(どこだ、あの子供は)
ここは聖域ではない。
アテナもいない。
それはわかっていたのだが、はなから アテナに親切心を示すことが目的ではなかったハーデスは、自らが自らの建前に反することをしている事実への弁解を試みることもしなかった。
目的は“瞬”なのだ。
ハーデスの目と意識は、逡巡することなく、瞬の姿を探した。

そうして――最初にハーデスの目に見えてきたのは、一人の人間の白い背中だった。
細い肩から続く腕は、左右とも二つに折られ、どうやら 我が身のための枕を作っている。
すらりとのびた形のいい脚。
それは、ほのかな灯りに包まれた寝台の上に横たわっていた。
なめらかな曲線で描かれた、華奢だが、白く肌理きめ細やかな肌と その肢体。
それが男のものなのか女のものなのかは、その人間が うつぶせになっているのでわからない。
たとえ うつぶせになっていても、全裸の人間の性別がわからないというのは奇妙なことだったが、事実 ハーデスには その人間が男なのか女なのかがわからなかった。
男にしては やわらかすぎるが、女にしては 凛としすぎている。
だが、どちらにしても美しい身体――それは、不思議なほど美しい身体だった。

(何だ、これは)
冥府の王の美意識は、その裸体を美しいと感じていた。
その身体の中に魂が引き込まれてしまいそうになるほど美しい。
ハーデスは、その美しさを より強く明瞭に感じたくて、己れの意識の許に 目だけでなく、五感のすべてを呼び寄せた。
そして、ハーデスは、その美しいものが、一人でないことに気付いたのである。
美しいものの傍らに、一人の金髪の男がいた。
ハーデスが確かめたかったのは その美しい生き物の声だったのだが、彼が呼び寄せた聴覚が最初に捉えたのは、ほの明るい室内に低く静かに響いた 金髪の男の声の方だった。

「おまえは本当に綺麗だ。おまえほど綺麗な人間を俺は知らない」
金髪の男が 美しい生き物の裸の背中を 手でなぞりながら、溜め息のように言う。
全く同感だと、ハーデスの目は頷いたのだが、その美しい生き物は ハーデスの美意識を否定してきた。
「そんなこと言ってくれるのは氷河だけだよ。氷河は優しくて、そして、目が悪いの。氷河以外の人は誰もそんなことを言わない。他の人は、僕のことを、女みたいだの、なまっちろいだの、汚いだの、存在自体が許せないだの……」
「誰が おまえにそんなことを言ったんだ?」

美しい生き物の背中の感触を楽しんでいた金髪の男の手が止まる。
その美しい生き物の言葉は、金髪の男には意想外のことで、相当 彼を驚かせたのだろう。
ハーデスも驚いた。
この美しい生き物に『汚い』だの『存在が許せない』だのと言える者の気がしれない。
そんなことを言える者は、美意識が欠如しているか、あるいは狂った美意識をしか持っていない人間であるに違いなかった。
その美意識の欠如した者のことを思い出すのが不快だったのか、あるいは その者に関する言葉を それ以上口にしたくなかったのか、美しい生き物は 金髪の男に問われたことに答えを返さなかった。
代わりに、正しい美意識を有している人間のことに言及する。

「氷河は僕を好きでいてくれるから、だから きっと、僕の姿が 他の人とは違うように見えているんだよ」
「本当にそうだったら――俺がおまえを好きだから、おまえが綺麗に見えているというのなら よかったんだがな。おまえが 俺の目にだけ綺麗に見えているのなら、どんなにいいか。だが、そうではないから、俺は腹立だしい」
「氷河の目にだけ、そう見えてるの。氷河は優しい目をしてるから」
「そんなことはない」
言葉通りに 腹立たしげに きっぱりと、金髪の男――氷河という名らしい――が断言する。
そうしてから彼は、美しい生き物の白い背中に唇を押し当てた。
美しい者は、その目を閉じて、しばし何かを迷っているようだった。
おそらく、そのまま肉体の快楽に心を委ねて唇を閉ざすか、それとも言葉を紡ぎ続けるかを。
その美しい生き物は、結局 言葉を続けることを選んだらしい。

