「さあ、恐がらずに、その身体を私の手に委ねるがいい」
「あ……」
カタリン夫人の狂気の目に押されて、瞬の肩と背が 部屋の壁に触れる。
カタリン夫人の目と手と唇が、瞬に襲いかかってくる。
もう自分は彼女に食われてしまうしかない――と、瞬が諦めかけた時。
「瞬が貴様より はるかに美しいという意見には諸手を挙げて賛同するが、あいにく瞬は男なんでな。瞬にそれ以上 近付くな」
という声が、室内に響き渡った。
「氷河……!」
ベランダから登場してきた氷河の その声が、そうして カタリン夫人の動きを止め、瞬の心身に再び力を みなぎらせる。

「そなた、なぜ、ここに !? もう1週間も あの酒を飲み続けたのだ。そろそろ自分では何も考えることができなくなっているはず。それとも、そなた、自分の意思を手放す前に狂ったか! これが――この美しさが男のものだと !? そなた、自分の言っていることがわかっているのか! そなたは、そなたの恋人が男だと言っているのだぞ!」
カタリン夫人は、氷河が特別製のワインに酔い潰れ、動くことはおろか、ものを考えることさえできなくなっていると信じていたらしい。
彼女は まるで自分が殺した男の亡霊に出会った人間のような目をして、氷河に向かって鋭い叫び声を叩きつけた。
それでも狂っているのは自分ではなく氷河の方だと信じているかのように。

「その通りだ。証拠を見せてやりたいが、そういう役得は俺だけのものにしておきたいんでな」
氷河は、完全に元の氷河に戻っている。
瞬は その事実に力を取り戻しただけでなく――すっかり浮かれてしまったのである。
「氷河、僕、カタリン夫人でないのなら平気だよ!」
「平気って、何が――」
氷河が何ごとかを言いかけたようだったが、浮かれた今の瞬の耳と心には 自分の嬉しさの他には何も届かない。
瞬は、想定外の展開に動転し 目を血走らせているカタリン夫人の脇をすり抜けると、その部屋の本来の出入り口である唯一の扉を勢いよく押し開けた。
そこには、瞬にとっては幸いなことに、カタリン夫人以外の人間が見張りに立っていて、彼は、突然 明るい目をして室内から飛び出てきた気の毒な虜囚の姿に ぎょっとして顔を強張らせたのである。

「逃がすな!」
カタリン夫人が見張りの兵に向かって、金切り声で命じる。
瞬は にこにこしながら、見張りの兵の手を取った。
「逃げないよ。ちょっと協力してくれる?」
「協力……とは……」
「うん。僕が男だって、カタリン夫人に証言してほしいんだ」
そう言い終えるより先に、瞬は見張りの兵の手を、綿のシャツを一枚 身に着けているだけの自分の胸に押し当てた――。

見張りの兵は、確実に10秒以上 息をするのを忘れていた。
もしかしたら、彼は意識まで失っていたかもしれない。
その10秒間が過ぎ去ってから はっと我にかえった彼は、実に盛大に 瞬の協力要請に応えてくれたのである。
「奥方様、お……男です! 信じられない!」
混乱しきった声で、そう叫ぶことで。

自分が そうなるように仕向けたというのに――瞬は、見張りの兵のその言葉に眉をつり上げた。
「信じられないって どういう意味 !? 見ればわかるでしょう! 僕は男物の服を着てるのに!」
カタリン夫人が届けてくる女物のドレスや夜着など身に着けてなるものかと、入浴のための湯で洗いながら意地で着続けた綿のシャツ。
瞬の苦労も知らず――知りようもなかったろうが――失礼なことを言う親切な協力者を、瞬は頭から怒鳴りつけた。
怒鳴り責める声さえ浮かれているのが 自分でもわかったのだが、今の瞬はそんな自分を自身の意思では抑えることができなかった。

おかげで、やたらと楽しそうに浮かれている瞬に代わって、氷河が見張りの兵への同情心を示さなければならなくなってしまったのである。
「瞬……無茶を言ってやるな」
ぼやくように そう言って、氷河が瞬の手を引く。
1週間振りに触れる氷河の手。
蛇の身体のように冷たいカタリン夫人のそれとは異なり、熱く血の通った氷河の手。
「無茶なんて言ってないよ!」
嬉しくて、瞬の声は弾む一方だった。
とはいえ、氷河と瞬が敵地――少なくとも味方の陣営ではない場所――にいることは、氷河の登場の前と後とで、実は何も変わっていなかったのだが。

