チェイテ城のあるチェイテ村は、ハンガリーの北の端にある小さな村。
もともと さほど大きな村ではなかったのだが、50年前のエリザベートの事件以来 農奴の逃亡が相次ぎ、村内のナダスティ家の畑も荒れ放題になっている――という話だった。
そんなチェイテ村とは対照的に、チェイテ城から3キロほど離れたところにある隣り村は、驚くほど活気があり、人の数も市場に出ている店の数も 小さな公国の首都並みに賑やかだった。
氷河と瞬が落ち着くことになった宿も、貧しい巡礼者が素泊まりする寒村の安宿といったものではなく、どう見ても貴族の館。
王族や富裕な貴族が避暑や避寒のために出向く離宮といった風情の建物だった。
室内の調度も豪華で、部屋には専任の小間使いまで付いている。
氷河と瞬の部屋に付けられた小間使いは、貴族の道楽息子と その婚約者というアテナの触れ込みを考慮したのか、若い娘ではなく、経験豊かそうな年配の女性だったが。

「ええ、そうなんですよ。ここは 元はナダスティ家の城館の一つだったんです。でも、あの事件があってから住む者もいなくなって――そこを安値で買い取って、宿に改造したのが、ポジョニからやってきた私等の雇い主。大々的に、チェイテの吸血鬼見物の宣伝を打ったら、金と暇を持て余した貴族様たちが 雲霞のごとく 押し寄せてきて大繁盛。エリザベート様も地獄で さぞ呆れ返ってることでしょうよ」
お喋りが好きで、かなりの事情通でもあるらしい小間使いは、呆れたように そう言ってから、慌てて胸の上で十字を切った。
「おかげで、あんなことのあった場所だっていうのに、ここの村は寂れず、私等も食うに困ることはなくなったんだから、有難く思ってますけどね。先見の明のある雇い主にも、エリザベート様にも」

そう告げる小間使いの年齢は、おそらく30代半ば。
エリザベートの事件が起きた時には、彼女は まだ生まれていなかっただろう。
一時はハンガリー王国を恐怖のどん底に陥れた事件が残した傷跡も、生きている人々の記憶からは少しずつ薄れていっているらしい。
氷河と瞬には、恐怖の空気の全くない村の賑やかさが かえって不気味に感じられた。

「吸血鬼見物と謳っていても、エリザベートの亡霊が出るわけではないんだろう? 見物できるのは せいぜい、彼女の血を引いたチェイテ城の現城主だけ。あんたは今の城主に会ったことがあるのか? カタリン・ナダスティとかいったな」
「チェイテ城の奥方様なら、毎週会ってますよ」
「毎週?」
「ええ。チェイテの奥方様は、週に1度 遠乗りに出るのを習慣にしてるんだ。チェイテのお城を出て、領内の村々をまわり、その途中、必ず ここに寄って休憩を取る。大抵は、ワインを一杯飲んで、すぐに帰ってしまうんだけど――まあ、あれは一種の客寄せだね。あの事件で、チェイテ村の農奴がかなり逃げ出したもんだから、畑が荒れ放題で――今は畑より、旅行者相手の商売の方が実入りがいいんだ」
「吸血鬼伝説が、随分と世俗的というか――せこい話になっているんだな」
「奥方様自身は国いちばんの金持ちであるナダスティ家の一族だから、経済的に困ってはいないんだよ。奥方様がそんなことをしてくれるのは、宿や土産物屋で生計を立ててる私等のため。もちろん 奥方様は、私等 下々の者とは言葉も交わしちゃくれないけどね」

彼女の口調が段々砕けてきたのは、氷河が貴族らしい高慢さを備えていないことを見てとったからか、あるいは 瞬の親しみやすい印象のためだったのか。
いずれにしても、彼女は 自分の担当する客の性質を見極め、気張らなくていい客には気張らず接することにしているようだった。
「ロビーで待ってれば、そろそろ来ると思うよ。今日は金曜日。ちょうど週に一度の その日だから。ご案内しましょ」
カタリン夫人を見物することは、この宿に泊まる者の特権もしくは義務。
そう思い込んでいるような小間使いに促され、氷河と瞬は 旅の疲れを癒す間もなく、1階のロビーに下りていくことになったのだった。






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