エティオピア宮廷の者たちは皆、不安がっていた。 もちろん、氷河王子の人となりを知っているせいで。 エティオピア宮廷内で落ち着きを保っているのは、海魔カイトスの生贄に捧げられる瞬王子だけだったかもしれない。 瞬王子が、自身の上に降りかかった理不尽な神託に憤る様子も 嘆く様子も 取り乱す様子も見せずにいることが、氷河王子のせいで不安を募らせているエティオピア宮廷の者たちの心を 僅かなりとも慰めていた。 メネアの獅子懐柔以後も、瞬王子は幾度か氷河王子と共に怪物退治を成し遂げていた。 その実情は、瞬王子が怪物退治のために城を出ると、どこで その情報を聞きつけてくるのか氷河王子がやってきて、瞬王子につきまとい、勝手に力を貸す――というものだったらしいのだが、ともかく、一輝国王が 氷河王子につきまとわれている弟の身を案じて 瞬王子が一人で城を出ることを禁じるまで、二人は共に戦う機会が幾度もあったのだ。 氷河王子の戦い振りと その実力を、瞬王子は エティオピア宮廷の誰よりも よく知っている。 その瞬王子が落ち着いているのだから――そう考えて、エティオピア宮廷の者たちは胸中に生まれる不安を必死に打ち消そうとしたのである。 能天気に浮かれて瞬王子に近付こうとしてはシルビアンに追い払われている英雄の姿を見るにつけ、彼等の胸中には また新たな不安が生まれてくるばかりだったが。 人の心が迷っていても、落ち着いていても、不安に囚われていても、時間は いつも通り 落ち着き払って流れていく。 エティオピアの人々が不安を払拭できずにいるうちに、神託の時はやってきた。 快晴。 定刻の正午前に、海岸近くに住んでいる民は避難済み。 漁師たちの船も、生贄の岩場近くには一艘も浮かんではいなかった。 「神々の神託に従い、エティオピア国王とエティオピア国民に最も愛されている者を、神々に捧げます」 数百年前にアンドロメダ姫が捧げられたという生贄の岩場に、瞬王子の両手が鎖でつながれる。 神官が 神々に そう宣言することで、エティオピア王国に下された神託の実行は完了した。 これで、エティオピア王国は、神に命じられたことを遂行し、その責任は果たされたことになる。 神託は実行されたのだから、この後に何が起ころうと、それはエティオピア王国のあずかり知らぬことで通すことができるのだ。 エティオピア王国には神への叛意がないことを示すため、一輝国王や王国の廷臣たちは、鎖につながれた瞬王子と 外国人である氷河王子をその場に残して浜から離れ、あとは海魔カイトスの出現を待つばかりとなった。 「本当に大丈夫なんでしょうか。かのアンドロメダ姫救出の際、ペルセウスはどんな化け物も石にしてしまうメデューサの首を持っていたので、海獣を倒すことができたと聞いています。ですが、氷河殿は手ぶらのようで」 生贄の岩場の様子を確認できる岬の端に立つ一輝国王に、侍臣の一人が不安そうに尋ねる。 彼の指摘通り、氷河王子は、メデューサの首どころか短剣ひとつ手にしていなかった。 全くの丸腰で、彼は岩場につながれた瞬王子の脇に立ち、のんきそうに沖を眺めている。 時折 瞬王子の手や腕に触れるのは、鎖につながれた瞬王子の身を案じているからのようだったが、氷河王子の望みを知る者たちには、それが彼の助平心の発露にしか見えない。 鎖でつながれるのが瞬王子の腰や足でなくてよかったと、こんな時に、一輝国王や彼の侍臣たちは思っていた。 氷河王子の助平心のせいで、今ひとつ緊迫感が感じられない晴れた昼下がり。 沖はまだ静かだった。 「あれは、どうしようもない大馬鹿者だが、決闘と化け物退治にかけては天才的な才能を持っている。倒すと決めて倒せなかったのは、シルビアンくらいのものだろう。大丈夫だ。我々は、そのあとの対策を考えておかねばならん。どんな詭弁を用いても、瞬を あの馬鹿の手に委ねる事態だけは避けなければ」 「瞬様を妻に望むなど――まあ、その お気持ちはわからないでもありませんが、実に非常識な王子様ですな」 一輝国王の周囲で、あちこちから嘆かわしげな溜め息が起こる。 海魔カイトス退治より、退治成ったあとの処理の方が難題。 一輝国王が氷河王子による瞬王子救出の成功を信じているらしいことが、彼の廷臣たちを安堵させ、そして憂鬱にしていた。 |