永遠の命を持つ神たちとは異なり、有限の命をしか与えられていないパンドラは、ハーデスの命令を速やかに実行に移したらしい。 パンドラの命によって動き始めた冥闘士たち。 彼等の暗躍で聖域に異変が起きていることを感じた瞬たちは、今まさに聖域に向かおうとしているところだった。 城戸邸のエントランスホールには白鳥座の聖衣櫃とアンドロメダ座の聖衣櫃が運ばれてきている。 ハーデスは、実体ではないが偉大な神クロノスとレアから授けられた肉体をそのまま映した姿をもって そんな二人の前に立ち、冥府の王の意に従うよう、瞬に命じたのである。 同じ人間といっても、一方は神に選ばれた特別な存在、もう一方は いかなる価値も有していない下賤の身、共に在ること自体が許されないのだと。 しかし、瞬は ハーデスの言葉に従わず、氷河の側を離れようとはしなかった。 それどころか、その可愛らしい顔を きつく強張らせ、瞬は冥府の王を睨んできた。 「余と、その下賤の者とでは どちらが美しい? そなたは美しいものが嫌いなのか? そなたは美しさの価値がわかっておらぬのか。余とその男ではどちらが美しいか、一目瞭然であろう」 ハーデスは、彼が“力”よりも価値あるものと認めている“美”を盾に取って 瞬に迫ったのだが、ハーデスの言に対する瞬の答えは驚くべきものだった。 「氷河の方が綺麗だよ」 と、瞬は、大して迷った様子もなく言ってのけたのだ。 「そ……そなたは何を言っているのだ。余の姿を よく見よ」 「よく見ても見なくても同じ。氷河の方があなたの百万倍も綺麗だよ」 「いや、さすがに そこまでは……」 この緊急事態にして非常事態かつ異常事態にもかかわらず、氷河が瞬の断言に やにさがってみせる。 ハーデスは、瞬の言葉と氷河の態度に、腹の底から むっとした。 実体は伴っていなくても、意思の力で 人ひとりの命を奪うことくらいは容易にできる。 ハーデスは、この不愉快極まりない男に、聖戦の最初の犠牲者という栄誉を与えることを決意し、その決意を実行に移そうとした。 もっとも それは、瞬の鋭い声によって――涙を伴って苦しげな瞬の声によって――妨げられてしまったが。 「あなただ。思い出した。あなたが、僕の存在を許せないって言った人だ。こんな汚い子供は消えてしまえって――あなた、いったい何者なの」 瞬は、10年前の冥府の王との出会いと その言葉を思い出したらしい。 が、あの時のハーデスの名乗りは忘れてしまっているようだった。 二度 名乗りを繰り返すことが癪で、ハーデスはあえて自身の名を名乗ることはしなかったが。 というより、彼は 名乗らない方がいいような気がしたのである。 冥府の王の名誉のために。 「あれは……あの時は、泥が そなたの美しさを隠してしまっていたのだ」 僅かに言葉を淀ませて言い訳をしている者が冥府の王と知れることは、あまり好ましいことではない。 「美しさ? なに、それ」 冥府の王が何より大きな価値を置くものを、瞬があっさり切り捨てる。 「あなたが誰なのかは知らないけど、汚いだの、醜いだの、存在自体が許せないだの――初めて会った人に そんなことを言われて泣いていた泥だらけの僕に、氷河はそんなことないって言ってくれたよ。泥んこでも誰より綺麗だって。泣いてる僕を慰めて、大好きだって言ってくれて、僕がいてくれてよかったって言ってくれた。だから、僕は氷河が大好きになったの。氷河を大好きになって、僕は あなたのことを忘れることができたんだ。なのにまた……あなたは いったい何をしたいの! どうして僕たちの前に現れるの!」 自身の軽率が瞬の心を他の男に渡す原因になったことを 改めて瞬に告げられて、ハーデスは一瞬 言葉に詰まった。 そんな事実は認めたくはないが、事実は事実。 事実は神の力をもってしても曲げられるものではない。 自分ではどうしようもない事実に対する苛立ちが、冥府の王に子供じみた真似をさせた。 すなわち、城戸邸の庭にある土と 噴水の水で泥を作り、それを氷河の顔に叩きつけるという児戯のような真似――もとい、児戯そのものを。 いったい 我が身に何が起こったのか――そんなものが、どんな力によって運ばれてきたのか理解できなかったらしい氷河が、その場で棒立ちになる。 「そなたはこんなふうだったのだぞ。余がそなたの美しさを見逃したとて、それは致し方あるまい!」 「氷河に何するの! 泥だらけでも、あなたなんかより氷河の方がずっと綺麗だよ! あっち行って! あなたなんか知らない。あなたなんか いらない。僕のことを どうこう言うだけならまだしも、氷河にこんなひどいことするなんて……。あ……あ、氷河、氷河、大丈夫っ !? 」 ハーデスが アテナとアテナの聖闘士の敵で、命にかかわるような攻撃を仕掛けられたのであれば、氷河は投げつけられた泥だんごなど気にも留めず、すぐに臨戦態勢を整えていただろう。 自分に仕掛けられた攻撃(?)が あまりにダメージの小さいものだったため、氷河はかえって気を取り直すのに長い時間を要することになったのだった。 「ああ。何だ、こいつは。おまえにいかれた変質者か」 「知らない。知りたいとも思わない」 ハーデスは、自分では気付いていなかったが、攻撃の仕方を完全に間違えていた。 というより、我が身を傷付けられることより 仲間を傷付けられることの方が、瞬に より大きな痛みを運んでくるのだということを、ハーデスは知らなかったのだ。 そのせいで、ハーデスは、瞬に 瞬が全身全霊で 冥府の王を拒絶していることが、ハーデスにはわかった。 この魂と肉体を 冥府の王が支配することは未来永劫 無理な話だということが、ハーデスには嫌でも感じ取れてしまったのだった。 |