マリッジ・ブルー






今にして思えば、その頃から、氷河の様子はおかしくなったのだった。
沙織の許に 一通の結婚式の招待状が届いた頃から。
ちなみに、その招待状の差出人は、四菱トータル・ソリューション・ビジネス社社長と、杉上フィナンシャルグループ名誉会長の連名。
もちろん結婚式の招待状に その肩書きは記されていなかったのだが、要するにそれは四菱トータル・ソリューション・ビジネス社社長令息と杉上フィナンシャルグループ名誉会長令嬢の華燭の典への招待状だったのである。

「仏滅のジューン・ブライドって、最悪じゃねーか?」
その招待状に記されていた式の日取りを知らされた星矢が 開口一番にそう言ったのは、昨年の12月中旬。
なにしろグラード財団総帥が招待されるような結婚式である。
他の招待客も推して知るべし。
スケジュール調整の難しい政財界のお偉方を招待する都合上、その招待状は式の半年も前に発送されたのだろう。
そして、その招待状を見た沙織は、自身のスケジュールの確認もせず、その場で出席を決めた。
普通なら、まずあり得ないことである。
星矢が――他の青銅聖闘士たちも――そのあたりの事情に興味を抱くのは、ある意味 当然のことだった。

「確か、欧州では6月がいちばん雨の少ない季節なんだろ? だから、6月に結婚式を挙げる奴が多いんだろ? でも、日本で6月後半つったら、もろ梅雨の真っ只中じゃん。この日本で6月に結婚式を挙げようなんてこと考える奴の気が知れねーぜ」
今日 初めて その名を聞いた沙織の友人――杉上フィナンシャルグループ名誉会長令嬢――が、いつ どこで誰と結婚式を挙げようと、そんなことは星矢の知ったことではなかった。
星矢が 梅雨の季節 真っ只中に挙げられる結婚式に いちゃもんをつけたことには、ゆえに全く他意はなかった。
星矢は、完全な部外者として、完全に無責任な意見を述べただけだったのである。
もっとも、友人の慶事に要らぬクレームをつけられた沙織は、少々機嫌を損ねたように僅かに顔をしかめたが。

「そういう説があるのは知っているけど、欧州で6月の花嫁が幸せになれると言われているのは、気候だけの問題じゃないのよ。6月の『ジューン』は、ローマ神話のジュノーの名前からつけられた名なの。つまり、ギリシャ神話のヘラね」
「ヘラって、アテナとアフロディーテと黄金のリンゴを争った女神様かよ?」
「あら、そういうことだけは知っているのね。ええ、そのヘラ。ヘラは結婚と母性、貞節を司る女神よ。だから、そのヘラに由来する6月に結婚する花嫁は幸せになると言われているわけ」

最も美しい女神に与えられる黄金のリンゴ争奪戦で、アテナはヘラと共に アフロディーテに敗北を喫した。
あまり楽しい思い出とは言えないだろう過去の出来事に言及されたにもかかわらず、アテナがその件に関して不快の念を示さなかったのは、彼女が その後のトロイ戦争で 既にアフロディーテへの意趣返しを済ませていたからだったのかもしれない。
美しさを競う戦いと 知略を争う戦いでは、後者の方が アテナには より重要で負けられない戦いだったに違いない。
事実そうなのかどうかを、星矢は今は確かめようとは思わなかったが。
今 問題なのは、アテナにとって より重要なのは美か、それとも知略なのかということではなく、日本で梅雨の季節に執り行われる結婚式の良否なのだ。

「でも、結婚するのは日本人で、場所は梅雨時の日本。その上、式当日は仏滅なんだろ」
賢い人間なら自分の結婚式を挙げるのに そんな季節は選ばないし、縁起を担ぐ人間なら そんな日取りは選ばない。
沙織が招待状を見るなり出席を決めた式の新婦は、では いったいどういう人物なのか。
星矢の関心は、沙織の友人だという新婦の人となりに向かっていた。

「仏滅は結婚式場の料金が安くなると聞いている。だからなのではないか」
「さすがに それはないんじゃないかな。沙織さんを招待するような式を挙げる家のご令嬢が、結婚式場の料金が割安だからなんて、そんな理由で わざわざ式の日取りを仏滅に選んだりするとは思えないよ」
紫龍が口にした一つの可能性を、瞬が やんわりと否定する。
否定する瞬の声の音量が小さく抑えられていたのは、紫龍の推察が 日本有数の富豪にとっては大変な侮辱になるのではないかと案じたからのようだった。
四菱トータル・ソリューション・ビジネス社社長や杉上フィナンシャルグループ名誉会長が聞いているわけではないのにと、無意味なことを案じている瞬に、星矢は苦笑いをした。
その苦笑が、
「紫龍、鋭いわね」
という沙織の一言によって、瞬時に固まる。
「へっ」
星矢は、しゃっくりの なり損ないのような音を喉の奥から洩らし、そして目を丸くした。

