Amore Vittorioso
-愛の勝利-







S子爵家の次男が大層美しいという噂は聞いていた。
しかし、まさか、こういう美しさだったとは。
氷河の驚きと違和感は、既に成人し 数年前から宮廷に伺候しているS子爵家の長子の姿を見知っていたせいもあったろう。
片親だけの血のつながりとはいえ、当然 兄弟の姿は似ているのだろうと、氷河は思っていたのである。
だが、S子爵家の兄弟は全く似ていなかった。

外政に対応すべき緊急の課題がないのは、戦争をしていないから。
しかし、内政は問題山積。
そういう状況にあるE国国王が、まだ10代半ばの少年にすぎないS子爵家の次男を王宮に呼びつけたのは、アーチリュート演奏の名手という評判のせいだったのか、それとも やはり、稀に見る美少年という噂の主に興味を抱いてのことだったのか。
氷河の家とは因縁浅からぬS子爵家が絡んだこととはいえ、王のその命令に政治的意図はなく、完全に逸楽のためのようだったので、氷河は、E国摂政である父 H公爵の代理として、王の酔狂を許した。

何代も続いた近親婚の弊害で、30代近くになっても巧みに国語を操ることすらできず、常識的な判断力を欠く国王。
それゆえ摂政を必要としているような国王に、政治に関心を持たれるのは、国の乱れを招くもと。
王には遊興に うつつを抜かしていてもらった方が、むしろE国国民のため。
それが、E国摂政を務めるH公爵と 公爵の息子である氷河の考えだった。
無能な国王は氷河の希望に沿うことに関しては非常に素直かつ有能で、氷河に リュートの演奏会を催す許可を与えられると、その日からずっと 演奏会のことしか頭の中に置いていないようだった。
そうして迎えた今日の この日。
あくまでも個人としての王の無聊を慰めるためのものということになっている演奏会は、王宮の大ホールではなく、2、30人の観客が入るのがせいぜいの小ホールで、王が選んだ観客たちだけの前で催された。

E国代々の王の奢侈嗜好を物語る過剰に華美なホールの壁は白大理石に金の装飾、その壁のあちこちに掛かる大きな鏡が、その装飾を映し反射し、それでなくても落ち着きのない部屋の様子を 実際より更に乱脈に(あるいは偏執狂的に)感じさせている。
人工的に飾り立てられた部屋の内に響く 澄んだリュートの音色は、その場の空気に溶け込めずに、逃げる先を探し惑っているようだった。
見るに見かねて――聞くに聞きかねて?――氷河は、他の観客たちに気取られぬように場所を移動し、庭園に面したバルコニーに続く開き戸を 僅かに開けてやったのである。
室内で澱んでいたリュートの残響は、その隙間から、故郷に帰るように飛び出していった。
その瞬間に、氷河は、S子爵家の次男と視線が会ったのである。
リュートの演奏を続けながら、S子爵家の次男は氷河に向かって微笑し、目礼してきた。

奏者が観客の表情を、観客が奏者の表情を、互いに確かめられるほど小さなホール。
今日初めて宮廷に上がったS子爵家の次男は、見れば見るほど兄には似ておらず、その巧みで華麗なスティル・ブリゼの響きのごとく美しい。
リュートの演奏者の微笑に触れて、氷河は改めて そう思った。
とはいえ、S子爵家の長子が決して醜い男だというわけではない。
その野生的で厳しい印象と雰囲気を好むかどうかは人によるだろうが、氷河は、彼を宮廷で5指に入る美丈夫と思ってはいた。

だが、今日初めて宮廷に出仕してきたS子爵家の次男は、その美しさの次元と種類が、兄とは――他の誰とも――違っていたのだ。
『少女めいている』と言えば、“少女”を過大評価することになる。
“仕草の可愛い小動物のよう』と言えば、比べられる小動物が尻込みし、逃げ出してしまうだろう。
『邪気のない可憐な花のような』『汚れを固く拒む清浄な月のような』――様々な比喩を考え、いずれの形容も適当ではないと次々に却下して、最後に氷河はリュートの奏者を『春の優しく暖かな微風のよう』だと思った。

S子爵家は、つい50年ほど前には、王宮に上がり 王に謁見を賜わることなど到底不可能な 一地方の小貴族にすぎなかった。
先々代の当主が、当時は大博打としか思えなかった暴挙に打って出、新大陸との交易権と交易路を全財産を投げ打って手に入れたことが、S子爵家隆盛の契機となる。
新大陸との交易で巨万の富を手にしたS子爵家は、今では旧大陸のすべての国に支店を置く金融と流通の支配者、S子爵家の銀行を通さなければ そもそも どの国のどんな貿易商も他国との商売ができないような仕組みを構築してしまった。
今では旧大陸の各国は、S子爵家が認めなければ、資金調達に難儀し、国同士の戦争すら ままならないというありさまである。
E国の財政も、S子爵家が、(多分に野心を含む)故国への温情――王室の借金返済の繰り延べ――を示しているおかげで、何とか破綻せずにいるという状況だった。

