教皇殿のお膝元に位置する十二宮最後の宮は、宮の背後と教皇殿の間に広い薔薇園を抱えた比較的規模の大きな宮である。
一応 神話の時代から存在していたことになっている その宮には、当然のことながら呼び鈴などというものはない。
双魚宮のファサードに立った瞬が、宮の主を呼び出すために行なったことは、極めて原始的な行為だった。
すなわち、瞬は、双魚宮の正面から宮の奥に向かって、
「こんにちはー。アフロディーテ、いますかー」
と、声を張りあげたのである。
そんなことで黄金聖闘士が ひょこひょこ出てくるのかと、瞬の仲間たちは訝ったのだが、彼等の懸念は杞憂だったらしく、瞬の『こんにちは』に対する答えは すぐに返ってきた。

「なんだ」
不機嫌そうな顔をした魚座の黄金聖闘士が、青銅聖闘士たちの前に あっさりと(?)姿を現わす。
彼は、瞬に名を呼ばれたから出てきた――のだろう。
それは至って自然な流れだったのだが、『こんにちは』から5秒も待たないうちに その場にやってきた魚座の黄金聖闘士に、瞬は なぜか ひどく不思議そうな目を向けた。
「瞬? どうかしたのか?」
星矢に小声で尋ねられた瞬は、魚座の黄金聖闘士に向けていた不思議そうな目を、そのまま仲間の上に移動してきた。
「ん……うん……。アフロディーテが恋わずらいっていうのが ほんとのことなら、それって かなり重症なのかもしれない。アフロディーテが こんなふうに呼ばれてすぐ出てきたことなんて、これまで一度もなかったんだよ。いつも薔薇園で薔薇についてるアブラムシ駆除に夢中で。僕、いつも、『お邪魔しまーす。泥棒じゃありませーん』って言いながら薔薇園まで行ってたんだ。いつもは、それでやっと会えてたのに……」
「へえー」

これは期待できそうだと瞳を輝かせた星矢(と その仲間たち)に、アフロディーテが胡散臭いものを見るような一瞥を投げてくる。
あまり馴染みのない青銅聖闘士3人を無視して、アフロディーテは瞬に、あくまでも不機嫌そうな口調で――むしろ青銅聖闘士ごときがなぜここにいるのだと責めるような口調で、
「何か用か」
と尋ねてきた。
なぜ ここにいるのかわからない青銅聖闘士たちを、それでも彼がすぐに追い払ってしまえなかったのは、彼等が聖域へのアテナ降臨に尽力した特別な下っぱ聖闘士で、自分はそれを妨害した反逆者聖闘士であるという意識が彼の中にあったからだったろう。
そういう立場にあっても、黄金聖闘士としてのプライドを捨てるわけにもいかず――反逆者聖闘士には反逆者聖闘士なりの気苦労があるのかもしれなかった。

「あの、暖かくなってきたので、薔薇の様子はどうかな……と思って。もしアブラムシが出て大変なら、駆除のお手伝いを――」
昨日の敵は今日の友。
そして、現在のアフロディーテは前非を悔いてアテナへの恭順を誓っている(ことになっている)。
にもかかわらず、アフロディーテが青銅聖闘士たちに微妙な気詰まりを覚えていることを感じとれてしまった瞬は、黄金聖闘士であるアフロディーテの立場を考慮し、へりくだった態度で お伺いを立てていったのである。
しかし、星矢は そういったデリケートな空気を読むことはできない。
彼は、ここでアブラムシの駆除に駆り出されてしまっては大変と、慌てて(かつ無遠慮に)二人の間に割って入っていった。
そして、魚座の黄金聖闘士に対して、実に彼らしい直球を投じたのである。
「あんたが恋わずらいで死にかけてるって聞いたんだけど」
続いて、紫龍が、
「相手はどこの誰だ」
と尋ね、氷河が、
「告白したのか」
と問う。