沙織が 冗談のつもりで そう言っているのなら、それは庶民には笑えない冗談である。
四菱トータル・ソリューション・ビジネス社社長の四菱家、杉上フィナンシャルグループ名誉会長の杉上家という両名家に失礼であるし、何より その冗談を言っているのが四菱家・杉上家に勝るとも劣らない名家の令嬢(であるはずの)城戸沙織であるという点で、その冗談は冗談になり得ないものだった。
言ってみれば それは、予算の都合で料金の安い仏滅に挙式しなければならないこともある庶民への侮辱である。
侮辱でないなら嫌味である。
ケチる必要のない金を 日本有数の富豪の令嬢令息が庶民のようにケチることは、庶民の必死の節約節制を侮辱する行為だと、星矢は――そして、その場にいた青銅聖闘士たちは――思ったのだった。

しかし、沙織は至って真面目な顔をしていた。
至極真面目な顔で、かつ 自信に満ちた口振りで、
「もちろん、式場の料金が安いから仏滅に挙式するのよ。当然でしょう」
と、世界に冠たるグラード財団総帥は 彼女の聖闘士たちに言い切ったのだ。
「当然……って、沙織さんのお友だちの新婦さんは 杉上フィナンシャルグループ名誉会長の娘さんなんでしょう? 杉上家の個人資産は3000億円を超えているっていう話を聞いたことがありますけど」
「ええ。新婦の幸代さんは、投資の女王と言われた杉上福子の孫娘。お父様は杉上フィナンシャルグループ名誉会長。幸代さん自身も30歳の若さで既に ネット通販で業績を伸ばし続けている杉上損害保険の専務取締役よ」
「……」

問題の結婚式が、日本有数の富豪の令息と令嬢を結びつける式典だという認識は、やはり誤りではないらしい。
では、日本有数の富豪の令息と令嬢が 自分たちの結婚式の日に、安い料金目当てに あえて仏滅を選んだという沙織の推測もまた 正鵠を射たものなのか――。
だが、いったい何のために?
瞬には、日本有数の富豪の令嬢令息の考えが全く わからなかった。

「そんな大金持ちが、式場の料金割引率なんかを気にするのかよ?」
口をきけなくなった瞬の代わりに、星矢が沙織に お伺いを立てる。
沙織は梅雨の明けた初夏の青空のように晴れ晴れとした表情で、至極あっさりと頷いてくれた。
「もちろん、気にするわよ。金持ちが金持ちなのは、無駄なことに金を使わないからよ。同じ商品を、大安に買えば100万、仏滅に買えば50万だというのなら、仏滅に買うのは当然のことでしょう。彼女は、意味のない縁起をかついだり、一生に一度のことだから 金に糸目はつけずに盛大な式を挙げようなんて たるんだことを考える庶民とは訳が違うの。そういうことを考えるから庶民は 資産を増やせないのよ。仏滅の挙式で浮かせた50万を どうやって500万に増やすかを考えるのが資産家という人種」
「……」

星矢たちは、今現在、グラード財団総帥の私邸を住まいとし、いかなる不自由を感じることもない生活を送っていた。
だが、だからといって、庶民の心を忘れたわけではない。
星矢たちの その庶民の感覚では、式場の料金の支払いに窮するわけでもない金持ちが 一生に一度の式場代をケチることは、どうしてもどうしてもどうしても 庶民への皮肉か嫌味か嫌がらせとしか思えなかった。
自信満々の沙織の発言に、青銅聖闘士たちが 揃って微妙な顔になる。

「では、沙織さんのご友人が 式の日に仏滅を選んだのは、本当に結婚式場の料金が安くなるからなんですか」
そう沙織に尋ねる紫龍の声は、ひどく疲れていた。
「当然、仏滅割引狙いよ。そんな彼女がいったいどんな式を挙げるのか、好奇心を抑えられないから、私も 万難を排して彼女の結婚式に出席したいと思うわけ」
紫龍とは対照的に、沙織の声は元気そのもの。
そして、沙織の元気が、更に紫龍の心身から力を奪っていった。
「はあ……」
「彼女のことだから、披露宴会場にパソコンと大型プロジェクターを運び込んで、式の最中でも随時 株価のチェックができるサービスの提供くらいはするでしょうけど、それだけで終わるとは思えないのよね。彼女自身、人脈拡大を狙って、本来なら挙げる必要のない式なんかを挙げる気になったんでしょうし、きっと何かをしでかしてくれるわ」

