聖域の夜。
アテナ神殿のファサードからは、今は静かな聖域、十二宮を一望することができた。
主のいない十二の宮の上には満天の星。
月が出ていない分、星が明るく、小さな星は輝く砂の粒のように、大きな星は素朴なランプのように地上世界を照らしている。
静かで平和な聖域。
だが、地上は今も乱れている。
今 聖域が静かなのは、アテナの聖闘士の敵たちも 今夜の星の美しさに説得されて、争う心を持てずにいるだけのことなのだ。

戦える日々と、傷付けた敵。
戦えない日々と、守り切れなかった人たち。
夜の空気は冴え渡り、空の星は、きらめき澄んだ音が聞こえてくるような錯覚を覚えるほど清らかに輝いている。
世界を見守っているような星々が美しければ美しいほど、瞬は 自分の中の混沌がやりきれなかった。
なぜ あんな夢を見たのか。
なぜ あれを ただの夢と思ってしまえないのか――。
答えは わかっていた。
あれが ただの夢ではないことを、アンドロメダ座の聖闘士が知っているから。
“あの世界”は夢の中にある 空想の世界ではないのだ。

「綺麗だな」
いつのまに やってきていたのか、まるで ずっと瞬の隣りにいたような声と表情で、氷河が瞬に話しかけてくる。
暗に、氷河は瞬に問いかけていた。
『何かあったのか。今日のおまえの戦い方は、いつものおまえと違っていた』
氷河が何を知りたがっているのかは わかっていたのだが、
「うん、そうだね」
瞬は、氷河が口にした言葉にだけ答えを返した。
氷河を見ずに、空の星に視線を投じたまま。

「知ってる? 今、僕たちが北極星と呼んでいる星は、小熊座α星のポラリスだけど、3000年前は、小熊座β星のコカブだったんだ。その前は、龍座α星のトゥバン、その前は琴座α星のベガ。地球の自転軸がずれると北極星も変わる。ポラリスは今は地球にとって大切で特別な星なのに、あと2000年もすると、ケフェウス座γ星のエライが地球の北極星になって、ポラリスは特別でも何でもない ただの目立たない星の一つになるんだ」
修行時代を小さな島で過ごしてきた瞬より、目印のない白い大地で長く暮らしていた氷河にこそ、北極星に関する知識は重要なものだったかもしれない。
瞬が突然 持ち出した話題を奇異に感じたふうもなく、氷河は軽く頷いた。
「確か、今から8000年くらい先には白鳥座のデネブが 地球の北極星になるんだろう?」
「人間だけじゃなく――星も永遠じゃないんだ」
「それは――星も生きているからな。俺たちと同じように」
生きているものは永遠ではない。
命は、それがどんな命でも、必ず終わる時がくる。
その残酷な事実を語る氷河の声が優しいことが、瞬の心を切なくした。

「星座だって、本当は全然違う場所にある星を、人間が勝手に結びつけて星座にこじつけただけで、もちろん不動不変のものじゃないから、氷河の白鳥座も、僕のアンドロメダ座も、何十億年かあとには白鳥の形もアンドロメダ姫の形もしていないかもしれない。僕たちの星座もいつかは消えてなくなるんだ」
「だが、今は白鳥で、アンドロメダ姫だ」
「そうだけど……」
「何だ? “人を傷付けたくない病”の次は、“永遠が欲しい病”か?」
氷河が気にかけているのは、星の命などではなく、今 彼の隣りで星空を見詰めている小さな人間。
だから、氷河の声は優しく気遣わしげなのだ。
それは、“この世界”に生きている瞬には 幸せなことで、“あの世界”を垣間見てしまった瞬には 苦しく やるせないことだった。

「そんなんじゃないけど……そうなのかな……。僕、変わることが恐いのかな」
「変わることを恐いと感じるのは、悪いことじゃない。それは今を『いい』と思っていることだからな」
それは 氷河の言う通りだった。
瞬は、今を『いい』と思っている。
“人を傷付けたくない病”を患ってはいても、瞬は今、“この世界”と“この世界”に生きている自分を『いい』と思っていた。

「今は白鳥座で、アンドロメダ座だ。そういう形を成している。大事なのは、星がそう見える時代に俺たちが生まれて生きているということだろう。そういう時に、俺たちは生まれた。そして、出会った」
「ん……」
「たった100年、俺か おまえが遅く生まれていたら、俺たちは出会えなかったかもしれないんだぞ。俺たちは、星の有限を嘆くより、俺たちが こうして出会えた奇跡を喜ぶべきだろう」
「たった100年?」
「たった100年だ」
たった100年。
人の命が生まれて消えていくには十分な時間。
しかし、確かに100年は“たった100年”だった。
この美しい星空の下では。

