼とは打って変わって元気そのものだった。

「双魚宮の前で会った掃除のおばちゃんに聞いたんだけどさ。アフロディーテが恋わずらいのせいで、薔薇園の薔薇の世話もできなくなるくらい腑抜けてるんだと。ちょっと想像を絶する話だろ!」
「え?」
黄金聖闘士が恋わずらい。
それは 確かに“ものすごい情報”なのかもしれなかった。
が、はたして それは想像を絶するようなことだろうかと、瞬は疑うことになったのである。
そして、星矢は なぜそんなことで元気になれるのかと。
それは楽しい情報でも嬉しい情報でもなく、どちらかといえば、トラブル、問題、事件に類するもののはずだった。

星矢の元気復活の訳がわからずに戸惑っている瞬と、瞬が“ものすごい情報”に一緒に興奮してくれないことに戸惑い始めた星矢。
紫龍が、星矢の持ってきた“ものすごい情報”へのコメントを口にしたのは、微妙に感性がずれている二人の仲間の調停を務めようとしてのことだったかもしれない。
「それは確かに想像を絶しているな。俺は、てっきりアフロディーテはナルシストなのだと思っていた。天と地の狭間に輝きを誇る美の戦士、魚座ピスケスのアフロディーテ様が、いったいどこの自分に恋わずらいをしているというんだ」
「そんな……どこの自分だなんて、失礼だよ。どうして想像を絶してるの。黄金聖闘士だって 心を持った一人の人間なんだから、アフロディーテが誰かを好きになるなんて、すごく普通で、すごく自然なことじゃない」

紫龍のコメントに、瞬が眉をひそめる。
対照的に星矢は、自分に同調する紫龍のコメントを聞いて、更に元気の度合いを増した。
「おまえはそう言うけどさー。人もあろうにアフロディーテだぜ。あのアフロディーテ! 敗北が醜いとか、自分を醜い敗北者にした おまえが気に入らないとか、訳のわからない腹の立て方してたあのアフロディーテ! アフロディーテって、プライド高そうだし、醜いものが嫌いだって はっきり公言してたし、その理屈でいくと、誰かに惚れるとしても 自分より不細工な奴なんて論外だろ。その上、奴は なんつったって 88人の聖闘士の中で随一の美しさを誇る男だそうだから、アフロディーテがどっかの女の子と並んだら、絶対 百合カップルにしか見えないぞ」
「百合カップル――って何?」
「レズカップルってことだよ」
「そんな……」

星矢のそれは、瞬には聞くに耐えない暴言だった。
そして、星矢の暴言を聞いて、瞬は ひどく いたたまれない思いになった。
それもそのはず。
瞬は、沙織と連れ立って外出するたび、その場で出会う ほぼすべての悪気のない人たちに 少女と間違われるという経験を、これまで幾度となく繰り返してきたのだ。
「こんなに美しいお嬢様方をお迎えできて光栄ですわ」
「はて。沙織さんに お妹さんがいらっしゃるという話は聞いたことがなかったが」
さすがに百合カップルと思われることはなかったが、初対面で瞬を男子と見破ってくれる人の少なさに傷付き続けてきた瞬には、アフロディーテに対する星矢の暴言は決して他人事ではなかったのだ。

『罪を憎んで人を憎まず』の思想が身に染みついているせいもあったが、瞬は実はアフロディーテに対して今では全く他意を抱いていなかった。
アフロディーテと戦い、一度は勝利したことで、瞬の中では、アフロディーテが犯した様々な罪は既に綺麗に清算済みだったのだ。
師の件を考慮に入れなければ、瞬にとって アフロディーテは、女性的容貌で苦労している者同士――むしろ、同志。
アフロディーテに対して、瞬は、言ってみれば『同病相哀れむ』気持ちを抱いていたのである。
双魚宮の戦いで、アフロディーテは瞬に向かって『まるで少女のような顔をした君に ここまでの闘志があるとは思わなかった』と言ってくれた。
『少女のよう』とは、いわゆる直喩。
つまり、アフロディーテは、瞬を 少女そのものではないと言ってくれた――瞬を男子と認めてくれたのだ。
瞬は、アフロディーテに対して、平気で瞬を本物の少女と見間違え 声をかけてくるような見る目のない一般人より、よほど好意を抱いていたのである。

「恋って、外見に惹かれてするものじゃないし、誰を綺麗だと思うかは、人それぞれでしょう。88の聖闘士の中で随一の美しさの持ち主って、つまり、たった88人の中でいちばん綺麗だっていうだけのことだよ。学年でいちばん綺麗な生徒レベル。そんなの、誇るほどのことじゃないし、ましてナルシストになるほどのことでもない。決めつけはよくないよ」
「……」
それはいったい褒め言葉なのだろうか。
瞬の言葉を聞いた星矢が顔をしかめることになったのは、それが褒め言葉なのか、それとも貶すものなのかの判断に迷ったからだった。
ただ瞬に悪意が全くないことだけは、星矢にも わかっていた。
言葉の意味する内容はともかく、瞬自身は 大真面目に全力で アフロディーテを弁護しているつもりなのだ。