「……」
アフロディーテは、元反逆者聖闘士に対しても敬譲の姿勢を崩さず敬語を使う瞬に慣れていた。
それだけに、瞬以外の青銅聖闘士たちの傍若無人な物言いは彼の神経に障ったらしい。
アフロディーテは一瞬、露骨に むっとした顔になった。
青銅聖闘士たちの無礼な態度に不快の感情を見せてから、次に 彼等の発言への不快の念を表情に出す。
魚座の黄金聖闘士は、そういうプライオリティを採用している男のようだった。
つまり、事象や論理より、気分、感情、プライド優先――である。
不快の気分の提示に一拍遅れた形で、アフロディーテは青銅聖闘士たちの発言への反応を示してきた。

「私は戦いを第一義とするアテナの聖闘士だ。しかも、その中でも最高位にある黄金聖闘士。この私が恋などしていられるわけがない」
それがアテナの望みと合致しているかどうかということは さておいて、アフロディーテの返答は、アテナの聖闘士のそれとしては非常に立派なものだったろう。
が、それは星矢が期待していた答えとは全く様相を異にするものでもあった。
(恋もしたことのない)星矢が、即座にアフロディーテに反駁する。

「なに言ってんだよ! あんた、本気で んなこと言ってんのか !? そうじゃないだろ。逆だろ、逆。戦い三昧、殺伐至極のアテナの聖闘士だからこそ、心の安らぎとなる伴侶を得ることが大事なんだよ。俺たちは、あんたが恋わずらいで腑抜けてることを非難しにきたわけじゃないんだぜ。むしろ、力になれるものなら力になりたいと思って、言ってみりゃ、応援にきたんだ!」
「『何を言っているのか』とは、こちらのセリフだ。伴侶が心安らぐものになるとは限らん。それは戦いに臨む際の決意を鈍らせる足枷になるかもしれないし、かえって悩みの種となることも 大いにあり得ることだ」
「悩みがないと、人は早くボケる。貴様は俺たちと違って年寄りなんだから、用心した方がいい。恋愛感情が脳を活性化させるのは、科学的にも証明された事実だ」

88人の聖闘士の中で随一の美貌を誇る魚座の聖闘士を 哀れな失恋男にするには、まず彼に恋をしていてもらわなければならない。
そういう やむにやまれぬ事情で(?)、氷河が 星矢の後押しをするように聖闘士の恋を肯定する意見を口にする。
星矢は、氷河の言葉に大きく頷いて、魚座の聖闘士の向かって 更に一歩を踏み出した。
もはや、その野次馬根性を隠そうともせずに。

「そうそう。年寄りのボケ予防は大事だぜ。で、進展具合いはどうなんだ? もうデートくらいしたのかよ?」
「デート? デートとは何だ」
「へ? デートとは何だって言われても……」
アフロディーテの思いがけない反問に、星矢はもちろん戸惑った――むしろ驚いた。
だが、アフロディーテの質問内容以上に、星矢は、その質問にすぐに答えることのできない自分自身に驚いてしまったのである。
そして、『デート』という言葉は既に死語の世界の住人になっていただろうかと疑ってみる。
それが既に死んだ言葉であれ、まだ生きている言葉であれ、デートを知らないと言う男に、『デートはデートだよ』という説明は無効だろう。
だが、星矢の頭の中で、『デートはデート』だったのだ。
それを説明する文章など、頭を力一杯殴っても出てこない。
が、幸いなことに、星矢には龍座の聖闘士という有難い辞書がついていた。
アフロディーテの質問に答えられずにいる仲間を見兼ねた紫龍が、すぐに彼の辞書の『デート』の項目を読み上げてくれる。

「恋愛関係にある二人、もしくは そういう関係に至る可能性を有する二人が 連れ立って外出し、一定の時間 行動を共にすること――かな」
「そうそう、それ! それだよ!」
『デート』がいかなるものであるのかを説明できなかったばかりに、楽しく愉快な どんちゃん騒ぎを断念する――という最悪の事態が避けられたことに安堵して、紫龍の説明に 星矢が力強く首肯する。
そんな星矢に、アフロディーテは、
「そんなことをして何になるというんだ?」
と重ねて問うてきた。
「……」

