「氷河も……戦えなくなっているみたい」
「みたい?」
「あ……あの……」
歯切れが悪くなった瞬の顔を、氷河が覗き込んで確かめようとする。
瞬は氷河の胸に頬を強く押し当てて、氷河の視線から逃れた。
「小宇宙が燃やせなくなっていても 何かできることがあるはずだから 敵の許に向かおうって、僕が言っても、氷河は面倒くさがって寝てばかりいるの。僕がどんなに頼んでも起きてくれない」
それが嘘なのか、あるいは嘘ではないのか。
瞬には――瞬自身にもわかっていなかった。
夢の中の“あの世界”のありようを、瞬は知り尽くしているわけではなかったから。

嘘なのか嘘ではないのかが定かでない その説明は、だが、氷河には すんなりと受け入れられるものだったらしい。
彼は苦笑しながら、瞬の夢に対する意見を述べた。
「実に俺らしいな」
と。
瞬は――むしろ、瞬の方が――氷河のその発言を受け入れることができなかったのである。
「そうかな……。僕は、氷河らしくないと思う」
「俺はアテナの聖闘士として、さほど勤勉な男ではないぞ」
氷河が そう言って、瞬の髪に唇を押しつけてくる。
「俺は、叶うことなら、戦いなんて放っぽって、毎日――いつも、いつまでも、おまえを抱きしめて暮らしていたい。それが叶っているのなら、夢の中の話でも結構なことだ」

それが氷河の心からの願いだということを、瞬は疑わなかった。
同じ願いを、瞬自身が その胸中に抱いていたから。
ただし、その願いには絶対に満たされていなければならない前提条件がある。
『アテナの聖闘士が戦う必要がないほど、平和な世界が実現している』という条件。
そして、瞬は――おそらく、氷河も――その条件が完全に満たされることは永遠にないという現実を知っていた。

『いつも、いつまでも、抱きしめ合っていたい』
もちろん、本心から、そうであればいいと望んでいる。
だが、本気で望んでいるわけではない。
瞬と氷河にとって、それは そういう願いだった。
まさに夢の中ででしか望めないような望み。

「で? ぐうたらな俺は、そのあと、おまえをベッドに引き込むんだろう?」
夢の中の話だから――氷河が笑いながら尋ねてくる。
瞬は、笑うことができないまま、
「そうなる前に目が覚めたから、わからない」
と答えた。
もちろん、嘘ではない。
「夢の中の俺は悠長な男のようだ。確かに夢だな」
瞬の答えを聞いた氷河が、軽く肩をすくめる。
そして、彼は、考えようによっては奇妙な――矛盾した言葉を 一人ごちるように呟いた。
「夢で叶わない分、現実世界で実行するか」

『いつも、いつまでも、抱きしめ合っていたい』
それは、夢の世界ででしか叶うことのない、まさに“夢”。
だが、『たった今、抱きしめ合う』ことは、現実世界ででしか叶わないことなのだ。
現実は一瞬で、夢の世界は永遠。
しかし、永遠というものは、一瞬が積み重なってできるもののはず。
氷河と抱きしめ合うことのできる今という一瞬がない夢の世界は――“あの世界”は――いったい何なのか。
それは、永遠に希望のない無明の世界なのではないのか――。

真面目に考え始めると、ろくな答えに行き着かない。
それは考えること自体が危険なことだ――。
瞬の直感は、瞬に そう警告を発し始めていた。
まるで その時を見計らったように、瞬の危険な思考を遮るように、氷河が、不安で冷え切っていた瞬の身体に氷河が手を伸ばしてくる。
恋人の身体を愛撫するという明確な意思を持った氷河の手に触れられ、その感触に、瞬の意識は 一瞬 ふっと途切れた――危険な思考は中断された。

氷河に触れられた途端、彼に触れられた場所に 瞬の身体は熱を生んだ。
氷河の手も熱いが、瞬の身体が持つ熱は 氷河の熱さを奪い取ったものではない。
それは、氷河の手の熱さが刺激になって、瞬自身の身の内から生まれてくる熱だった。
氷河の手に触れられた身体のあちこちが熱を持ち、氷河の丹念な愛撫によって、その熱は やがて瞬の全身に広がり、すべてを覆い尽くす。
「ああ……」
瞬の身体が熱の塊りになった頃、瞬よりもっと熱いものが瞬の中に入ってきた。
もちろん、瞬の身体は そこにも熱を生み始める。
そうして、二人の身体は 痛いほど熱くなっていった。
どちらが より熱いのかが わからなくなるほどに。

瞬は いつも その時には氷河を熱いと感じるが、二人の身体が つながってしまうと、氷河も必ず瞬を『熱い』と評する。
氷河に そう言われるたび、二人共が熱いのは事実なのだろうが、この交わりを より喜び、より熱くなっているのは自分の方なのだろうと、瞬は思うことになるのだった。
「ああ……ああ……!」
声まで熱を帯びている。
自分の唇が洩らしているはずの溜め息が、なぜか遠くに聞こえる。
「いい……」
口を突いて出てしまう そんな言葉も、自分ではない自分が言っているように、瞬には聞こえた。

とはいえ、そんなふうに明確に 肉体の接触が生む快楽に突き動かされて生まれる言葉を発しているのは 確かに瞬自身の唇で、言うまいと思えば瞬は そんな言葉を口にせずにいることもできるはずだった。
にもかかわらず、瞬が そんな自分を自制しないのは、快楽に屈して洩れる その類の言葉を氷河が喜ぶから。
氷河が喜んでくれるなら、正直な自分を さらけ出す羞恥になど、瞬はいくらでも耐えることができた。

氷河がいなければ、自分の身体は いつも冷たいままだったろう。
氷河がいなくなれば、自分の身体は芯から熱を持つことはなくなるだろう。
そう思うと、瞬には、二人が二人でいられること、二人が これほど近くにいることが、奇跡のような幸福に感じられた。
触れ合い抱きしめ合っているだけなら、それは ひたすら心地よい。
熱のみならず 必ず苦痛を伴うことがわかっていながら、瞬が それ以上のことを氷河に許すのは――瞬が 氷河を自分の中に受け入れるのは――氷河が喜ぶことが、結局 自分自身をも最も喜ばせることなのだという事実を瞬が知っているからだった。
痛いほどの熱が、瞬の五感と心とを快楽の極致に導く。

「ああ……!」
今が幸福で、未来が悲しい。
二人が触れ合えない“あの世界”で生きていられる自分が、瞬には信じられなかった。
「氷河……氷河……僕は……」
今夜なら、なぜ泣くのかと問われても すぐに涙の訳を氷河に答えられる自信がある。
今この瞬間、二人でいられることが痛みを覚えるほど快く、今の幸せが悲しいからなのだと。
しかし、氷河は、その夜に限って、瞬に涙の訳を問い質してはくれなかった。






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