「88人の聖闘士の中でいちばんってのは、確かに学年でいちばんレベルのことなんだろうけどさ、その88人の中に おまえがいるんだぜ? おまえより綺麗ってことは、かなり綺麗ってことじゃないか。まあ、ああいう外見って、全然 俺の好みじゃないけどよ」
もちろん、悪気の無さ 及び自覚の無さでは、星矢も瞬に負けていない。
88人の聖闘士中 最も美しい(ということになっている)魚座の黄金聖闘士を、星矢は いともたやすく『好みじゃない』と切って捨てた。
星矢の好みのタイプは、何といっても、悪意の感じられない澄んだ瞳。
善人でいる時のサガ、人類粛清を企みながら、それを悪事とは思っておらず、むしろ醜悪な存在である人類を哀れんでさえいた冥界のハーデス、そして、瞬。
自分の中にある邪悪を認め、自分の中に悪心があることを許しているアフロディーテは、完全に星矢の好みの範疇外の人間だった。

だが、サガやハーデスを瞬と一緒にされては たまらないと考える男が、その場には約一名いたのである。
氷河が 星矢の男の好み(?)に顔を歪めたのは、ある意味 至極当然のことだったろう。
なにしろ、サガは アテナの命を奪い 聖域と地上の支配を企んだ裏切者、ハーデスは 全人類を粛清し 地上を死の世界にしようとした邪神なのだから。
「おまえの男の好みは さておくとしてだ。そもそも アフロディーテが 88人の聖闘士の中で随一の美しさの持ち主というのは、どこの誰が決めたことなんだ。俺には、瞬の方がずっと可愛く見える」
「あ、それは僕もずっと不思議に思ってた。僕、アフロディーテと氷河だと、氷河の方がずっと綺麗だと思うんだけど……。ほんと、誰が決めたんだろうね……」

氷河の憤りに便乗したわけでもないのだろうが、瞬が仲間たちの前に第二の素朴な疑問を呈してくる。
その疑問に、氷河は、絶対的な確信を抱いている口調で、
「自称に決まっている」
と答えてきた。
「そうかもしれないね。僕、ずっと変だと思ってたんだ。アフロディーテより氷河の方が絶対に綺麗だもの」
「いや、おまえの方がずっと綺麗だ。おまえとコーカソイドのアフロディーテでは、そもそも肌の肌理が違う」
「顔の造作だけ見ても、アフロディーテに比べたら氷河の方がずっと端正だと、僕 思ってたんだよ。なんだ、ただの自称だったんだ」
不思議に思っていたことが解明されて 気をよくしたらしい瞬が、急に にこにこし出す。
もちろん 瞬には、アフロディーテを貶める気持ちは全くなく、アフロディーテを貶める気持ちが全くないのと同じくらい、悪意も全くないのだった。

いくら悪意のない澄んだ瞳の持ち主が好みのタイプの星矢でも、人の悪意のなさに うんざりすることはある。
「勝手に褒め合ってろ」
互いに互いを褒め合っている氷河と瞬に 吐き出すように そう言って、星矢は二人の仲間の上から視線を逸らした。
逸らした視線の先にいたのは 紫龍――おそらく、青銅聖闘士たちの中で 悪意と誠意を最もバランスよく有している男――だった。

紫龍は、悪意と誠意だけでなく、注意力と親切心も持ち合わせている。
彼は、氷河と瞬の褒め合いに うんざりしている星矢のために、氷河と瞬のせいで思い切り脱線してしまった場の話を、
「だが、確かに、ああいう外見をしていると、女の方が敬遠するということはあるかもしれないな」
という意見を述べることによって、元の軌道に戻してくれた――美貌談義から恋愛談義へと軌道修正を図ってくれたのだった。
「まあ、女からしたら、好き嫌いの分かれる 見てくれしてるのは事実だよなー」
アフロディーテの恋の多難を思って、星矢と紫龍が頷き合う。
ひとしきり自分が綺麗だと思うものを綺麗だと主張して満足したらしい瞬は、すぐに修正された軌道の上に乗ってきた。

「そういえば……。ねえ、アフロディーテって、恋愛経験ってあるのかな。黄金聖闘士って、守護しなきゃならない自分の宮を持ってるし、アテナか教皇の許可か命令がない限り、聖域を出ることができないんじゃないの? 白銀聖闘士は結構 行動が制限されてなくて、日本にも遠征に来てたけど、黄金聖闘士って聖域から出るのも不自由そう」
「老師やムウみたいに教皇の召集命令を無視して自分の宮を放ったらかしてたり、アイオリアみたいに黄金聖衣を着たまま 日本を徘徊してた黄金聖闘士もいたから、そうとも言えないんじゃないか? どっちにしたって、現にアフロディーテは恋わずらいに悩んでるわけだし、聖域にだって女はいる」
「ん……そうだね」
「まあ、面白いじゃないか。アフロディーテが恋わずらい。ここは やはり、黄金聖闘士に比べれば、はるかに一般常識を備えている俺たちが力になってやらなければなるまい」
「えええええっ !? 」

