そんなやりとりがあったことはあった。 確かにあった。 だが、問題の(?)式は半年も先のこと。 当然のことながら、青銅聖闘士たちはケチな大富豪令嬢の華燭の典のことは徐々に忘れていった――というより、彼等は その結婚式のことを ほとんど記憶に留めなかった。 だから、星矢たちは気付かなかったのである。 氷河の様子がおかしくなり始めたのは、沙織が一通の招待状を受け取った日以降だったということに。 それ以前に、氷河がおかしくない男ではなかったせいもあって。 そもそも星矢たちは、氷河がおかしくなったことに しばらく気付かずにいたくらいだった。 クールに戦うことを決意した その数分後に大袈裟に動揺し流涕してみたり、奇矯な振り付けのダンスを奇矯と思わず真顔で踊りきってみせるような おかしな男が、突然 何の脈絡もなく『結婚は人生の墓場だ』と ぼやくようになったとしても、それは、元から おかしかった男が更に おかしくなっただけで、特段 案じるようなことではないだろうと、星矢たちは思っていたのである。 彼等が、氷河の様子のおかしさに 本格的に(?)気付いたのは、放浪癖のある瞬の兄が 前触れもなく ふいに城戸邸に帰ってきた日。 氷河の“結婚は人生の墓場だ”攻撃が、一輝の登場によって一気に激化したことが きっかけだった。 すなわち、氷河の“結婚は人生の墓場だ”攻撃のターゲットが一輝一人に特化されたことが。 それまでは、数ヶ月振りに一輝が仲間たちの許に戻ってきても、『久し振りだな』どころか『こんにちは』の一言も言わないほどだったのに、顔が合っても 用があっても全く口をきくことがないくらいだったというのに、氷河は突然 一輝に―― 一輝だけに――執拗に絡むことを始めたのである。 しかも、その絡み方は、実に奇妙――むしろ不可解――なものだった。 朝の挨拶は、『おはよう』ではなく、 「結婚は人生の墓場だ。貴様、そこいらを ふらふらして、安易に女を作ったりするんじゃないぞ。ろくでもない女を掴まされたら、男子一生の不作だ」 食事の際の挨拶は、『いただきます』ではなく、 「人間は判断力の欠如によって結婚する。自分を理性ある人間と思うなら、貴様、いついかなる時も真っ当な判断力を保てよ」 一輝が 彼の留守中の様子を瞬に尋ねると、 「そう言えば、男の精神疾患患者は、婚約期間中と結婚初期に最も多く発生するんだそうだ。貴様のブラコンは それでなくても少々病的なんだ。普通の人間の2倍も3倍も気をつける必要がある」 夜は『おやすみ』の代わりに、 「ああ、そういえば、『神が同棲を発明した。悪魔は結婚を発明した』という格言もあるな」 他にも、氷河は言いたい放題だった。 「女はよくない。特に結婚などしてしまったら最悪だ。後顧に家庭なんていう憂いがあると、男は戦いに命をかけることを躊躇せずにはいられなくなるだろう。俺は、フェニックス一輝が家庭のために命を惜しむ様など見たくはないぞ」 「へたに家庭第一主義の女に捕まると、おまえは 今のように好き勝手にふらふら放浪していることもできなくなるだろう。戦いより家庭を重視することを求められ、最強の鳳凰座の聖闘士がマイホームパパに成り下がるしかなくなるんだ。女は 男のロマンも男の美学も解さない。そんなものを追求している暇があったら、燃えないゴミでも出してこいってなもんだ」 『女を作るな』と、あまりに氷河がしつこいので、うんざりした一輝が、 「男なら作ってもいいのか」 と訊くと、 「男? まあ、それなら問題はないな」 という答え。 氷河の主張は、つまり、『女を作り、結婚をするな』ということで、『恋をするな』ということではないようだった。 氷河の仲間たちは当然、そんな白鳥座の聖闘士の言動に呆れ、戸惑い、怪訝に思うことになったのである。 特に瞬は、兄に執拗に絡み続ける氷河の態度に困惑することになった。 なにしろ瞬は これまで、兄に対する氷河の よそよそしい態度を案じたことはあっても、久し振りに帰ってきた兄を氷河に取られて(?)やきもきした経験など皆無だったのだ。 氷河が兄に積極的に話しかけていってくれることは嬉しい。 だが、そのせいで自分が兄とゆっくり語らう時間を失うことは少々不本意――否、その状況の不自然に感じずにいられない違和感に、瞬は困惑させられていた。 「氷河はどうして急に あんなこと言い出すようになったの。氷河って、あんなにその……女の人が嫌いだったっけ?」 「氷河が女嫌いってことはないだろ。女が嫌いだって言ったら、マーマを否定することになるんだから」 「そうだよねぇ……」 星矢の言う通りである。 瞬も そうだと信じていた。 氷河は、青銅聖闘士たちの中でいちばんの女性性の信奉者、母性の崇拝者だと。 