瞬を庇ってデスクィーン島に送られた兄は帰ってこなかった。
兄のために倒れるまい、兄のために諦めるまいと考え、歯を食いしばって懸命に生きてきた これまでの人生のすべてを、瞬は否定されてしまった。
氷河が言っていた通り、瞬の嘘には“全く意味がなかった”のだ。
倒れるまいと努め、倒れないだけでは駄目だった――それだけでは足りなかった。
兄より強くなり、兄を支えられるほどの力を備えていなければ、“兄のため”に何をすることもできない。
兄が弟の代わりにデスクィーン島に行くと言った時、『僕は その島から必ず生きて帰ってくる』と兄に言い、兄に その言葉を信じさせるだけの力を6年前に備えていなければならなかったことを、6年振りに帰った故国で 瞬は知ったのである。
兄の姿のない故国で、瞬がかろうじて立っていられたのは、兄の死を示すものが辰巳の『生きて帰れるはずがない』という言葉だけだったから。
誰も――瞬自身も――兄の死を見ていなかったから。
兄が生きているという希望が、ごく僅かとはいえ、まだ残っていたからだった。

城戸邸で、瞬は懐かしい面々に再会した。
幼い頃、自分たち兄弟と同じように、自ら望んだわけでもないのに聖闘士になるための修行を強いられることになった仲間たち。
その中には氷河の姿もあった。
氷河に再会した時、瞬は 彼によって味わわされた幼い頃の悲しみを鮮やかに思い出し、あの時の百倍も重たい悲しみに支配された。
氷河が生きて聖闘士になって帰ってきてくれたことは、もちろん嬉しかったのだが。

氷河も少しは大人になったのか、一輝の不在を知っても、彼は『おまえのせいで一輝は死んだんだ』と言って瞬を責めるようなことはしなかった。
感情の読み取れない目で、生きて帰ってきた非力だった仲間を ただ黙って見ているだけ。
氷河の その青い瞳に出会うたび、いっそ派手に責められた方が楽だと、瞬は思ったのである。
『俺の言った通りだったろう。おまえのせいで一輝は死んだんだ』と嘲り ののしられた方がどれほど楽かと。
そうしてもらえれば――兄は、理不尽な大人たちのせいではなく 非力で愚かな弟のために死んだのだと思えてしまえば――自分は自分以外の誰も何も憎まずに済む。
一生かけても償えない罪を、自分一人の身に負うことができるのに――と。

再会しても、二人は普段はほとんど口をきかなかった――戦う時以外は。
戦いのない時には、氷河は黙って、ただ瞬の側にいた。
瞬の兄が生きて裏切者として帰ってきた時も、氷河は何も言わなかった。
その時にも、瞬は、『一輝の裏切りは おまえのせいだ』と氷河に責められることを覚悟していたのだが。

殺生谷の戦いのあとも、氷河は瞬を責めなかった。
兄を二度 失ってしまった弟を慰めるようなこともなかった。
ただ側にいて、瞬を見ているだけ。
氷河の青く冷たい瞳が作り出す その眼差しが、時に切なげに、気遣わしげに見える時もあって、瞬は戸惑うこともあったのだが、彼の眼差しの意味するところを彼に問う勇気を、瞬は持てなかった。
『勇気を持てなかった』という言い方は正確ではないかもしれない。
瞬は幼い頃の瞬ではなかった。
氷河と戦っても、今なら 一方的に負けることはないだろうという、うぬぼれではない自負が 瞬の中にはあった。
そういう意味で氷河を恐れる気持ちはない。
瞬は勇気を持てなかったというより、その機会を持てなかったのだ。
兄の死以降もアテナの聖闘士たちの戦いは続き――むしろ、鳳凰座の聖闘士の死は、アテナの聖闘士たちの戦いの始まりにすぎず、瞬たちは戦いに明け暮れる日が続き――二人は ゆっくり語り合う時間を持つことができなかった。

ただ、二人の戦いの息は合った。
なぜこんなにも二人の攻撃のタイミングや防御のリズムが合うのかと、戦っている瞬当人が不思議に思わずにいられないほど。
再会した当初の『氷河と戦っても、自分が一方的に負けることはないだろう』という瞬の認識は、徐々に、『これほど戦いの癖やリズムを見切られていたら、自分はあっさり氷河に負けてしまうかもしれない』というものに変わっていった。
幸い、氷河は敵ではなく、いつも味方として瞬の側にいてくれたが。

敵として対峙するのでなく、味方として共に力を合わせ 氷河と二人で戦うことは、素晴らしく気持ちのよいことだった。
それが 自分の命を奪おうとしている敵であっても、瞬は人を傷付けることを好まなかった――聖闘士になった今でも、瞬は戦いが嫌いだった。
だが、氷河と共に戦っている時は、自分が戦っていることがひどく爽快で、戦っている自分を快く感じる。
これが敵を傷付け倒すバトルでなく、持てる力を競う競技の類だったなら、二人は(仲は悪いにしても)最強のペア、最強のパートナーになれるだろうと、瞬は思ったのである。
“敵”がサッカーやバスケットのゴール、対戦相手のテニスコートだったなら どれほどよかったかと、瞬は ありえないことを幾度も考えた。
戦っている間は、氷河はどんなこだわりもないように自然に、瞬と言葉を交わすこともしてくれたから。


戦いに直接関係のないことで、氷河が初めて瞬に言葉をかけてくれたのは、殺生谷で命を落としたと思われていた鳳凰座の聖闘士が 味方として仲間たちの許に帰ってきてくれた時。
瞬が、兄の死への負い目、兄の生への負い目、兄の憎しみへの負い目、幼い頃の自分の弱さや嘘への負い目から解放された時だった。
もっとも、その時にも氷河は、ぶっきらぼうに、
「よかったな」
と一言 言っただけだったが。
「ありがとう」
という言葉を 瞬が笑顔で氷河に返すことができた時、彼は既に ふいと横を向いてしまっていた。
それでも、それは大きな変化だった。
瞬にとっても、二人にとっても。

「氷河、おまえ、もう少し愛想よくできないのかよ? 死んだと思っていた一輝が帰ってきて、感動の兄弟再会なんだからさ。もっと派手に喜んでやるとか、喜びの舞を踊ってやるとか」
「俺は、いつも通りに、十分 愛想はいいはずだが」
「勝手に言ってろ」
星矢と氷河の そんなやりとりを、瞬は笑って見聞きしていることができた。
兄の生還、『よかったな』という氷河の短い言葉。
それらのものが、自分を幾重にも縛りつけていた負い目という鎖を一重また一重と外していくのが、瞬には感じ取れていた。






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