「僕、今でも憶えてる。小さな頃、真っ黒い服を着た 見たことのない男の人が急に僕の前に現われて、僕のことを汚い子供だって言ったの。汚くて――存在自体が許せないって」
奇跡のように美しい生き物の その言葉を聞いて、氷河は小さく吹き出した――その言葉を一笑に付した。
だが、ハーデスはそうはいかなかったのである。
一笑に付すどころか、意識が凍りついた。
「夢でも見たんだろう。おまえは子供の頃から可愛かった。おまえに そんなことを言う者などいるはずがない」
この美しい生き物の年齢は15、6といったところだろう。
そして、この美しい生き物が小さかった頃といえば、人間界で10年、10数年ほど前のことになるだろうか。
ちょうど その頃、ハーデスは一人の人間の子供に言ったことがあったのだ。
『汚い』『その存在が許せない』『消えてしまえ』という言葉を。

「夢じゃない」
首を横に振ろうとしたのか、その美しい生き物の髪が僅かに揺れる。
ハーデスの目と耳は、その美しい生き物の言葉に呆然としていた。
「見知らぬ人に急に そんなこと言われたのがショックで、僕、大泣きしたんだ。あの時、氷河は、そんなことないって、僕を慰めてくれた。僕、ちゃんと憶えてる。氷河はね、最初のうちは僕に『瞬はマーマと同じくらい綺麗だ』って言って慰めてくれてたんだよ。けど、それでも僕が泣きやまなかったから、最後には『マーマより綺麗だ』って言い出したんだ。僕は、氷河に写真を見せてもらって、氷河のマーマがどんなに綺麗な人だったのかを知ってたから、すごくびっくりして――氷河にそんなことを言わせてしまったことを後悔した。氷河があんまり優しいから、僕はまた泣き出しちゃって――そして、あの時からずっと、僕は、そんなふうに言ってくれた氷河が大好きなの」
「ならば、俺は、その目の悪い黒い男に感謝しなければならないな。おかげで、おまえと――」

微笑しながら冥府の王への謝辞を告げ、しかし 氷河は その先を言葉にしなかった。
言葉を途中で放り出し、美しい生き物の背中に身体を重ねるようにして、氷河が“瞬”の肩に顔を埋めていく。
「んっ」
くすぐったそうに肩をすくめた美しい生き物は、だが、氷河の愛撫から逃れようとはしなかった。
むしろ甘い溜め息で、その愛撫を歓迎していることを示してみせる。
愛撫の許可を得て、氷河の手は徐々に大胆になっているようだった。
勤勉に働き始めた氷河とは対照的に、ハーデスは動くことができずにいたのである――彼は ただ呆然としていた。
あの時の泥だらけの子供がこれ・・なのだという、信じ難い事実の前で、ハーデスの意識は立ち往生していた。

この稀有な美しさをたたえた身体は、“瞬”のものであるらしい。
数百年に一度しか巡ってこない聖戦の機会を冥府の王に放棄させるほど醜かった、あの子供のものであるらしい。
それは にわかには信じられないことだった。
呆然としたまま、ハーデスは、自分がまだ この美しい身体の持ち主の顔を見ていないことに気付いたのである。
美しいのは身体だけであってくれれば、冥府の王は 10年前の自らの迂闊を悔やむ必要がなくなる――愚かなことをしてしまったと思わずに済む――のだ。
だが、この美しい身体の持ち主の顔が醜いなどということが あり得るだろうか。
そういうこともないとはいえないが、あまり期待はできない。
冥府の王の後悔を より深いものにしないために、せめて“瞬”が凡百の顔の持ち主であってほしいと、ハーデスは意識の上では考えた。
彼の心は、魂は、感情は、全く逆のことを欲していたが。

氷河が瞬にキスをするために、瞬の身体の向きを変えさせる。
瞬の身体を仰向けにした氷河は、瞬の肩口に埋めていた唇を そのまま瞬の唇の上へと運んだ。
瞬の白く細い両の腕と指が、氷河の首と金色の髪に絡む。
(邪魔だ、そこの金髪。瞬の顔が見えないではないか……!)
氷河に、ハーデスの声は聞こえていなかっただろう。
聞こえていたら、大抵の人間は 冥府の王の力に恐れ おののき、即座にハーデスの気に入るように動いているはず。
にもかかわらず、氷河はいつまでも瞬の唇を貪っていた。
同時に、その手指が瞬の内腿の間に忍び込もうとしている。
ハーデスを散々 焦らし、苛立たせてから――氷河にしっかりと絡みついていた瞬の両腕が ゆっくりと解かれることになったのは、氷河が手指だけでなく唇でも瞬の身体を愛撫しようとし始めたからだった。

