夜明けを待って、瞬と氷河はチェイテ城を出たのである。 どう見ても30歳以上に見える17歳の少女を伴って。 それが、血の伯爵夫人エリザベート・バートリの血を引くカタリン・ナダスティの最後の犠牲者だった。 60の老婆になる前にカタリン夫人の手から逃れられたことを、彼女が幸運と思っているのかどうかは、余人には察しかねたが。 「あのワインには、幻覚剤か精神弛緩罪の一種が入れられていた。常飲していると、自分の意思を持てなくなるようだ。さらわれた娘たちも、まず それで自分の意思を奪われて、あの女に抵抗することも逃げることもできなくなってしまったんだろう」 途中、30歳の少女を彼女の両親に預け、氷河と瞬は いったん 隣り村にある宿に戻ることにした。 その道すがら――はじめから察していたことではあったのだが―― 一連の吸血鬼騒動の犯人がカタリン夫人であることを、瞬は氷河から知らされたのである。 さらわれてきた娘たちの世話をし、怪しげな薬を作っていたのは あの魔女。 娘たちが城内にさらわれてきていることに気付いていた者は他にもいたのだろうが、その者たちも、カタリン夫人の絶対の権力の前では 気付いていない振りをすることしかできなかったのだろう。 証拠が必要なら、娘たちが さらわれた時に身に着けていた服や靴が城の地下のゴミ捨て場を漁れば出てくるだろうと、氷河は言った。 おそらく、そこまで踏み込んだ調査は行なわれないだろうと考えている口調で。 「そこまで突きとめていたのに、どうして僕に教えてくれなかったの」 瞬は、何よりも それが不思議で、得心できなかったのである。 カタリン夫人が どういう方法で娘たちの若さを吸い取っていたのか――などということより、氷河が彼の恋人を一人にし、秘密を作って不安にさせたことの方が、瞬には深い謎だった。 氷河が黙り込み、やがて吐き出すように言う。 「城の中を探って、女同士の まぐわいを見ていたなんて言えるか」 「え?」 「しかも、丸々5日間以上、ぶっ続けで」 「それって……」 氷河は言いたくなさそうだった。 心底から言いたくなさそうだった。 だが、それは言わずに済ませられることではない。 おそらく、真実を白日の 「最初の夜、城内を探るのは まずあの女が自分の部屋にいることを確かめてからと考えて、俺はあの女の部屋に様子を見に行ったんだ。そうしたら、そこで、あの女が どこぞの女と絡み合っていたんだ。そういう趣味だったのかと呆れて――道理で俺でなく おまえを変な目で見ていたわけだと納得した。あれが さらわれた娘だとは思わなかった。まじまじと見る気にもなれなかったし、さらわれた娘がこの城にいるとしたら、それは17の娘か 60の老婆だろうと思い込んでいたからな。まあ、これなら俺が多少 動きまわったところで感づかれることはないだろうと、城内を探りに出て、数時間かけて 怪しい薬やら何やらを見付けて、自分の部屋に戻るために城主夫人の部屋を探ったら、なんと あの二人、まだやっていた」 「あ……あの……」 「もし本当に ぶっ続けでやっていたのなら、聖闘士でもあるまいに体力が続くわけがない――普通は。だから、それはありえないと思っていたんだが、あの女たち、昼になっても部屋を出る気配がない。おまえに迫りにいくようなら防がなくてはなるまいとあの女の動向には注意していたんだが……絡み合いは その夜もまだ続いていた――」 「氷河、あの……」 「俺だって、そこまではしないぞ。そんなことがあるはずがないと――だから、慎重にも慎重を期してだな、2時間おきくらいに確認したんだ。食事、化粧、入浴と、おまえの様子を見にいく時、そして、おそらく週に一回の遠乗りの時以外、二人はずっとやりっぱなしだった」 「やりっぱ……」 それが事実なら、凄まじい話である。 他人の睦事を聞かされることへの羞恥心も生まれてこないほど。 「正直、吐き気がしたぞ。行為そのものはともかく、あの二人は 一日の大半をそれで過ごしていたんだ。呻き声と唸り声以外の会話もなく、まぐわい合って、まるで獣だ獣」 「あ……」 何と言えばいいのか――何も言葉が思いつかない。 言葉の代わりに瞬の唇から出てくるものは、ただただ空しい溜め息ばかりだった。 「とにかく、見付けてしまったからには、さらわれてきた娘をこの城に残してはいけないだろう。どうせ いずれは城外に放りだされるんだ。