氷河が人材の墓場に送られて半月も経った頃。
「お茶いれが天から与えられた使命になるのなら、俺にだって 何かあってもよさそうなものなのに、なぜ俺には使命と感じられるものがないんだろうな」
数億の予算が組まれているのに、人件費の他には会議費として週に800円のお茶代が計上されるだけの3課の予算実績データをパソコンで眺めながら、氷河はふと呟いたのである。
瞬は今日も自らの使命遂行に余念がなく(?)、自宅から持参した陶磁器のカタログのティーポットのページを先程から行きつ戻りつしていた。

「多くの人は、家族のために生きることを自分の使命にしているようだけど」
カタログのページから顔をあげた瞬が、少し気遣わしげな顔をして氷河に言う。
彼の同僚が親兄弟等の血縁を一人も持たない天涯孤独の身だということを、瞬は知っているのだろうか。
人事課や上司から知らされてはいなくても、瞬は察してはいるに違いなかった。
この半月の間、二人は、お茶の話はもちろん、経済論、政治論、コンプライアンス統括部の部員らしく正義と企業利益の関係性、果ては真善美の定義についてまで語り合ったが、家族の話だけはしたことがなかったのだ。
時折、瞬が兄の存在に言及することがあるくらいで。
ともあれ、瞬にそう言われるまで、氷河は、自分以外の人間が何を自身の“使命”にしているのかということに考えを及ばせたことがなかった。
瞬に そう言われて初めて、『ああ、そういうものか』と思い、得心する。

「俺の使命は、マ……母を幸せにすることだった」
過去形。
氷河のその言葉を聞いて、瞬は微笑んだ。少し悲しげに。
瞬は余計なことは言わず、余計なことは訊かない。
それは、氷河には、実に好ましく感じられる瞬の特性だった。
「それはとても素敵な使命だと思うよ。……じゃあ、氷河は お母様の代わりの人を見付ければいい」
「代わりなんて、そう簡単に見付かるか」
「そうかな? 氷河は、自分がお母様以外の人を愛せないって思い込んでる? もしそうなら、その先入観を捨てれば、氷河の大切な人は きっとすぐ見付かると思うよ。人が人を好きになったり、大切な人を見付けたりするのは、人が生きていくのに必要な本能みたいなものだもの」
「おまえはいるのか、そういうの」
「兄や、友だちや――氷河も僕の大切な人の一人だよ」
「俺が?」
「当然でしょう」
瞬が、にっこりと微笑んで、こともなげに言う。
瞬は、余計なことは言わず、余計なことは訊かない。
瞬は、何かを勘違いした女のように『氷河にとって、僕は そういう人間ではないの?』とは訊いてこないのだ。
氷河には それは本当に好ましい性質だった。

瞬は他者への気配りというものができる、優しくて綺麗で穏やかな人間だった。
言葉も声も人を不愉快にすることがなく快い。
自分の意見は はっきり口にするが、押しつけがましいところがなく、人に何かを求めることもしない。
これは確かに、同じオフィスにいられたら、迷惑な社員かもしれない。
気がつくと瞬の姿を追っている自分に気付き、氷河は そう思ったのである。
『氷河にとって、僕は そういう人間ではないの?』
最初のうちは、そう問うてこない瞬を好ましく思っていたのに、今では氷河は、なぜ瞬は そう問うてくれないのかと焦れるようになっていた。
そんな焦慮が自分の中に生じる理由を真摯に考えることは、故意に避けながら。


恋は、そんなふうに氷河の心の中で ひそやかに、だが着実に進展しているだけだったが、友人 もしくは左遷仲間としての親密度は、3課と資料室に在籍する者たちの間で 目に見えて深まっていた。
日に2度は3課にやってくる二人とのやりとりも、始めのうちは他愛のない冗談ばかりだったのだが、そのうちに 時には真面目な話もするようになった。

紫龍の左遷理由が本当は断髪拒否ではないこと――グラード財団主管で行われるはずだったダム建設工事の事前水量調査で、ダム建設の必要はないという 誰にも反論できない完璧な報告書を提出してプロジェクトを中止させ、そのためにグラードと下請契約を結ぶはずだった複数の建設会社に憎まれ、それらの会社との良好な関係を維持するために、彼自身にはいかなる落ち度もないのに 左遷になったこと。
星矢が敬語を使わなかった相手というのが、グラード主管で行われた某公共工事の完成セレモニーに出席するためにやってきた国土交通省の某政策局局長で、局長に“使い損ねた”敬語――つまり暴言――というのが、局長に害を為さんと乱入してきた暴漢から彼を庇った際に怒鳴った『ぼやっとしてるな、ハゲ!』だったこと。
そんな事情も、彼等は氷河に話してくれるようになっていた。

「確かに大っぴらにはしにくいことかもしれないが、それで左遷というのは不当じゃないか?」
少なくとも星矢と紫龍は、財団のために正直に熱心に働いた。
結果的に財団に不利益をもたらしたかもしれないが、その行為は過失でもなければ悪意から出たことでもない。
そして、彼等は 確かに 法令遵守コンプライアンス統括部内部監査1課2課の業務に該当しない案件の当事者だった。
「まあな。瞬だけだよ、男共の気が散るから――なんて、まともじゃない理由で3課送りになったのは」
「……」

グラードの人事課は、そうして瞬を異動させた先にも男はいること、その男の気が散る可能性は考えなかったのだろうか。
いかなる不況時にも優良企業の名をほしいままにしてきたグラード財団の人事部は あまりにも無思慮無能だと、氷河は思わないわけにはいかなかった。






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