自分はまだ夢から覚めていないのだろうか。
タンカーから数キロ離れた海上にモーター付きの救命ボートと共に降ろされた時にもまだ、氷河は そんなことを考えていた。
瞬はボートに奇妙な鎖を持ち込んでいた。
その鎖を使って内部監査3課の二人は早暁の薄闇に紛れてシージャックされているタンカーに乗り込んだのである。
「運動神経もいいし、膂力もあるね。氷河、相当 身体を鍛えていたでしょう」
チェーン1本で海面からタンカーの甲板まで喫水20メートルを10秒かけずに登った氷河を、瞬は機嫌よさそうに褒めてくれた。
そういう瞬は 恐るべき敏捷さで 同じ作業を4、5秒で済ませていたのだが。
瞬は本気で褒めているのか、むしろ馬鹿にしているのではないか。
そんなことを考える時間も、もちろん氷河には与えられなかった。

「海賊は21名。これをせめて5、6人にしないと、大っぴらに暴れることはできない。人質を盾にとられたら つらいから、21人の海賊を一人ずつ静かに捕縛して、自由に動ける海賊を減らしていくよ。氷河、囮になって」
「囮とは何だ。瞬、一応 言っておくが、俺は一介の平凡なサラリーマンなんだぞ。いったい俺に何ができると――」
「多分、船長や航海士以外の乗組員は食堂あたりに集められて監視されていると思う。人数を考えれば、見張りは大挙して甲板に上がってくることはできない。僕がチェーンを使って見張りをおびき寄せるから、氷河は そこにいて、船室から階段をあがって甲板に出てくる海賊に、愛想よく笑って手を振ってくれればいいよ。海賊が氷河に向かったところを、僕が倒す」

氷河の訴えを、瞬は まるで聞いていない。
氷河は、任務のパートナーの質問もクレームも受け付けない瞬の指示に従うしかなかった。
つまり、愛想を振りまきたくもない面体の男たちに笑顔で手を振るという馬鹿げた仕事を、氷河は飽きもせず繰り返したのである。
甲板に上がってきた海賊たちは、引きつった笑顔で手を振る氷河の姿に ぎょっとして、ある者は その場に立ちすくみ、ある者は氷河に飛びかかってこようとした。
そんな海賊たちに声をあげる暇も与えず、瞬が そのチェーンを使って一撃で意識を奪い、捕縛する。
船首側の出入り口付近で7人、船尾側の出入り口に移動して10人を倒し、猿ぐつわをかませる。
コンプライアンス統括部内部監査3課のサラリーマン2人は、そうして武器を持った凶悪な海賊たちを17人、あっという間に捕縛した。

「あとの4人はブリッジだね」
おそらく すべて予定通り。
決して油断をしているわけではないのだが、瞬は、手足を縛った17人の海賊たちを甲板に転がすと、船の最上階にあるブリッジに悠々と歩いて移動を開始した。
氷河はといえば、そんな瞬のあとを、母親の背後に従うカルガモのヒナのように追いかけるしかない。
瞬は、自分が大した仕事をしたという意識すら持っていないようだった。

船を操船する上で重要な航海計器やその他の機器類・警報類が集中装備されているブリッジ。
そこには、あまり趣味がいいとはいえない柄のTシャツを着た横柄そうな男が4人と、制服を身に着けた船長、機関長、航海士が2人、計8人の人間がいた。
それを確かめると、瞬が氷河に次の指示を出してくる。
「いくら不法行為を平気でしている海賊でも、あの中で銃を発砲するほど馬鹿じゃないと思うから―― 1人お願いできるかな」
それは、海賊も発砲できないが 瞬もチェーンを振り回すことのできない場所で、残りの3人は瞬が倒すという意味なのたろうか。
あまりの異常事態に 逆に肝が据わりかけていた氷河は、
「2人いける」
と、初めて この仕事のリーダーの指示に逆らってみせたのである。

瞬は、そんな氷河に 嬉しそうに笑ってみせた。
その笑顔が、腹が立つほど可愛い。
内部監査3課の仕事が これほどの激務とは思ってもいなかったが、毎日ぐうたらしているばかりで高い給与をもらうのは、家族のために日々の業務に励んでいる他の社員たちに申し訳ないと思い始めていたところでもあった氷河には、むしろ これくらいの激務の方が精神衛生上は有難くもあった。
「他に駆けつけてくる仲間はいないから、静かにする必要はない。派手にやってもいいよ」
なかなか 魅力的な命令だと思い、氷河は瞬と共に勇んでブリッジに飛び込んでいったのである。
その30秒後には、私服組の4人は呻き声をあげて、芋虫のようにブリッジの床に転がっていた。

「大丈夫ですか。お怪我はありませんか」
ブリッジを占拠していた4人の海賊から武器を取り上げ、彼等の自由を奪うと、瞬はにこやかな笑顔で船長に尋ねていった。
こんな異常事態は しばしば起こることではないだろうに、瞬はすべてに手馴れていた。
「あ……あなたは」
「財団から、皆さんの救出のために派遣された者です。他の海賊たちは捕縛済みですから、もう ご心配はいりませんよ」
人は見かけによらないものであるが、女子高生のような顔をしている瞬は、あまりに外見を裏切りすぎている。
船長たちは、自分の命が助かったことより、自分たちが女子高生に助けられたことに(そう思わざるを得ない状況に)あっけにとられているようだった。

そんな船長たちの様子を見て氷河もやっと、外面の優しい印象を裏切る瞬の大胆不敵振りに驚くことができるようになったのである。
その時だった。
船尾から――むしろ船底から?――地鳴りのように不吉な音が響いてきたのは。






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