地上からエリシオンに意識を戻すなり、ハーデスは、タナトスとヒュプノスに命じた。
「予定を変更する。聖戦を始めるぞ。地上を余のものにする。もちろん瞬もだ。余の瞬を余のものにせず、下賤の人間の好き勝手にさせておいてなるものか。アテナの聖闘士だろうが何だろうが、そのようなことは余にはかかわりのないこと。瞬は余のものだ!」
「は」
冥府の王の気まぐれには慣れていたが、それにしても、ほんの数刻で、ほとんど真逆といっていい変わりようである。
しかも、どうやら その原因は瞬――神話の時代からの因縁の相手である女神アテナでも、地上と地上に世界に住む人類の醜悪でもなく、当代の冥府の王の依り代である一人の人間――のせいであるらしい。
金銀の神は、神妙な顔でハーデスの命令に頷きながら、胸中では深い溜め息をついていた。

『ハーデス様には、地上の支配と 地上で最も清らかな者を我が物にすることとでは、どちらが優先される目的なのだ』
声には出さず、死を司る神が 眠りを司る神に問いかける。
『より美しいものの方だろうな』
眠りを司る神からの答えもまた思念で返ってきた。
『では、アンドロメダの聖闘士をご自分のものにすることこそが ハーデス様の第一の目的ということになる。既に地上世界は汚れきっている』
どのみち使い捨てにする人間の身体。
にもかかわらず、この執着。
永遠の命を持つ神である冥府の王が、限りある命をしか持たない人間の いつかは失われる美しさに 多大な価値を認めていることは疑いようのない事実だった。

「聖域に冥闘士を送り込むよう、パンドラに指示を出せ。聖戦の始まりをアテナに知らせ、でき得る限り早く、アテナの聖闘士たちを冥界におびき寄せるのだ」
「は」
どれほど気まぐれでも、冥府の王の持つ力は絶大にして絶対。
金銀の神は、ハーデスの命令を実行するために、冥府の王の前に跪かせていた身体を起こした。
永遠の命を与えられている神らしく、ゆっくりと。
だが、その緩慢さが、ハーデスは気に入らなかったらしい。
彼は、今 彼が発したばかりの命令を その場で撤回した。

「よい。余がじきじきに指示を出す」
そう言い終えた時には既に、冥府の王はエリシオンを出てジュデッカに向かっていた。
冥府の王の第一の目的は もちろん“瞬”の心身を その意に従えることであるから、実体はエリシオンの神殿に眠らせたままである。
冥府の王の意識がエリシオンから立ち去ったおかげで、ヒュプノスとタナトスは、堂々と自身の肉体で――態度に出して――溜め息をつくことができるようになったのだった。

「よほど“瞬”が お気に召したようだな」
「下賤の者に瞬を好き勝手にはさせないと おっしゃっておられた。ハーデス様が眠りに就かれていた間に、瞬は誰かのものになっていたのだろう。ハーデス様の執心には、瞬が他の者に奪われかけているという現状も大きく作用しているのだろうな。ただ心身が美しいだけでは、ハーデス様がこれほど積極的に動くはずがない。これまでの聖戦では、ハーデス様は、パンドラが その時代の依り代を連れてくるのを待っているだけだった」
「そうだったな」
確かに、今のハーデスは、これまでの聖戦開始時のハーデスとは様相を異にしている。
そして、その直接の原因は 当代の依り代である瞬にあるようだった。

が、その時 ふと、金色の神は妙な考えに囚われたのである。
神話の時代から繰り返されてきた女神アテナとの聖戦。
それが いよいよ本当の“終わり”に近付いていることが、冥府の王を焦らせているのではないかと。
その決着が、アテナとハーデスという二柱の神の戦いによって つけられるとは限らない。
地上の人間たちが自ら滅びることでも、聖戦は完全な終結を見るのだ。

はたして人間は本当に そこまで愚かな存在か。
ヒュプノスには、それは実に興味深い考察事項だった。
そんなことを考え始めていたヒュプノスに、タナトスがジュデッカを“見る”ように合図を送ってくる。
ヒュプノスがエリシオンからジュデッカの様子を覗くと、そこには“瞬”がいた。
冥府の王が、まだ自分のものになっていない瞬の姿を作って、パンドラに指示を出している。
「ハーデス様は、相当 瞬がお気に召したようだな。完全に浮かれている」
地上を汚し続けている人類が滅びるのが先か、浮かれた冥府の王に逆らえる力を持つ者のいない冥界が滅びるのが先か。
ヒュプノスは、誰に隠す必要もないというのに、あえて態度には出さず胸中でひっそりと、憂いでできた嘆息を洩らしたのだった。






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