そうだと信じていた氷河が、家庭や女性を頭から否定するような発言を重ねることに、瞬は合点がいかなかったのである。 しかし、星矢の引っかかりポイントは、瞬のそれとは微妙に異なっていた。 「氷河がどんな持論の持ち主でも、俺は別に構わないんだけどさ。なんで、氷河の“結婚は人生の墓場”攻撃のターゲットが一輝なんだ? 一輝って、結婚なんて制度から いちばん遠いところにいるような奴じゃん。仲間が人生の墓場の住人になることを防ぐのが目的ならさ、俺なら まず紫龍に忠告するぜ?」 「そうだよね。僕でもそうするな。目的がそういうことなら」 「だろ? なのに、氷河はそうしない。奴は、紫龍を飛び越して一輝に攻撃を仕掛けてる。てことは、氷河の目的は、仲間を人生の墓場の住人にしないことじゃなく……そうだな、より確実な独身仲間を作ることとかなのかな」 「より確実な独身仲間だなんて――」 瞬は、星矢のその推察には賛同しかねた。 なぜ氷河が より確実な独身仲間などというものを求めなければならないのか。 星矢は 氷河が一生 独身でいるものと決めつけているようだが、その前提自体が間違っていると、瞬は思わないわけにはいかなかった。 「氷河が家庭的だとは、僕も言わないけど……。氷河は申し分のない容姿の持ち主だもの、女の人が放っておかないでしょう」 墓場の住人になることを案じるなら、兄よりも むしろ氷河。 そう瞬は思っていたのである。 瞬のその意見に異議を唱えてきたのは、仲間内で“最も結婚に近い男”と目されている某龍座の聖闘士だった。 「いや、女性というものは男などより はるかに現実的で堅実かつ実利的だぞ。女性は、対峙する男が 結婚向きな男か そうでないか、家庭向きな男か そうでないかをシビアに見極める。いくら顔がよくても、経済力や安定性に欠けた男は、至極クールに その候補から外される。そして、氷河は結婚にも家庭にも全く向いていない男だ。奴のマザコンも、結婚という事業に関しては大きなマイナス要因になる」 「そんな……」 最も結婚に近い男が口にする言葉には重みがある。 紫龍にそう言われると、瞬も、自分の認識を改めなければならないような気にさせられた。 「じゃあ、やっぱり、氷河が一輝に絡む目的は より確実な独身仲間確保なんじゃないか? 他に それらしい理由も考えられないし」 「しかし、独身も何も、俺はてっきり氷河は……」 言いながら、紫龍が、その視線を瞬の上に移動させる。 不可解な氷河の言動への困惑で瞳を揺らしている瞬の顔を数秒 見詰め、紫龍は結局 彼が言いかけた言葉の続きを口にするのをやめてしまった。 代わりに、 「ここで俺たちが あれこれ論じていても、事実には辿り着けまい。なぜ氷河が急に結婚否定論者になったのかは、直接 奴に確かめるのが いちばん手っ取り早いような気がするな」 と、実に尤もな提案をする。 それもそうだと、氷河を捕まえるために星矢がラウンジを飛び出していったのが、その10秒後。 更に その5分後に、彼が仲間たちの待つラウンドに持ち帰ってきたものは 氷河の身柄ではなく、氷河の執拗な“結婚は人生の墓場”攻撃に音をあげた一輝が城戸邸から逃亡したという情報だった。 「そんな……。僕、兄さんとまだゆっくり話もできてなかったのに……」 兄の兄らしくない敵前逃亡を瞬は嘆いたが、平和は敵と戦い 敵を打ちのめすことによってのみ もたらされるものではない。 一輝の判断は、この場合、おそらく最も適切で賢明なものだったろう。 なにしろ、一輝の姿が城戸邸から消えた途端に、氷河の“結婚は人生の墓場”攻撃は ぴたりと止んでしまったのだ。 同じ攻撃を、氷河は他の仲間たちに仕掛けることはしなかった。 けろっと 何事もなかったかのように、氷河は 以前の、普通におかしい通常モードの彼に戻ってしまったのである。 せっかく沈静化してくれた騒ぎを蒸し返し 新たな騒乱を招くことは、できれば避けたい。 そう考えた星矢たちは、氷河に 彼の奇天烈な言動の訳を尋ね確認することをしなかった。 氷河の“結婚は人生の墓場”攻撃は なぜ開始されたのかという謎は、そうして結局 うやむやのまま解明されることなく、事態はいったんの収束を見たのである。 それを青銅聖闘士たちの怠惰怠慢と責めるのは酷なことだろう。 なにしろ、たとえ筋金入りの独身主義者でも 氷河の“結婚は人生の墓場”攻撃に身をさらされることは避けたいに違いないと確信できるほど、氷河の攻撃は苛烈執拗なものだったのだ。 それは致命傷を与えられないボディブローの連続、永遠にアンタレスを打ってもらえないスカーレットニードル。 不死身を旨とする一輝が敵前逃亡を図るほどの力を備えた技なのである。 誰も、自ら進んで その攻撃に我が身をさらしたいとは思わないだろう。 星矢たちが事態を ――しかし。 |