アフロディーテの力になってやらなければなるまいという氷河の言葉に、星矢が仰天したのには幾つもの理由があった。
まず第一に、確かに星矢は アフロディーテが恋わずらいをしているという情報を面白がってはいたが、彼は その情報を面白がる以上の いかなることもする気はなかった――ということ。
第二に、黄金聖闘士たちに比べれば青銅聖闘士は はるかに一般常識を備えていると氷河は言うが、それは氷河にだけは適用されない法則なのではないかと思わずにいられなかったこと。
そして、それよりも何よりも。
自分に関わりのないことには 極力 無関心、不干渉、不介入を貫こうとするのが常の氷河が、他人の色恋の世話を焼いてやろうと言い出したことが、星矢には あまりに意外なことに思われたのである。

もっとも、悪意や誠意だけでなく、注意力、人間観察力、及び洞察力も備えている紫龍には、氷河がそんなことを言い出した訳が、通る船とてないシベリアの海の水平線を眺めるがごとく はっきりと見えていたのだが。
「おまえ、88人の聖闘士の中で随一の美貌を謳われている男を失恋男にしたがっているな?」
「あんな泣きぼくろ男が瞬より綺麗だと言われているのが気に入らんのだ……!」
瞬に聞こえないように小声で尋ねた紫龍に、氷河もまた 瞬に聞こえない程度の音量で答えてくる。
気に入らない事態の打破を願い、気に入らない男の不幸を願う。
氷河は、自身の心と欲求に 至って素直で正直な男だった。
氷河の素直さ正直さに気付いていない瞬が、氷河の提案に素直に頷く。
瞬は、青銅聖闘士の一般常識が高レベルであることを信じているというより、箱入り黄金聖闘士の一般常識の低レベルを案じているらしく、アフロディーテの力になってやろうという氷河の提案には全く異議がないようだった。
「そうだね。僕、恋愛問題では力になれないかもしれないけど、アフロディーテの恋わずらいが治まるまで、薔薇の世話をしてあげることくらいならできるかもしれない」

もちろん、“ものすごい情報”をここまで運んできた星矢に異議のあろうはずがない。
消極的にではあったが 瞬がアフロディーテの“ものすごい情報”に関与する意思を示すと、星矢は我が意を得たりとばかりに張り切りだした。
「ともかく、みんなで見物に行ってみようぜ! 面白そうじゃん。恋わずらいの黄金聖闘士なんてさ。一生に一度見れるかどうか、竹の花より珍しい代物かもしれないぜ」
もしかしたら星矢が真に欲していたのは、花より団子より 団子を食べながらのどんちゃん騒ぎの方だったのかもしれない。
少なくとも、星矢が異議を覚えていないのは、『アフロディーテの力になること』ではなく、『“ものすごい情報”の真偽を確かめること』に対してのようだった。
星矢は、彼が仕入れてきた“ものすごい情報”が 心踊り胸弾む どんちゃん騒ぎに発展することを期待しているのだ。

「みんなで見物なんて……」
さすがに、対岸の火事を見物に行こうとするかのような星矢の態度に疑念を抱くことになったらしい瞬が、星矢の異様な張り切り振りに眉をひそめる。
だが、星矢が“ものすごい情報”を持って仲間たちの許に戻ってきたのは、はなから この件に瞬を巻き込むことが目的だったらしい。
彼は悪びれた様子もなく、瞬に、アフロディーテへの橋渡しを求めてきた。
「俺、アフロディーテとは あんまり お付き合いないからさー。一人で見物に行くのは、ちょっと気まずいっていうか、行っても『なにしに来たんだ』って追い返されそうじゃん。その点、おまえはアフロディーテとは生死をかけた熾烈な戦いをし合った仲だし、奴とはオトモダチだろ? 俺とアフロディーテの顔つなぎに一役買ってくれよ。友だちの友だちは友だちだってことでさ」
「星矢をアフロディーテに紹介するのは構わないけど――。ねえ、星矢。星矢は ほんとにアフロディーテのこと心配してる?」
「してる、してる。俺のこの目が嘘ついてるように見えるのかよ?」
「……」

たちの悪いことに、星矢が言う通り、彼の目は嘘をついてる人間のそれには見えなかった。
星矢が真に邪悪な心を持たない人間だからなのか、瞬の目に人の邪心を見抜く力が欠けているからなのか、それは定かではないが、確かに星矢の目には悪意の色は全く浮かんでいないように(瞬には)見えた。
いずれにしても、星矢を嘘つきと断じることはできなかった瞬は、星矢が口にした『見物』という単語に引っかかりを覚えながらも、結局は、星矢とその仲間たちをアフロディーテの許に案内し、彼等とアフロディーテの仲介の労をとることになってしまったのだった。






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