騒ぎを聞きつけて、城内の他の兵や下男、小間使い、巨人や魔女までが、夜着のまま、その場に駆けつけてくる。
カタリン夫人が 彼等に自分たちを捕らえるように命じるようなことになったら、彼等を蹴散らさなければならないのか。
瞬は そうなることを案じたのだが、カタリン夫人は今はそれどころではないようだった。
「男……そんな……。ついに本当の美に巡り会ったと思ったのに……。これで私はやっと真の美しさと若さを手に入れられると思ったのに……!」
カタリン夫人には そのつもりはないのだろうが、ほとんど呆然自失の彼女の呟きが、瞬には自分を馬鹿にする言葉としか思えなかったのである。
一言 物申してやろうと、一歩 前に足踏み出した瞬を、氷河が引きとめる。
「我慢しろ。今は、これ以上 この女を刺激しない方がいい」

他人の若さや美しさを自分のものにできると本気で信じていたのなら、彼女は もともと狂っていたようなものだったろう。
ついに手に入れることができると信じた真実の美しさが 彼女の思っていたものと違っていたことに動転し混乱し、彼女は本当に狂いかけているのではないか――。
それを氷河は案じているようだった。

「無意味な怪我人は出したくない。こいつ等に下がれと命じろ」
氷河が努めて穏やかな声で、カタリン夫人に告げる。
氷河の落ち着いた声は、だが、かえってカタリン夫人を刺激し、その混乱を大きくしてしまったものらしい。
というより、氷河の落ち着いた声はカタリン夫人の神経に障り、彼女の中に怒りの炎を生むことになってしまったようだった。

「下がるな。逃がすな。私のものにできないのなら、美しさなど あっても無意味。ああ、いっそ殺してしまえ! 私のものにならないのなら、私より若く美しい人間など目障りなだけだ。消せ! この二人を消してしまえ。そんなものはあっても無駄だ!」
「で……ですが、奥方様――」
見た目だけならカタリン夫人より よほど不気味な印象の強い魔女が、彼女の女主人の命令に不服従の態度を示す。
半狂乱の女主人の命令に諾々と従うことを不安に思ったのか、あるいは、人を『殺せ』と命じられたのは これが初めてのことだったせいなのか。
いずれにしても、その場にいる魔女や巨人たちは、カタリン夫人に比べれば はるかに普通の感覚を持った人間であるようだった。
狂ったように叫ぶカタリン夫人の命令に従う者は、その場には一人もいなかった。

これならカタリン夫人が冷静になってくれさえすれば、一人の怪我人も出さずに この城を出ることができそうである。
そう瞬は思った。
問題は、どうすれば半狂乱のカタリン夫人に冷静になってもらえるかである。
「氷河……」
何か いい策はないかと、瞬は、自分の隣りに立つ氷河の顔を横目で見上げた。
そして、瞬は絶望的な気分になってしまったのである。
今 この場で最も冷静さを欠いている人間は、カタリン夫人ではなく氷河その人だということを知ったせいで。
『瞬を殺せ』というカタリン夫人の命令は、氷河を本気で怒らせてしまったようだった。
「氷河……あの……落ち着いて……」
氷河は、瞬が心配したほどには冷静さを欠いていなかったのだろう。
カタリン夫人当人の顔面にではなく、彼女の背後にあった壁に、その拳を撃ちつけていったところを見ると。

怒り心頭に発した氷河の渾身の力がこもった拳を撃ちつけられた壁が、地鳴りのような音を立てて崩れ落ち、続き部屋になっていた隣りの浴室が、瞬たちのいる部屋から丸見えになる。
二つの部屋を一つの部屋にしてのけた氷河は、懸命に怒りを抑えているのが わかる声で、カタリン夫人に尋ねた。
「貴様の そのツラも ぐちゃぐちゃにしてやろうか」
「ひぃ〜っ !! 」
カタリン夫人に まともな返事を求めるのは無理な相談というものだったろう。
化け物の仕業としか思えない氷河の乱暴に 仰天したカタリン夫人は、声とは言い難い悲鳴を喉の奥から絞り出すと、その場に尻餅をつき、そのまま全身を硬直させ、メドゥーサの首を見せられたピネウスのように動かなくなってしまった。






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