あの女のいない隙を狙って部屋に行き、何度も脱出するよう説得したんだが、薬で思考力が鈍っているせいで、全く要領を得なくて――」 「あ、それで、カタリン夫人の香水の匂いが……」 「香水?」 「あ、ううん」 詰まらぬ誤解をしたものだと、今なら思うことができる。 本当に、それは詰まらぬ誤解だったのだ。 「説得するために接触するたび、あの娘は 目に見えて歳をとっていった。10代の娘とは思えない やつれようで――まあ、普通なら体力が続かないからな」 「あの……でも、だったら、カタリン夫人だって、やつれるのが自然でしょう。カタリン夫人はなぜ若いままなの」 まさかカタリン夫人が本物の吸血鬼であったはずがない。 だが、吸血鬼でない者に、他人の若さを吸い取ることなどできるはずがない。 そんな力を持つ者は、アテナの聖闘士の中にもいない。 問題の核心を 瞬が氷河に問うと、氷河は その顔をますます不愉快そうに歪めた。 「あの女は、血ではなく精気を吸い取っていたんだ。より正確に言うなら、精気を吸い取っている気になっていた。カタリンは、バートリ家の近親結婚でできた異常性欲者だ。精力が有り余っている一種の病気だ。ニンフォマニア――いわゆる色情狂だな。若い女を引き込んで、昼夜の区別なく淫欲にふけっていたら、当然、普通の体力と精力しかない相手は衰弱し干からびていく。しかし、病気のあの女は、疲れもせず若いままだ。逆に体内に精力が満ちてくる。それを、あの女は 自分が娘たちの若さを吸い取ったのだと勘違いしたんだろう。若い女の身体を弄び、精気を吸い取り続けている限り、自分は永遠に若いままでいられると信じた――そういうことだ」 「……」 『そういうことだ』と言われても、どうすれば そんなことを信じられるのか。 それでも信じるしかない、この現実――。 「で、あの女は、若さを吸い取りきったら、老婆のような姿になった娘たちに 金や宝石を掴ませて城から追い出していたわけだ。命を奪わない分、大伯母よりは ましなのかもしれないが……。渡した金や宝石は口止め料のつもりもあっただろうが、むしろカタリンは本気で若さを買ったつもりでいたのかもしれない。正当な取引だから、自分に非はなく、訴えられるようなこともないと、本気で思っていたのかもしれない。実際には、それは一方的な押し売り ならぬ押し買いだったわけだが」 瞬は もはや言葉もなく、氷河の語る話に頷く力さえ湧いてこなかった。 「チェイテ城から村に帰った娘たちも、その親たちも、農奴の身では どうすることもできなかったんだろう。相手が悪すぎた。まさか領主である あの女に訴え出るわけには いかないからな。もし あの女が領主でなかったとしても――その筋に訴え出ても、それは 未婚の娘が純潔を汚されたことを喧伝してまわるようなものだろう。どうせ結婚もできない身体になってしまったんだ。吸血鬼に若さを奪われたことにしておいた方が、まだ聞こえがいい。手許には 一生食うに困らないほどの金や宝石もある。沈黙を守っているのが利口。そう考えたんだろう、犠牲者の娘も その親たちも」 「……」 「若さは手に入れた――手に入れたつもりになった。しかし、美しさは――若さゆえの美しさではなく、真の美しさは見付からない。あの女は焦っていただろう。いくら若くても美しくなければ――まあ、若いことにも意味がない。そこに理想の――理想以上の美少女が現れたんだ。おまえを見た時には、あの女は 狂喜しただろうな。まず邪魔な俺を薬漬けにして、既に さらってきていた娘から急いで若さを吸い取り、満を持して、おまえの篭絡に取りかかった。しかし、それが男だった。もともと半分狂っていたようなものだったろうが、やっと巡り会った真の美しさが 自分と違う性の持ち主のものと知らされて、その価値観が ひっくり返されてしまったわけだ。あの女は、若さを保つものは恋だと言っていたが……どうも あの女は 恋と淫欲を混同していたようだな」 「そうだね……」 チェイテ城を出る際 最後に見たカタリン夫人の虚ろな表情を、思い出したくないのに、瞬は思い出してしまったのである。 もともと狂っていたようなカタリン夫人。 そして、今度こそ本当に狂ってしまったような――意思も思考力も捨て去ってしまったような、生気のないカタリン夫人の虚ろな目を。 