呪われた城
- I -







「吸血鬼騒ぎ?」
「ええ、吸血鬼騒ぎ」
『吸血鬼』――それは、明るく光輝くような笑顔で 聖域の女神アテナが口にしていい言葉なのだろうかと、まず 瞬は思ったのである。
聖域のあるバルカン半島は 確かに吸血鬼伝説が数多くある土地だが、伝承の吸血鬼に光のイメージはない。
こんなに明るく口にされてしまっては、ぞっとすることもできないではないか。

「場所はハンガリー王国。『血の伯爵夫人』の異名を持つエリザベート・バートリのことは知っているでしょう? 最近、彼女の居城だったチェイテ城周辺の村々で 若い娘がさらわれる事件が多発して、吸血鬼が出るという噂が立っているらしいの。いかにもいかにもな場所で、いかにもいかにもな噂だから、少し眉唾物ではあるのだけど、あなたたち、ちょっと調査に行ってきてくれるかしら」
「エリザベート・バートリ……」

世俗から離れた聖域で暮らす瞬でも、その名は知っていた。
別名、血の伯爵夫人。
トランシルヴァニア公国の名門バートリ家の令嬢にして、ハンガリー王国副王を任じられたトーマス・ナダスティの息子フランツ・ナダスティの未亡人。
今から50年ほど前の1610年、処女の血を浴びることによって若さを保つことができると信じたエリザベートが、近隣の農民や貴族の娘たちを残虐な方法で殺害していた事実が発覚した。
その数は、本人の供述で650名、裁判で認定された数では80名。
まさに、狂気狂信の伯爵夫人である。
本来なら死刑になるところだったのだが、彼女はなにしろ身分が高すぎた。
息子や娘たちの助命嘆願もあって、結局 死刑を免れた彼女は、食事を差し入れる小窓以外何もない牢獄に閉じ込められ、事件発覚から4年後に死亡したと言われている。
バートリ家は、領地や権力の分散を回避するために繰り返された近親婚の弊害で、嗜虐趣味者、悪魔崇拝者、色情狂等、精神異常者の多い家系だったらしい。

「現在のチェイテ城の城主は、エリザベート・バートリの姪の子に当たるカタリン・ナダスティ。未亡人よ。夫君は5年前に亡くなっているわ。現在のナダスティ家の当主の姉に当たる女性なのだけど、ハンガリー王国随一の財力を誇るナダスティ家の一員だけあって、領地も広いし、権力も相当のもの。農民程度では、たとえ娘を殺されても泣き寝入りすることしかできない絶対権力者ね」
「その絶対権力者の女性が、大伯母であるエリザベートを見習って、付近の若い女性たちの血を絞り取っているとでもいうんですか」
「――という専らの噂。ところが、現在のハンガリー王室はナダスティ家に多額の借金をしていて、カタリンに無実の罪を着せ、ナダスティ家を窮地に追い込み、あわよくば取り潰して、借金の帳消しを画策している――という噂も同時に流布しているの」
「汚い話だ」
瞬と共にアテナ神殿に呼ばれていた氷河が、吐き出すように言う。
吸血鬼伝説に最も慣れ親しんでいる民族と言っていいスラヴの血が入っている氷河には、聞き飽きた吸血鬼話より、王侯貴族の腐敗話の方が反応を示しやすいのかもしれなかった。

「どちらにしても、世俗の政治のことでしょう。聖域や聖闘士が関わっていいことではないような気がしますけど。まさか吸血鬼騒動が発端になって戦争が起きるとも思えないですし」
「……無関係だとは思うのだけど、チェイテ城というのは、百数十年ほど前にハーデスが地上の居城として使っていた城なのよ。もちろん、ハーデスの復活には時間が満ちていないから、今すぐ聖戦が始まるということは考えられないわ。ただ、気になるのよ。エリザベートの時は、聖戦の直後で人手を割くこともできず、私は 調査らしい調査もできなかったの。もちろん、その時の私は今の私とは違う姿をしていたのだけど――。狂気の家系の為せるわざ、ハンガリー王室の陰謀なら、私もそんなことには積極的に関わりたいとは思わないわ。でも、万一 ハーデスの亡霊が城主に取り憑いていたりしたら、ことだから」
「冥府の王の亡霊だなんて、何の冗談ですか」
「あら、面白くなかった?」
「ええ。あまり笑う気にはなれません」
「変ねえ」
アテナに、自分の冗談が受けなかった理由を真面目に考える素振りを見せられてしまった瞬は、少々疲労感を覚えることになったのである。