対峙する敵から小宇宙を吸い取る蜘蛛座の白銀聖闘士アラクネの技。
対峙する敵を石に変えてしまうペルセウス座の白銀聖闘士アルゴルの技。
青銅聖闘士たちは今、アテナによって それらに類する技を仕掛けられているような錯覚に襲われていた。
アテナの小宇宙は いつも通り、優しく強く温かいものだというのに。

「……披露宴会場で株価チェックかよ」
紫龍同様、星矢の声は かなり疲れていた。
「もちろん お式の招待客は ほとんどが企業や団体の経営陣で、実際に売り買いの実務を行なうトレーダーなんかは招待されてはいないでしょうけど、株価の上下も歓談のネタにはなるでしょうし」
「場合によっちゃ、険悪な雰囲気になる心配もありそうだけど……」
「彼女の式に招待されるような人たちは、自社の株価の上下なんて、そんな小さなことは気にしないわよ。気にしなきゃならないような人は、そもそも他人の結婚式に出ている余裕なんかないでしょうし」
「それはそうかもしれませんが……」
瞬も、今は ただ相槌を打つことしかできない。

「いずれにしても、出席する価値のある結婚式だわ。彼女なら、100万円のご祝儀を出した出席者への引き出物を 500円の皿一枚で済ませるなんてことも、きっと平気でしてくれると思うわ」
「100万円のご祝儀に500円の皿の引き出物か。まあ、100円の皿でないだけ ましなのかもしれんが……」
そう ぼやく氷河の声には、瞬たちに比べれば まだ少し力が残っていたかもしれない。
もっとも、僅かに残っていた彼の力も、
「いくら彼女でも、そこいらの100円ショップで売っている皿を引き出物に使うようなことはしないわよ。そういうのって、安上がりなだけで、どんな益ももたらさないでしょう。多分、お皿に新郎新婦の会社の社章か、取り扱っている商品のキャッチコピーを印刷するくらいのことはするでしょう。幸代さんなら さしずめ、『お客様満足度ナンバー1 杉上損害保険』とか『売り上げ3年連続ナンバー1 杉上損害保険』あたりかしら」
という沙織の推察によって、完全に消滅してしまったが。

「料理の質を落とすことはしないと思うの。彼女は、食事を無駄なものと考える人ではないから。彼女が無駄無意味と考えるのは 引き出物よ、やっぱり。彼女が何かしでかすなら、引き出物」
青銅聖闘士たちには もはや言葉を発する力も残っていなかったが、沙織は どこまでも楽しそうだった。
とはいえ、ここであっさり敗北を認めてしまったのでは、不屈の闘志を誇るアテナの聖闘士を名乗る資格がない。
そして、神の持つ強大な力に屈したかに見えた青銅聖闘士たちの中で 最初に再び立ち上がったのは、伊達に主人公を張っているわけではない天馬座の聖闘士その人だった。

「でも確かに、考えようによっちゃ、最高に面白いイベントではあるよな。ちょっとくらいなら覗いてみたい気もするし。その結婚式、俺たちも紛れ込めねーかな」
星矢のそれは もしかしたら、不屈の闘志ではなく、危険なものに心惹かれる聖闘士のさが、もしくは 人類を永遠に発展させ続ける好奇心、あるいは 単なる野次馬根性――によるものだったかもしれない。
それが野次馬根性ではなく不屈の闘志が生んだ望みだったとしても、沙織の答えが変わることはなかっただろうが。

「馬鹿なこと言わないで。彼女は、引き出物はケチっても、会場の警備やセキュリティ保護のための出費を惜しむような人ではないわ。招待されてもいない人間が会場に紛れ込むのは無理な話よ」
「なんだよ、ケチくせーなー」
ケチくさくないから招かれざる客は式場に紛れ込めないと 沙織は言っていたのだが、星矢は日本有数の富豪の令嬢の寛大さの欠如を ケチとののしり、不満そうに口をとがらせた。
そんな星矢に、瞬が、
「僕たちの中では、やっぱり紫龍がいちばん最初に お嫁さんをもらうことになるのかな。どう思う、星矢?」
と問いかけて 話を別方向に逸らしたのは、不屈の闘志で復活を果たした星矢が、『何が何でも、その式を見物したい』と言い出す事態を防ぐためだったろう。
顔も知らない日本有数の富豪の令嬢の結婚話より、身近な人物の結婚話の方が盛り上がるのは、ある意味 自然なこと。
そうして。
瞬の思惑通り、その場の話題は青銅聖闘士たちが年貢を納める順番へと、無事に移っていったのだった。






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