ハーデスが次に目覚めたのは、“瞬”との出会いから10年の時が過ぎてからだった。 あと300年ほどは眠っているつもりだったのに、冥府の王は目覚めてしまった。 まるで“聖戦”に、『聖戦を始めろ』と急かされているようで、ハーデスはひどく不快な気持ちになったのである。 10年前同様、冥府の王の神殿には、眠りを司る神と死を司る神が控えていた。 「何か起きたのか」 二柱の神に短く尋ねる。 ハーデスの問いかけに応じて、ヒュプノスが、本来であれば非常に重要な情報を 彼の主に報告してきた。 「聖域に不在だったアテナが、先頃 聖域に降臨いたしました」 「そうか。だが、余は、今回はやる気がない。あのような依り代――あのように見苦しいものは二度と見たくない」 本来なら10年前に説明するはずだった冥府の王の眠りの訳を、今になって金銀の神に告げる。 冥府の王の不快が その依り代にあることは察していたのか、金銀の神はハーデスのその言葉を聞いても さほど驚いた様子は見せなかった。 この10年、二柱の神は 冥府の王を不快にしたものの動向を監視していたらしい。 彼等は、意外なことを 彼等の王に知らせてきた。 「それが……あの者――瞬は、ハーデス様が眠りに就かれてから数年後、アテナの聖闘士になったのです。アンドロメダ座の青銅聖闘士に」 「なに? あの汚い子供がアテナの聖闘士に?」 姿が醜いだけでなく、強さや聡明といった美徳も持ち合わせていなかった、哀れで みすぼらしい子供。 泥にまみれ、耳障りな声を響かせてなくことしかできずにいた、非力で不愉快な子供。 “瞬”がアテナの聖闘士になったという事実は、少なからずハーデスを驚かせた。 「それは さぞや醜く貧相な聖闘士になったことであろう。あの者がアテナの聖闘士とは、アテナには美意識というものがないのか」 同じ神として、実に腹立たしいことである。 地上世界の支配権を巡って聖戦を繰り返してきた敵とはいえ、ハーデスはアテナの美しさは好ましく思っていた。 アテナが美しいからこそ、冥府の王は彼女を敵として認め、彼女との戦いを続けてきたといってもいい。 そのアテナが、あの泥まみれの子供を 自らの聖闘士として従えているとは。 ハーデスは、アテナの考えが全く理解できなかった。 そして、このたびの聖戦は ますますもって戦う価値のないものだと確信し、彼は今度こそ本当に長い眠りに就こうとした。 ――のだが。 本来なら冥府の王の魂を宿し、聖域との戦いの先頭に立つはずだった あの醜い子供が、いったい どんな聖闘士になったのか 見てみたい――という気まぐれが、突然ハーデスの中に生まれてきたのである。 アンドロメダといえば、その母親が『我が娘は その麗しい乙女の名を冠した聖衣を、あの醜い子供がまとっているという素晴らしい皮肉。 その滑稽な茶番を見物するのも一興かもしれない――という気まぐれが。 「おそらく アテナは今頃、やがて始まる余との聖戦を思い、あれこれと気を揉んでいることであろう。今回は 余には聖戦を起こす気がないとアテナに伝えておくのが親切というものかもしれぬ」 もっともらしく聞こえるが、あまりに冥府の王らしくない言葉。 他者への――まして、敵であるものへの――親切心など 毫も持ち合わせていない冥府の王が、なぜ急にそんなことを言い出したのか。 ハーデスに長く仕えている金銀の神たちには、それが親切心ではなく酔狂、もしくは 意地の悪さ、あるいは ささやかな悪意であることが、すぐにわかったようだった。 冥府の王は、彼を不快にした子供が 貧相な聖闘士になった様を見て嘲笑い、留飲を下げたいと思っているのだということを。 「ハーデス様も お人が悪い」 「アテナに待ちぼうけを食らわすのは失礼というものだろう」 ハーデスは、言葉では あくまでも建前を語った。 『秘するが花』と、東洋の国の古人も言っている。 冥府の王の依り代としては許し難いが、もはやハーデスには瞬を自らの依り代にするつもりも 冥府の王の崇拝者にするつもりもなかった。 その気は完全に失せていた。 冥府の王に いかなる関わりも持たない貧相な人間の見物。 そういう遊戯であれば、どんな憤りを覚えることもなく、興じることができるだろう。 そう考えて、ハーデスは再び――10年前同様、瞬の許に 自らの意識を運んだのである。 瞬に冥府の王の美しさの信奉者にする必要は既にないので、幻影の姿も伴わず ただ意識だけを、“アテナのいる聖域”ではなく、“瞬のいる場所”へと。 ハーデスの意識が辿り着いたのは、聖域ではなく、かつて瞬が泥にまみれていた庭を抱く家。 極東の島国にある一軒の洋館の上だった。 |