永遠の若さと美しさというものは、それほど――自分以外の人間を犠牲にしても構わないと思えるほど――価値あるものなのだろうか。 若さと美しさが自分のものにならないことは、それほど――自分のものにできないことに衝撃を受け 正気を失ってしまうほど――つらく苦しいことなのだろうか。 カタリン夫人の気持ちが、瞬には全く わからなかった。 瞬には、そんなことより、氷河の心が自分から離れていくことの方が はるかに つらく苦しいことだったから。 「でも、僕、教えてほしかった。氷河が何も言ってくれないから――氷河が 僕に会いに来てくれなくなって、僕に触れてくれなくなって、それで、だから、僕、氷河がカタリン夫人に取り込まれてしまったんじゃないかって疑心暗鬼に陥ってたんだよ」 「そんな馬鹿な心配をしていたのか? おまえがいるのに、なんで俺があんな不気味な女に」 「だって……だって、あの人は女性だもの……」 その事実を、これまで瞬が負い目に思わずにいられたのは、そんなことを負い目に思っている余裕もないほど、氷河が熱烈に瞬を求めてくれていたからだった。 そうだったのだと、瞬は今 初めて気付いた。 決して氷河の心を信じていないわけではないのだが、人の心は 永遠に変わらないものではない。 が、氷河が瞬には何も知らせずに一人で事を進めていたのには、氷河には氷河の考えと都合があったせい――だったらしかった。 「俺だって、おまえに秘密は持ちたくなかったんだぞ。だが、言えなかったんだ。事実の確認のためとは言え、四六時中、あの女の寝室の壁に へばりついて女同士の乳繰り合いを覗いていたなんて、そんなことを正直におまえに打ち明けたりしたら、おまえに変質者と思われるだろう。それに……」 「それに?」 「言いたくなかったんだ。その……そういうことを やりすぎると若さを失うなんて おまえが俺とのことを嫌がるようになったらと思うと、おまえに安易に知らせるわけにはいかなかった」 「度が過ぎなければいいんでしょう?」 「それはそうだが――」 「僕たち、度が過ぎてるの?」 「一般人に比べると……」 つい正直に本当のことを口にしかけ、氷河は慌てて正直者でいることを中断したようだった。 取ってつけたような笑みを顔に貼りつけ、その場をごまかそうとする。 「だが、俺たちは聖闘士だ。体力も気力も常人の数倍はあるわけで――」 「言い訳なんか しなくてもいいよ」 「言い訳などでは――」 氷河は実際、言い訳を言っているつもりはなかったのだろう。 だが、それは言い訳にとられても仕方のないことと思ったらしく、そのまま口をつぐむ。 そして何事かを考え込む素振りを見せてから、彼は思いがけない方向から 瞬に攻勢をかけてきた。 「おまえと そういう仲になって しばらく経った頃、俺は、おまえには気をつけろと、冗談交じりに紫龍に言われた」 「え?」 「おまえは生まれつき吸精導気のわざを身につけているのかもしれないと」 「きゅうせいどうき――って何?」 「明の国に春秋時代から伝わる 伝説の閨房術らしい。男の陽の気を吸い取って、若さと美しさを保つ術だそうだ。おまえが どんどん綺麗になっていくから、奴も そんなことを考えたんだろう」 「……」 それはカタリン夫人が身につけていた(と彼女が思い込んでいた)わざのことではないか。 窮余の一策だとしても、いったい氷河は何を言い出したのかと、瞬は少々 呆れてしまったのである。 「紫龍って、本当に詰まらないことを知ってるね。それは怪しい閨房術なんかじゃなく、恋の魔法だよ。僕は早く強い大人になりたいって願ったことはあっても、いつまでも若いままでいたいと思ったことはない。だいいち、僕だけ若いままでいても、氷河がおじいちゃんになっちゃったら、何にもならないじゃない」 「それはそうだが……そうなのか?」 「そうだよ。だからもう、馬鹿なことを言うのはやめて。氷河が変な心配しなくても、僕は氷河に抱きしめてもらうことが大好きだよ」 「ほんとかっ!」 瞬が にっこり笑って そう言うと、途端に氷河は嬉しそうに明るく瞳を輝かせた。 まるで正直すぎる子供のように。 氷河の瞳は、カタリン夫人のそれとは 全く対照的だった。 おかげで、瞬は、チェイテ城に残してきたカタリン夫人の虚ろな瞳を忘れることができたのである。 永遠の若さなど求めても無意味。 充実した生、充実した時間を生きることでしか真の若さは保てないのだ――と。 |