「そうだね。こうして僕たちは出会えた。それはものすごい奇跡なんだ」
今この瞬間は素晴らしい時だと、それは瞬も思う。
そのことに疑いを挟む余地はない。
現実世界にあるのは、永遠ではない。
たった今、この瞬間のみ。
そして、この瞬間に、白鳥座は白鳥の姿を、アンドロメダ座は犠牲の姫の姿を描いている。
その星の下に、こうして二人が共にいられることは、途轍もない奇跡で、途轍もない幸運なのだ。

「今、僕は幸せだよ」
それは疑いようのない事実だった
「なのに――」
なのに どうして、その幸福が“たった100年”続いてくれないのか――。
たった100年――たった100年だというのに。
瞬の瞳に涙が盛り上がり、それは すぐに瞬の目の中に収まりきらなくなって あふれ始めた。

「瞬……どうしたんだ?」
氷河の声が 一段と優しく気遣わしげなものになる。
声以上に優しい氷河の手が、瞬の涙に触れてくる。
この声も、この手も、永遠に自分の側にあるものではない。
そう思った途端に、瞬は、それ以上 耐えていることができなくなった。
氷河にだけは決して知らせるまいと決めていたはずの言葉が、唇から迸り出る。
「あの夢の中に、氷河はいなかったの。氷河は、僕の側にいないの。氷河だけじゃない、星矢も紫龍も一輝兄さんも沙織さんもいない。僕はたった一人で生きてるの。戦えないことより、一人ぽっちでいることの方がつらい。寂しい。悲しい。あの夢が本当に僕たちの未来だったら、僕は……」

「なんだ、そんなことで泣いていたのか」
涙声での訴えというより、涙そのものでできているような瞬の訴えを、氷河は、だが、あまり深刻に受けとめた様子は見せなかった。
変わらず優しいが、どちらかといえば軽快といっていい口調で、氷河が 瞬の不吉な夢を否定してくる。
「そんな未来など あり得ない。俺たちは、いつも一緒だ。俺は いつまでも おまえの側にいる」
「でも……! でも、星ですら永遠じゃないんだよ!」

『いつも』
『いつまでも』
そんなものは、言葉ででしか存在しない。
“あの世界”はもちろん、今 瞬が幸福でいる“この世界”にも存在しないのだ。
“この世界”にあるのは、今この一瞬だけ。
素晴らしい この一瞬だけなのである。
瞬は、そう思った――そう思っていた――そう思わずにいることができなかった。
しかし、氷河の考えは、瞬とは違うらしい。
瞬の涙に出会っても動じることなく――氷河の声と眼差しは変わらなかった。

「今から12000年前には北極星だった琴座のベガは、今から12000年後にまた北極星になる。ベガは同じ場所に戻ってくるんだ。いや、同じ場所に戻るのは地球の方だが」
「星と人間は命の長さが違う。人は12000年も待つことはできない」
「そんなこともないだろう」
事もなげに そう言ってしまう氷河を、一刹那、瞬は“この世界”“あの世界”の誰よりも憎んでしまったのである。
氷河は、荒唐無稽でありながら 恐ろしいほどに すべてが現実的で、恐ろしいほどに寂しく、悲しく、つらい あの夢を見ていないから、気軽に そんなことが言えるのだ。
“あの世界”――今 アテナの聖闘士としてアテナのために戦っている者たちが誰もアテナのために戦えずにいる“あの世界”に まだ出会っていないから、氷河は こんなにも悠長な男でいられるのだと。

瞬は、氷河を睨んだ。
真正面から、泣きながら睨んだ。
だが、氷河は、瞬の激しい感情にも やはり少しも動じない。
彼は相変わらず腹立たしいほど優しい声と眼差しの持ち主のままだった。
だが――。
「大丈夫。たとえ一時いっとき離れることがあったとしても、俺たちはきっとまた出会う」
瞬は、氷河を真正面から睨んで初めて気付いたのである。
荒唐無稽な夢を不安がっている瞬に そう告げる氷河の目が、少しも笑っていないことに。
馬鹿な夢に怯える子供をあやす大人の目をしてもいないことに。






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