内部監査3課に異動して一ヶ月も経つと、氷河はすっかり暇つぶしの技に熟練してしまっていた。
その日、紫龍と星矢はグラード財団が法人会員として契約しているジムに出掛けており、瞬はオフィスで留守番、氷河は 瞬がいれてくれる お茶を より美味しく飲むためのマイカップを購おうと、グラードの本部ビルから3駅ほど離れた街にある陶磁器専門店に足をのばしていた。
氷河は、自分の好みより、どんなカップなら瞬が喜ぶだろうかと、そちらの方を重視しながら、棚にずらりと並んだカップ&ソーサーを眺めていたのである。
そこに、瞬から、緊急の仕事が入ったので すぐにオフィスに戻るように――という電話があった。

「緊急の仕事 !? 」
コンプライアンス統括部内部監査3課に異動になって初めての仕事である。
法令遵守コンプライアンスの概念では処理しきれないことをしでかした社員として3課に在籍することが 自分の仕事であり、課の外から仕事が舞い込んでくることはないのだと思い込んでいた氷河には、瞬からの連絡は まさに寝耳に水のことだった。
3課に異動になって初めての仕事、初めての業務命令。
それはいったいどんなものなのかと、期待と不安が入り混じった気分で社に戻った氷河に知らされた“3課の初仕事”。
それは、実にとんでもないものだった。

アフリカ ソマリア沖で財団所有の原油タンカーが、その海域を跋扈していた海賊たちにシージャックされた。
積まれている原油は40万トン。
今は海賊たちの人質となったタンカー乗組員は50人。
その事態を解決しろというのが、氷河に与えられた3課での初めての業務命令だったのである。

「とりあえず人質を解放させて、原油が海に流出する事態を防ぐようにって。人命救助と原油流出阻止さえ成ったら、タンカーは海賊たちにくれてやってもいいそうだから、まあ、気楽な仕事だね」
「気楽な仕事……?」
それを『気楽な仕事』と笑顔で言ってのける瞬を見て、氷河の顔は引きつった。
複数の人間の命がかかり、桁違いの金が動く、これは どう考えても大事件である。
原油やタンカーの値段は、確かに大きな問題ではない。
だが、万一 40万トンもの原油が海に流出してしまったら、その時には グラードは、タンカー護衛の対策の甘さについて世界中から非難を受けることになるだろう。
更に流出した原油の回収・中和処理にどれほどの金がかかり、何ヶ国から何百億ドルの損害賠償を求められるのか。
考えただけで、氷河は気が遠くなりかけた。

「SWATにでも出動を依頼するのか? その手続きや指示が この部署の業務なのか?」
「まさか。沙織さんは――総帥は、安物のお茶の購入はすぐに承認してくれるけど、SWAT出動依頼なんて承認してもらえないよ。お茶っ葉と違って800円では済まないし、基本的に財団絡みの事件事故は内部処理が原則なんだ。外部の手を借りるのは駄目、極秘裏の解決が鉄則だよ。僕たち二人でシージャックされた船に乗り込むよ」
「な……なにぃ !? 」
「屋上にジェットヘリが来てる。必要なものは積み込み済みだから、急いで」
瞬は、氷河に、ゆっくりと驚いている時間さえ与えてはくれなかった。
瞬に背中を押されるようにしてビルの屋上に上がってみると、そこには本当に離陸準備の整ったジェットヘリが待機しており、唖然としている間に 氷河は機内の人にされてしまったのである。

瞬は、ヘリの中にあるミーティング用テーブルに手馴れた所作で40万トン原油タンカーの図面を広げ、
「この図面の内容を頭の中に入れておいて」
と、氷河に指示してきた。
「お……おい、瞬」
「タンカーの乗員は――つまり人質は50名。海賊は21名らしい。武器はライフル、小銃、ナイフ等。手榴弾やダイナマイトの類は持っていないみたい。火気厳禁の原油タンカーだし、海賊も命は惜しいでしょう。船荷はもちろん原油。今日の深夜――あちらでは早暁になるけど、タンカーに潜り込める場所に降ろしてもらうから、それまで仮眠をとっておいて」
「寝てなんかいられるか!」
「でも、眠っておいて。必要なことだから」

瞬の声や表情は いつも通りの優しくやわらかいものだった。
それなりに緊張はしているのかもしれないが、訳のわからない初仕事に動転している後輩の目には いつもより落ち着いているようにさえ見える。
必要だから眠っておけと言われても、この状況で眠れる人間がいるものだろうか。
いるはずがない。
そう思いながら、氷河は、リクライニングシートを倒し、眠りに就いたのである。
タンカーの図面は、夢の中で頭に叩き込んだ。






【next】