氷河の愛撫に視覚を奪われているかのように、瞬は その瞼を きつく閉じている。
瞬の顔の造作は 信じられないほど整っていた。
(ああ、やはり美しいか……)
目を閉じているので全体の印象を はっきり捉えることはできないが、少なくとも 作り自体は凡百の顔ではない。
伏し目がちに描かれたラファエロの聖母が、それでも美しいとわかるように、瞬の顔立ちもまた美しかった。

「あ……っ」
うっとりと氷河の愛撫に酔っているようだった瞬が、ふいに小さな声を洩らす。
「どうした? 俺はどこか痛くしたか」
瞬の胸の上にあった唇を離して、氷河は瞬に尋ねた。
瞬は首を横に振る代わりに、氷河の肩に置いていた右手の指を1、2本 浮き上がらせた。
「あ、ううん、そうじゃないの。誰かが見ているような気がして……」
そう言って、瞬は 閉じていた目を開けた。
それから、自身の不安を払いのけようとするかのように、ゆっくりと一度だけ瞬きをし、再度 その瞳を見開く。

ほのかな灯りしかない室内。
それでもハーデスの目は、しっかりと見るべきものを見た。
そして、ハーデスは認めた。
瞬のきらめく瞳。
その瞳が奇跡のように澄み切っていることを。
ハーデスは絶句した。

「まさか。城戸邸ここのセキュリティは、ネズミ1匹入り込めないほど厳重だ。まあ、聖域ほどではないだろうが。もっとも、アテナの結界は人間以外の動物には無効らしいから、一概に比較はできないかもしれないがな」
「ん……。気のせいだね。ごめんなさい。きっと、氷河の指が目でも持っているように動くから、僕、恥ずかしくなったんだ」
「目でも持っているように?」
そのたとえがおかしかったのか、氷河が低い笑い声を洩らし、彼の声につられたように 瞬もまた緩やかに微笑した。

その微笑みのやわらかさ。
澄んだ瞳。
優しい響きの声。
所作の細やかさ。
小気味よく繊細な感性。
肢体の美しさ。
おそらく その肌も――身体そのものも感受性に優れているだろう。
予感通り、稀有な美しさをもった身体の持ち主は、その面差しも美しかった。
ハーテスは呆然とした。
あまりのことに、彼は 一瞬 意識を失った。

10年前、なぜ自分は 泥に汚れていた子供の美しさを認めることができなかったのか。
魂と心の清らかなことは わかっていたのに、なぜ瞬を無造作に捨て置いてしまったのか――。
後悔という強い衝撃に襲われている冥府の王の気も知らず、氷河が再び 瞬に口付け、その身体を抱きしめる。
「ん……氷河……氷河……大好き……」
これほど清らかな魂と美しい肢体の持ち主が、どこといって取りえのない男を恋し、求め、受け入れることになったのが、冥府の王の ささやかな過ちのせいだとは。
悔やんでも悔やみきれないとは、こういうことを言うのだろう。

瞬は、氷河に身体を開かされていた。
あるいは、傍目に そう見えるだけで、瞬は自分から氷河のために身体を開いたのかもしれなかった。
「あああああっ」
これが初めてのことではないのだろう。
汚らわしい男の侵入の衝撃に耐える瞬の声は、最初から艶を帯びていた。

肉体は魂までは汚せない。
それは わかっていても、冥府の王の大切な依り代の身体を 他の男が好き勝手に蹂躙している事態は許し難い。
だが、それ以上に許し難いのは、目を背けたくなるほど汚かった子供が、これほどまでに美しい生き物に変身することもあるという事実、人間のあり方。
これほどまでに美しい冥府の王の依り代を、よりにもよって冥府の王の宿敵であるアテナの聖闘士にしてしまったこと。
アテナと彼女の聖闘士を嘲笑うために地上にやってきたはずなのに、どこからかアテナの高笑いが聞こえてくるような気がする――。

もちろん それはハーデスの やり場のない怒りが作り出した幻聴――幻にすぎなかった。
しかし、その時 ハーデスは悟らないわけにはいかなかったのである。
冥界の王ハーデスと聖域の女神アテナ。
この二柱の神の戦いは、やはり避けることのできない戦いなのだということを。






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