そんなS子爵家に対して、氷河のH公爵家はE国建国の王の血を汲む由緒正しい大貴族。
『成人した王がいない時には、必ずH公爵家から摂政を立てる』と国法にも記された、いわばE国の行政と律法を支配する家だった。
当然、成り上がりのS子爵家を快く思ってはいない。
誰もが羨む財を得たS子爵家の者が、財政面での貢献にふさわしい地位と名誉を得ようとする動きを、H公爵家は これまで ことごとく封じ、S子爵家が国政の一角に入り込むことを頑として阻んできた。
国への貢献度を考えれば、本来なら、S子爵家の者には国務大臣職の2つ3つは与えられるのが自然なことではあったのだが、『金の力に屈して 国政をS子爵家に売るなど言語道断、そんなことになったらE国の栄光と誇りは地に墜ちる』というのが、氷河の父であり E国の摂政でもあるH公爵の口癖だった。
いわば、H公爵家はS子爵家とは敵同士。
氷河は、そのH公爵家の次期当主だった。

つまり、氷河にとって、その“春の優しく暖かな微風”は 敵の家の息子だったのである。
だが、氷河は、S子爵家の次男坊の美しさを認めるのにやぶさかではなかった。
むしろ、そういったことなら いくらでも認めることができるし、手放しで称賛することもできたのである。
姿の美しさやリュートの演奏の巧みさなら、いくらでも。

その演奏が終わる。
王は満悦のていで、奏者の演奏と その美貌を褒め称えた。
王にならい、王の側近・取り巻きたちもまた口を極めてS子爵家の次男を称賛する。
それがただの世辞なら、氷河も 不能不才な王にたかる無能な貴族たちの芸のない おべんちゃらに うんざりするだけで済んでいただろう。
S子爵家の次男を取り囲んだ貴族たちの目に、男女を問わず好色の光が宿っていることに気付いて、氷河は不快になった。
だから、彼は近付いていったのである。
春の優しく暖かな微風を澱ませようとしている装飾過多の壁に穴を開け、爽やかな風を外に逃がしてやるために。
しかし、氷河より一瞬 早く、その仕事を済ませてしまった男がいた。
S子爵家の長男。
風の源に ほとんど手の届くところまで来ていた氷河は、まさかそこで踵を返すわけにもいかず、不本意ながら 宿敵の家の兄弟に 当たり障りのない挨拶をしなければならなくなってしまったのだった。


「一輝。君に、こんなに可愛らしい弟君がいるとは知らなかった。宮廷の汚辱に触れて汚れることがないように、今まで隠していたのかな」
既知の、対立し合う二つの家の次期当主同士。
そうしたくなくても、氷河は一輝――S子爵家の長子 ――に 可能な限り嫌味たらしい口調で話しかけていかなければならなかった。
その場に 今日初めて出会った優しい春の風がいなければ、氷河も『そうしたくなくても』などと思うことはなく、心置きなく嫌味全開で“敵”に相対していただろうが。

「特に 貴様のように嫌味で気障な野郎の接触を回避するためにな」
S子爵家の次期当主が、氷河の嫌味な口調や態度に 相応な答えを返してくる。
敵対し合う二つの家に属する者たちの挨拶に ふさわしいやりとり。
既に双方 慣れたものである。
一輝に友好的で穏やかな答えを返されていたら、氷河は逆に警戒心を抱いていただろう。
しかし、二人の男の険悪なやりとりを初めて見た春風は、兄の刺々しい態度に仰天してしまったようだった。

「兄さん、なんてこと言うんです! も……申し訳ありません……」
兄をたしなめ、氷河の方に向き直って すまなそうに謝罪した優しい春の風は、そうしてから その風向きを緩やかに変え、氷河に微笑を投げかけてきた。
「演奏中に、音を外に逃がしてくださいましたね。ああしていただけなかったら、僕は息が詰まって演奏を続けていられなくなっていたと思います。どうもありがとうございました」
「いや……」
彼は氷河のしたことの意味に気付いてくれていたらしい。
そして、彼は どうやら、その一事で氷河を 親切で思い遣りのある男と思い込んでしまったようだった。
この優しい声の主に自分の正体を知らせたくはなかったが、こればかりはどうしようもない。
ほとんど無意識のうちに彼の視線を避けて――氷河は自分の視線を、嫌味を示し慣れた仇敵の上に移動させた。

「宮廷は今日が初めての弟君の方が、よほど宮廷の作法を心得ているようだな」
「瞬は、そんなものは知らん」
「瞬というのか。俺は氷河という」
「氷河さん……?」
「H公爵家の総領息子──次期当主だ」
全く同じ言葉を、全く同じタイミングで、一輝と氷河は口にしていた。
おそらく一輝は 世間知らずの弟が仇敵の家の者に好意を持つ事態を妨げるために、氷河は 自分たちが敵対し合う家に属する者たちだということを 他人に知らされるよりは自分で瞬に知らせてしまった方が まだましだと考えて。

「え……」
H公爵家がS子爵家の台頭を邪魔している家だということは知っていたらしい。
瞬は、氷河の自己紹介に驚き、その瞳を見開いた。
暖かく優しい春の微風。
しかし、その微風と 温かく優しい関係を持つことは、H公爵家の者には許されないのだ。
氷河は、半ば開き直って、瞬に尋ねていった。
「兄君やS子爵家の者たちから、君は、俺の家のことをどう聞かされている?」
「それは、あの……色々と。でも、伝聞が事実かどうかは、僕が自分の目で確かめます。こんなに綺麗な目をした人が、そんな意地悪をするとは思えない」
「瞬!」

春の風が その季節にふさわしい やわらかい声で答え、そんな弟を、兄が厳しい口調で名を呼ぶことで叱責する。
おとなしそうな風情をしているが、瞬は兄の言いなりというわけでもないらしい。
興味深い事態だと、氷河は思った。
『興味深い』
氷河がそう思ったのには、相応の訳がある。






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