教育の現場で何事かを学ぶのは生徒だけとは限らない。 星矢が“ものすごい情報”を入手した日から5日間に渡り、90分の講義を5回分終了した時、未だにキツネにつままれたような顔をしているアフロディーテに比して、氷河は何事かを掴み 手応えを感じている男の顔をしていた。 その手応えのゆえなのだろう。 「白熱講義が終わったら、今度は実地訓練かなー」 と星矢に言われた時も、 「瞬を貸し出すことになりそうだが、おまえ、尾行にでもつくか?」 と紫龍に尋ねられた時も、氷河は 仲間たちの言を鼻で笑うという余裕を見せたのだった。 「俺以上に瞬を愛している男は、この地上に存在しない。だから、俺以上に瞬を満足させることのできる男もいない。瞬が誰とデートしようが、その男はデート以前より瞬の好感度をダウンさせるだけだろう」 傲慢にして不敵。 にも関わらず、どこか物悲しい。 そういう声で作った呟きを呟いた氷河は、特に取り乱した様子も見せず、瞬をアフロディーテとのデートの実地訓練に送り出してやったのだった。 氷河の自信は、決して根拠のない うぬぼれではなかったのだろう。 聖域を出てアテネの町に出掛けていって6時間後。 アフロディーテとのデートを終えて 仲間たちの許に戻ってきた瞬の表情は、極めて微妙なものだったから。 「アフロディーテとのデートはどうだった? 100点満点で何点くらいだ?」 「うーん……。29点くらい……かな」 少し疲れた色の見える浮かぬ顔。 仲間たちへの みやげもない。 氷河との 「随分 低い点だな。自称 清らかなアフロディーテ様が 何か馬鹿をやらかしたのかよ?」 「そういうわけじゃないんだけど……まず服装がね……」 「服装? まさか アフロディーテの奴、デートに黄金聖衣装着で出掛けたわけじゃないだろうな?」 「ううん。高そうな黒のジャケットにパンツ。それだけでも春向けじゃないと思うのに、袖口からレースが覗いててね……」 「レース !? 」 「観にいったのがオペラのマチネーだったから、ちゃんとした服を選んだんだっていうのは わかるんだけど、僕、ごく普通の格好で行ったから、全然釣り合いがとれてなくて、一緒にいるのが気まずくて……」 「ああ、わかる」 「それにオペラの時間が長すぎなの。一度休憩が入って延々4時間。僕としては、もう少し短めのオペレッタあたりで手を打ってほしかったんだけど。それに、そのあとに行ったところが、お酒OKのところで、僕、お酒の匂いが苦手でしょ。つらそうにしてたら、気付いてティーラウンジに場所を変えてくれて――それはいいんだけど、アフロディーテって、お茶を飲む時、小指を立てるんだよ!」 「うわ」 人間の立ち居振舞いの大抵のことには動じない星矢も――というより、細かいことに気付く注意深さを有しておらず、それゆえ人の大抵の振舞いに寛大な星矢も――さすがにお茶を飲む際に小指を立てるような男とだけは付き合いたくなかった。 その一事だけで、星矢は、瞬が魚座の黄金聖闘士に下した『29点』という点数に納得できてしまったのである。 だというのに、アフロディーテに対する瞬の減点事項はそれだけではなかったのだ。 「その上、僕たちの着いたテーブルの隣りの隣りのテーブルに 音を立てて飲み物を飲む人がいて、それが不愉快だったらしくて、アフロディーテってば、その人がずずずずずって音を立てるたび、毎回 その人を睨むの。気持ちは わからないでもないけど、相手の人は、アフロディーテに睨まれてることに気付いたって、どうして自分が睨まれてるのか理解できないだろうから、アフロディーテのしてることって全く無意味なことだったと思うんだよ」 瞬の言う通り、アフロディーテのしたことは全く無意味なこと、それどころか有害なことだったろうと、星矢は思ったのである。 アフロディーテのしたことは、つまり、彼が、自分のデートの相手よりも マナー違反を犯している他人の方を気にかけていたということ。 デートの現場においては、それこそが重大なマナー違反と言っていい行為なのだ。 「それだけじゃないよ。アフロディーテって、劇場のロビーにあるパンフレットが ちょっとずれてたり、ティーラウンジのオブジェがちょっと曲がってたりするのを見付けては、いちいち不機嫌な顔になるの。劇場のロビーでは 帽子をかぶったままの人がいて、その人のことも睨んでた。マナーを守ってない人を目にするたび、アフロディーテって、いちいち憎々しげに舌打ちして――いっそ直接 注意しちゃえばいいのにって思うくらい」 「まあ、それは……おまえが一緒だったから、面倒を起こしたくなかったんだろう」 紫龍のフォローは、残念ながら、あまり瞬の心には響かなかったようだった。 瞬は、アフロディーテの振舞いが、それこそ いちいち神経に障ったらしい。 実際、アフロディーテの振舞いは、『この世界に、人間は自分のデート相手しかいないと思え。他のすべてのものは ただのゴミだ。常に周囲に注意を向けている必要はあるが、それはデート相手の心身の保全のためだ』という氷河の教えに、思い切り反するものだった。 「アフロディーテは、場所を移動する時も――脇目もふらずに すたすた歩くの。たとえば劇場からレストランに移動する時とか、氷河なら、わざと遠回りして、公園の中とか緑の多い道を選んでくれるんだよ。花や木や そこにいる人たちを見て、ほのぼのして、リラックスして――。アフロディーテってそういうことを考えもしないらしくて、いつも目的地に向かって一直線。歩くことを あんなに詰まんないって感じたのは、僕、今日が生まれて初めてだよ」 「む……難しいもんだな」 「それにね!」 ふいに、瞬の語気が荒くなる。 何か非常に不愉快なことを思い出したらしく、瞬は その右の手を拳の形にして わなわなと小刻みに震わせ始めた。 「劇場前の広場にね、プレッツェル屋さんが出てて、僕、いい匂いがするなぁって しばらく見てたのに、アフロディーテってば、僕にプレッツェル買ってくれなかったんだよ! 氷河と一緒の時なら、こんなこと ありえないよ! 僕が食べたいって言わなくても、氷河ならすぐに察して、どれが食べたいんだって訊いてくれるのに、アフロディーテって、気が利かなすぎだよ!」 「あ……いや、それは おまえの腹立ちはもっともだけど、少し落ち着けって。ほら、何つってもさ、アフロディーテは黄金聖闘士なんだ。いつも人に気を遣われてばかりで、人に気を遣ったことなんてないんだから、そこは情状酌量してやれよ。おまえ、チェック厳しすぎだって」 「テストで厳しくないと、本番で失敗するでしょ。29点! これ以上は1点だってあげられません!」 もし劇場前の広場に出ていたプレッツェルの屋台の前で、アフロディーテが『どれが食べたい?』と瞬に訊いていたなら、アフロディーテは あと20点は点数を上乗せしてもらえていたのかもしれない。 だが、すべてが終わってしまった今になって そんなことを(星矢が)考えても、後の祭り。 瞬の採点した点数とデートの概評を星矢から知らされたアフロディーテは すっかり自信を失い、その日から宮の奥の部屋で寝込むことになってしまったのだった。 |