事ここに至って、星矢は、ある一つの可能性に思い至ることになったのである。
それはつまり――まさかとは思うが、今 魚座の黄金聖闘士がしているものが彼の初恋であるという可能性だった。
それはそれで面白いことになりそうだとは思うが、へたをすると一人の人間の恋愛観を決定することにもなりかねない重大な人生のイベントで、あまり無責任に“どんちゃん”することはできない。
恋を知らず、花より団子より どんちゃん騒ぎを愛する星矢でも、それくらいのことを考える分別は持ち合わせていた。

「何になる……って、好きな相手との親睦を深めるのにいいだろ。あんた、デートしたことないのか? 女の扱い知ってるか?」
「薔薇の扱いなら」
それは意外なことなのか、それともアテナの聖闘士としては至極自然かつ当然のことなのか。
魚座の黄金聖闘士の口から、星矢が恐れていた通りの答えが返ってくる。
続けて、
「女と寝たことはあるが、デートというものをしたことはないな」
という補足説明がつくところに、星矢は、黄金聖闘士という特殊な職業に従事する男の歪んだ性愛観を感じることになったのだった。
だが、おかげで、星矢の“どんちゃん”を追求しようという気持ちは、その時点で遠慮というものを失ってしまったのである。
もともと歪んでいる恋愛観なら、それが青銅聖闘士の介入によって更に歪んだところで、大人である当人の自己責任というものだろう――と。

「薔薇の扱いなら――って、あんた、何のために薔薇なんか育ててんだよ。女に贈るためだろ、普通!」
「星矢、それ、普通じゃないよ。普通、人が花を育てるのは、その綺麗な風情を楽しむためで……」
「アテナになら贈ることもある」
アフロディーテが そう言って、瞬の語る“園芸の普通”を遮ったのは、彼が薔薇を育てている真の理由が、女性に贈るためではなく、姿の美しさを愛でるためでもないことを――それが彼の戦いの武器であることを――瞬に思い出させまいとしたからだったかもしれない。
そこに、すかさず食いついてきたのは星矢だった。

「アテナになら贈ったことがある !? まさか、あんたの恋わずらいの相手って、アテナなのかよ!」
「違う! そんな不敬な!」
『違う』と柄にもない大声で訴えた時、アフロディーテは自分が口をすべらせてしまったことに気付いていなかった。
星矢に、
「違うってことは別にいるんだ。へー、あんた、ほんとに恋わずらいしてんだ」
と突っ込まれて初めて、アフロディーテは自分が言ってはならぬことを言ってしまったことに気付いたのだった。

「アテナじゃないなら、可能性はある。アタックあるのみだ」
というのが、黄金聖闘士の恋わずらいを88人の聖闘士の中で随一の美貌の持ち主と言われている男をへこますための材料としか考えていない氷河の応援の辞で、
「デートに誘って、薔薇を贈って、美味いもん食わせて、臭いセリフ言って――あんた、目も当てられないほど不細工ってわけでもないんだし、そういうツラを好む女もいるかもしれないし」
というのが、黄金聖闘士の恋わずらいを“どんちゃん”のネタとしか考えていない星矢の応援の弁。
そんな二人に、こちらは心からアフロディーテの恋の行く末を案じている瞬が、
「でも、アフロディーテはデートもしたことがないんでしょう」
と突っ込みを入れてくる。
が、星矢は、一度食いついた“どんちゃん”のネタを意地でも離そうとはしなかった。