アテナが、ハンガリーでの吸血鬼騒動へのハーデスの関与を本気で考えているのか、冗談で考えているのかが わからない。
“わからない”ということは、人の心を落ち着かなくさせ、緊張させ、そして 疲れさせるものである。
気紛れのたちのあるアテナに仕えることになってから、瞬は、その事実を身をもって知ることが多くなっていた。
その上、年若い現在のアテナは、歳が近いという気安さがあるのか、彼女の命令を心待ちにしている黄金聖闘士たちを差し置いて、青銅聖闘士にすぎない瞬たちに、やたらと 細々した仕事を押しつけてくる――もとい、頼んでくるのだ。

「何もなければ、それでいいのよ。いつも あなたたちには面倒ばかりかけているから、これは私からのプレゼント。休暇だと思って、二人でハンガリーの自然を満喫してくればいいわ。チェイテの辺りは 緑濃い風光明媚なところだそうよ。気候もいいし、ワインも美味しいんですって」
「プレゼント?」
「ええ。自然に興味のない氷河のために、チェイテ村の隣りの村に豪華な宿を手配しておいたわ。50年の時間が経って、血の伯爵夫人への恐怖も 程よく恐怖も薄れてきたんでしょう。吸血鬼伝説に興味のある見物人が押し寄せて、チェイテ村付近は今、欧州一の観光名所になっているそうなの。あなた方は、南エーゲのアンドロス島の領主の道楽息子と その婚約者。海しかない故郷に飽きて、吸血鬼伝説の地に旅行することを思いついた――という設定。どう? 気に入った?」

白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士が その設定を気に入ったかどうかは、この際 問題ではなかっただろう。
アテナ自身が その設定を気に入っているらしいのだ。青銅聖闘士ごときに、異議を唱える権利はない。
「アテナは誤解しているようだ。俺は自然は好きですよ。特に素直で可愛らしく、いい声で鳴いてくれる自然なら」
氷河までがアテナに便乗して、笑えない冗談を口にする。
瞬は、氷河を軽く睨んでから、努めて真面目な顔を作り、彼の女神の方に向き直った。

「アテナのお心を安んじるためになら、ハンガリーの吸血鬼にでもイングランドの幽霊にでも会いに行きますが、なぜ僕たちなんです」
「ああ、それは……つまり、吸血鬼の犠牲者は若く美しい娘さんたちばかりだという話なの。本当は、私自身が出向いて囮になりたいくらいなのだけど、皆に反対されることが目に見えているから」
「当たりまえです!」
冗談ではなく本気で――むしろ喜んで――“敵”をおびき出す囮に立候補しかねないアテナの性癖を知っている瞬は、即座にアテナの冗談を大喝した。
畏れ多くも女神アテナを厳しい声で叱責してから、
「僕は吸血鬼をおびき寄せるための囮ですか……」
と、情けない声で泣き言を言う。
アテナは罪のない笑顔で、瞬に頷いてきた。

「若く美しい理想の美少女が自分のテリトリーに飛び込んできたら、吸血鬼も喜んで食いついてくると思うのよ。で、氷河は瞬の護衛ね」
瞬と違って、氷河は自分の役どころに不満はないらしい。
彼らしくなく素直にアテナの命令を受け入れ頷く氷河と、彼女らしく天衣無縫な笑顔で、歴とした男子を美少女呼ばわりするアテナ。
瞬は、二人に いじめられているような気になってしまったのである。

「……吸血鬼というのは、人間の性別を見極められなくても務まる商売なんですか」
瞬の精一杯の皮肉は、
「吸血鬼といっても、ただの人間ですもの。人間の目しか持っていないでしょう。むしろ、その吸血鬼が 一目で あなたを男子と見破ったら、ハーデスの亡霊が関わっている可能性を考えた方がいいわね」
というアテナの真顔の冗談に一蹴された。
こんなに馬鹿にされても、アテナの命令に従わないわけにはいかない聖闘士の悲哀を ひしひしと感じつつ、そうして 瞬は氷河と共にハンガリーに向かったのである。
自分の足で走った方が速いことはわかっていたのだが、人目を考えて、馬に乗って。






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