「そんなの、特訓すればいいじゃん。誰かを練習台にしてさ。百里の道も一歩からって言うじゃん。一足飛びに成果を手に入れようとせず、地道な基礎トレーニングから始めようぜ」
「歪んだ恋愛観は根本から矯正すべきだという考えは極めて正しいものだと思うが、中身も外見も特殊すぎる こんな男のデートの練習なんかに付き合ってくれる寛大な女が、この聖域にいるとは思えんな」
デートの練習相手を探すことすら容易でない男の失恋は、基礎トレーニングを開始するまでもなく決定的。
88人の聖闘士の中で随一の美貌の持ち主などと いきがっていても、所詮はこの程度。
地道な基礎トレーニング開始前に、目的の結論を手に入れることができて悦に入っていた氷河の顔が強張ることになったのは、アフロディーテに地道な基礎トレーニングを推奨する星矢と紫龍が、まるでバランストレーニングのためのバランスボール、ウエイトトレーニングのための鉄アレイ、イメージトレーニングのためのリラックスチェアを見るような目を 瞬に向けていることに気付いたからだった。

「おい、おまえら、なぜ瞬を見ている」
「いや、ほら、瞬なら人助け大好きだし、あとでアフロの本命にデートしたことを知られても、あれはオトコでキミのための練習台だったんだとか何とかって言い訳が立つから問題ないなーって思ってさ」
「うむ。瞬は、我儘で身勝手な男の相手にも慣れているから、寛大で辛抱強くもある。デート初心者の練習相手として、これ以上はないくらいの最適任者だ」
「……」
星矢たちは、やはり そういうつもりで瞬を見ていたらしい。
至極 理に適った人材登用、これこそ まさに適材適所と言わんばかりに星矢と紫龍は主張するが、そんなことは氷河には到底 容認できるものではなかった。
氷河が 星矢の“どんちゃん”に便乗した目的は、瞬より美しいとされている男が哀れな失恋男になる様を見て溜飲を下げたかったからだったのである。
なぜ そんな男に瞬に瞬を貸し出さなければならないのか。
冗談にしてもたちの悪い冗談だと、氷河は思った。
もちろん、彼は すぐさま 瞬貸し出し拒否方向に動き出そうとしたのである。
しかし、彼の仲間たちが そんな氷河の機先を制した。

「練習台は瞬にやってもらうことにしてさ。その前に、氷河、おまえがアフロディーテにデートの心得を教えてやれよ」
「なぜ俺がそんなことをしなければならんのだ! 冗談じゃない!」
本当に冗談ではなかった。
これが冗談ではないことに氷河が気付いたのは、星矢でも紫龍でもなく 魚座ピスケスの黄金聖闘士アフロディーテ当人が、
「私がアンドロメダとデート? キグナスはデートとやらに慣れているのか。では、ぜひ、そのコツを私に教えてくれ。自慢するわけではないが、私はこれまで極めて清らかに生きてきたので、そういったことには全く不慣れなのだ」
と言ってきた時だった。

「清らか?」
清らかというのは、力のある者こそが地上を治めるべきだという暴力主義のもと アテナの廃除を試みたり、女性とデートをしたことはないのに寝たことはあるような男のことを言うのだろうか。
『清らか』とは、絶対に そんな男に冠される形容ではないと、氷河は心の底から思ったのである。
それは、『清らか』なる言葉への はなはだしい侮辱だと。
そんな氷河が、だが 結局アフロディーテにデート指南をすることになったのは、“自称 清らか”ではなく“他称 清らか”な人間が そうすることを望んだから。
“地上で最も清らか”のお墨付きを神に与えられた人物が、白鳥座の聖闘士の優しさを信じ切った様子で、白鳥座の聖闘士より先に魚座の黄金聖闘士に、
「大船に乗ったつもりでいてください。氷河はとても親切で、困っている人を見ると放っておけないの。まして黄金聖闘士の頼みとなったら……ねえ、氷河」
と答えてしまったからだった。

「何が『ねえ、氷河』なんだ!」と、勝手に人を親切な男にしてしまった出しゃばりを、氷河は怒鳴りつけてしまっていただろう。
その出しゃばりが瞬でさえなかったら。
その出しゃばりが瞬だったせいで、氷河は、顔面を不自然に引きつらせながらも、アフロディーテに親切に(・・・)してやらなければならなくなってしまったのだった。






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